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『宗教改革の真実』永田諒一を読書。

ルターの宗教改革によりカトリックとプロテスタント(宗教改革派)の対立が始まる。
その16世紀の対立を民衆レヴェルで解説。ドイツ南部にあり著者が研究滞在したアウクスブルクを中心に解説。
内容が具体的で分かり易いユニークな本。

お勧め度:☆☆☆

○社会史
・歴史学は政治や大事件などの変化を追及。一方、雑誌『アナール』に始まる社会史は、民衆レヴェルの「変化しないもの」を追及。
・宗教改革の起点(1517年万聖節の前日、ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヵ条論題」を貼付した)は史実でない。

○活版印刷術
・15C中頃のグーテンベルクの活版印刷術は活字/インク/紙の改良技術の集積。エジソンの電球や蓄音機と違って発明ではない。
・宗教改革は活版印刷術あってこそ。宗教改革後、数年で印刷物の種類が10倍に増加。

○識字率と書物
・16C初のドイツでの識字率は3~4%(都市で5%)と推定。宗教改革派は牧師による集団読書や絵入り冊子で民衆に思想を広めた。絵には一目で分かる記号を使用(法王は三重の王冠を被るなど)。

○ラテン語
・当時の学問書はラテン語で記述され、学問にラテン語が不可欠。聖書を日常語に翻訳する試みは異端として弾圧。

○信仰
・ルターは「救いは日頃の行為ではなく、神を信じること」と説いたが、民衆は素朴な熱意で贖宥状(免罪符)販売や聖遺物拝観に反感。

○聖画像破壊
・宗教改革支持者は聖画像(キリスト、聖母、聖人の像)の破壊、修道士の還俗、聖職者の結婚、ドイツ語によるミサなどを行った。
・カトリックは権威を高めるため教会を聖画像や装飾品で飾った。宗教改革派の地域では教会芸術職人が失業。

○修道士還俗、聖職者結婚
・修道士だったルターは修道士制自体を否定。1525年本人も元修道女と結婚。
・聖職者は結婚できなかったが、愛人や召使いを持った。1582年ケルン大司教(ドイツ皇帝の選帝侯7人の一人)は愛人と結婚するため宗教改革派に改宗。

○宗教改革の推移
・1524年ドイツ農民戦争で農民側が敗北。
・1555年アウクスブルク宗教和議-領邦では君主が宗派を選択。自由都市は現状維持(カトリック10、宗教改革派30、両宗派併存20)。

○自由都市アウクスブルク
・南ドイツ経済の中心都市で両宗派が併存。
・1548年カトリックは聖ウルリヒ教会を所有し主教会堂を使用、宗教改革派は説教会堂を使用。1550年帝国議会時スペイン軍が説教会堂を破壊。1593年主教会堂と説教会堂、1599年中庭の改修で市政府が両宗派を調停。1648年ヴェストファーレン講和で分割所有に。

○異宗派間の結婚
・秘蹟(サクラメント、聖礼典)には洗礼、堅振、婚姻、終油、告解、聖餐、叙階がある。
・両宗派併存のアウクスブルクでは両宗派が「結婚には市政府の許可が必要」を承認。しかし改宗を偽装して結婚し、市外追放された事例がある。

○改暦
・1582年法王がグレゴリウス暦導入を発布。グレゴリウス暦はユリウス暦をより正確にした暦。ドイツ、オランダでは1583年カトリック諸侯、1700年宗教改革派諸侯が導入。
・両宗派併存のアウクスブルクでは宗教改革派のキリスト昇天祭日がなくなる問題が発生。

○行列
・カトリックは行列を吉例(良い行い)とした。
・自由都市ドナウヴェルトは宗教改革派だがカトリックも許容。1606年大祈願祭の行列が聖十字架修道院を出発、恒例の順路ではなく市の中心部を通過し、宗教改革派が罵声。行列の帰路、宗教改革派が城門を閉め騒擾に。
・自由都市ドナウヴェルトは告発され帝国宮廷顧問会議から「帝国追放」に。1607年カトリックのバイエルン公が占領し領地化。

○終章
・宗教改革は贖宥状/聖画像/修道士制の撤廃や聖職者の結婚を改革。
・宗教改革により西ヨーロッパは単一宗教社会から複数宗教社会に変化。

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