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『都はなぜ移るのか』仁藤敦史を読書。

古代の都(倭京、難波京、近江京、新益京、平城京、恭仁京、長岡京など)を解説。特に飛鳥時代の都が中心。
倭京とは飛鳥に置かれた小墾田宮、岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮などの総称。豪族は本貫に居住していたため、広域分散的だった。
新益京とは藤原京の事。藤原京は近代になって作られた言葉。
飛鳥時代(592-710年)は、天皇が変わると遷宮し、豪族は本貫に居住。
奈良時代(710-794年)以降、天皇は内裏に住み、豪族(官人)は京域に居住。
このように都は隋・唐を模倣し、段階的に変化。

私見ですが、600年遣隋使(ペリー来航に相当)で海外文明に衝撃を受け、645年大化改新(明治維新に相当)で王権が強化され、以降改革が進展。
よって飛鳥時代は幕末・明治初期と類似していると思います。

お勧め度:☆☆(専門的で難しい)

○倭京
・6Cは磐余、7Cは飛鳥に宮が集中。推古の小墾田宮から持統の浄御原宮までは、大半の宮が飛鳥に置かれた。飛鳥は渡来人が多く、蘇我氏が誘致した。
・大王には名代・子代、舎人が仕えた。
・600年隋の高祖は、倭国の最初の遣隋使に位階・公服・儀礼を諭した。
・603年推古は小墾田宮に遷宮。大王の居住区に大殿(後大極殿が分離)、朝庭(政治の場)に朝堂が存在。
・630年舒明は飛鳥の岡本宮に遷宮。
・643年皇極は夫舒明の死後、飛鳥の板蓋宮に遷宮。645年大化改新。
・652年孝徳は外交施設がある難波の長柄豊碕宮に遷宮。
・656年重祚した斉明は飛鳥の後岡本宮に遷宮。西の広場には、槻木、須弥山、漏刻があり、ヤマト的な儀礼が行われた。
・667年天智は近江の大津宮に遷宮。遷宮理由は663年白村江の敗戦、豪族との対立、水運・交通の改善などが有力。冠位を中国流の26階に拡大。
・672年天武は飛鳥の浄御原宮に遷宮。683年難波宮を副都とするが、686年焼失。

○新益京
・689年持統は飛鳥浄御原令を制定。690年新益京を造営(十条十坊の条坊制で平城京、平安京より大)、691年位階に応じ宅地班給(不完全)。694年中央の藤原宮に遷宮。
・701年文武は大宝律令を制定。704年大宝令に従って宅地班給。新益京は山地も多く、豪族の京域集住も不完全。

○平城京、平安京
・708年元明は平城遷都を宣言。造宮卿、造平城京司を任命。古墳は喪葬令により破壊。710年遷都。当初三宮が存在し、中宮問題があった。
・740年聖武は恭仁京に遷都。遷都理由は豪族(官人)の京域集住の強制と元正上皇からの政治的独立など。745年平城京に戻る。
・784年桓武は長岡京に遷都。793年難波宮を廃止、副都制から単都制に移行。794年平安京に遷都。豪族(官人)の京域居住が確立。

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