top learning-学習

『遥かなる空 泰緬鉄道-その生と死』小林弘忠を読書。

太平洋戦争時に泰緬鉄道建設に携わった二人の軍人を通し、極東国際軍事裁判の不当を訴えています。
日本軍人1万2千人、俘虜6万2千人、さらに現地人を含め17万人が動員され、様々な人の人生が、そこに有ったと思われます。

お勧め度:☆☆

○戦況
・1941年12月真珠湾奇襲。42年2月シンガポール陥落。
・1942年4月東京空襲。6月ミッドウェー海戦、8月ソロモン諸島で大敗。

○泰緬鉄道
・タイ・ノンプラドッグからビルマ・タンビュザヤまで総延長415Km。1942年6月着工、翌年10月完成。
・17万人動員。タイ側は鉄道第9連隊、ビルマ側は鉄道第5連隊が建設。コレラ、マラリア、過労、食糧難で日本軍人、軍属、俘虜(1万2千人)、現地人(3万2千人)が亡くなり、「死の鉄道」と呼ばれる。
・鉄道隊が所属する南方軍は大本営が、俘虜収容所は陸軍大臣が管轄。
・今も一部営業され、メクロン鉄橋、チョンカイ切通し、タム・クラセー桟道橋は観光地。映画『戦場にかける橋』が有名。
・使用された機関車C56が大井川鐡道と靖国神社に保存されている。

○鉄道隊樽本少尉
・1942年9月小隊長としてチョンカイ切通しの開削などに従事。
・1946年6月シンガポール裁判で俘虜を虐待し死亡させたとして無期懲役の判決を受ける。
・1955年10月減刑され巣鴨プリズンから出所。後半生は国鉄に勤務。

○鉄道隊弘田大尉
・小隊長として最難関のヒントク大岩貫通工事などに従事。
・1947年1月俘虜を虐待し非人道的に扱い死亡させたとして刑死。実際は工事に率先して当たり、俘虜には温情的であった。
・甥の家に手紙、遺書、詩歌など多くの遺墨が残る。

○俘虜収容所
・ジューネーブ条約(非批准)、陸戦法規(批准)に俘虜の取扱い規定がある。
・シンガポール裁判でチャンギー刑務所に日本人3千人が収監、うち2千人が泰緬鉄道関係者。また俘虜収容所関係者(タイ俘虜収容所長中村大佐など)に刑死者が多く、報復裁判とも。

○教誨師田中日淳
・南方軍の航空軍に所属。僧職を持つため1947年1月よりチャンギー刑務所の教誨師に。
・1947年9月帰国、刑死者の遺書などを持ち帰る。48年本門寺照栄院の住職に。83年チャンギー殉難者の慰霊碑を建立。

top learning-学習