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『人は時代といかに向き合うか』三谷太一郎を読書。

著者の随筆30編から戦後、知識人の時代観、田中・丸山の近代批判、歴史的使命、史料を論じる。
歴史、政治、法学、哲学、文学に通じていないと理解が難しい。しかし読むにつれ著者の思想の根底が分かった気がする。
冷戦後も戦後と考えるべきか。
最近司馬遼太郎、松本清張等の本格的歴史小説を読んでいない。そんな作風の作家、近年いるのかな。

お勧め度:☆☆(抽象的な単語が多く、読んでいて笑いが出るほど難しい)

○一国近代化路線の終焉
・国際協力が必要な今日は国益優先でなく国際共同体の組織化が必要。

○冷戦
・第二次大戦後、日本は「組織化の時代」で一党優位、冷戦後は「非組織化の時代」。第二次大戦後、米国は対ソ戦略で日本・独国の経済復興を重視。
・60年安保は軍事提携より経済提携を強化。駐日米国大使は論功行賞、例外は安保改定後のライシャワー大使で日本専門家。
・冷戦終結により日米関係は経済協調関係から経済競合関係に。また南北・東西の壁が崩壊しグローバル化。
・日本はグローバル化により政官業複合体が縮小(非組織化)。選挙制度、行政、金融、地方分権、司法、教育等の改革が行われる。

○政治社会の没落
・政治社会は19Cを経て「コンスティチューション」から、市民不在で諸機能が統合された「社会システム」に。これは信条(精神的紐帯)の解体が原因。
・君主制を動かすのは名誉、今日の共和制を動かす政治的徳を何に求めるかが、今問われている。

○二つの戦後
・日露戦争、第一次大戦後(第一)には大正デモクラシーが、第二次大戦後(第二)には戦後デモクラシーがあった。
・西欧は第一でブルジョワ西欧が団体主義西欧に変化。米国は第一、第二共に西欧の信用回復に尽力。
・第一では私的軍事組織が、第二では国家軍事組織が強化され、労使協調も見られた。
・日本では原が欧米旅行し対米協調(ワシントン体制)と政党制確立を確信。第二でのデモクラシーは親英米派によって行われた。第一では軍縮から軍拡に、第二では軍事力より経済力が強化された。

○吉田茂-ダワー『吉田茂とその時代』、猪木正道『評伝吉田茂』より
・戦後復興はダワーは吉田の「帝国意識」で、猪木は吉田の自由主義的保守主義で実現したと考察。
・1906年東大卒業後、外交官に。奉天総領事在任中、帝国意識を培養、積極政策を提言。伝統外交(同盟外交)が基本。
・ロンドン軍縮条約時、外務次官として政府と海軍間を調整。1932年グルー駐日米国大使と対英米協調に尽力。二・二六事件後は粛軍となった皇道派に接近。
・1936年駐英大使に就任、反ソ反共で日英協調に尽力。1939年退官、その後も対英米関係を調整。
・近衛上奏文の「敗戦より共産革命を恐れる」は吉田の考えと一致。
・1946年近衛、幣原、鳩山の代役として首相に。主権と独立の回復を優先し日米安保条約の伏線を張る。

○スペンサー
・法の進化は儀式→宗教→政治と変遷する「統制システム」に依存。自由主義的(反国家的)思想は自由民権運動を刺激。歴史主義的思想(軍事型社会→産業型社会)は日本近代化に影響。

○勝海舟
・日朝清三国提携を将軍家茂に提言、長州再征に反対。軍事と財政は不可分と考え日清戦争も否定。1899年日本は外債を発行、債務国となる。

○内村鑑三
・宗教の審美的倫理を重視。1891年不敬事件で教員を辞職。日清戦争は正義から義戦とした。

○吉野作造
・1916年『中央公論』で民本主義を論じる。民本主義は「同意による統治」が本質的要素。津田左右吉、森鴎外、夏目漱石、永井荷風も、この頃活躍。
・吉野もレーニンも日露戦争を「進歩」と「専制」の闘いと認識し、ロシア(ツァーリズム)の崩壊を願望。
・民本主義は人権主権でも専制主権でも成立する。また政治の方法であって、目的ではない。民本主義は人格主義が精神的基礎。政党の役割を認めるが、民衆の政党化は否定。
・政党制実現で民本主義が運動のイデオロギーから体制の原理に転化する中、無産政党の育成に乗り出す。

○南原繁
・東大総長時代から国民的指導者。内務省事務官時代に起草した労働組合法案は評価された。
・南原宛書簡には内村鑑三、美濃部達吉、津田左右吉からの書簡が含まれ、吉田茂が道徳基準の立案を求めた書簡もあった。

○中江丑吉
・ラディカルな開明性、市民性を持った。ヘーゲル的方法(現実から真実を導く)で中国を認識。
・中江と永井荷風は経歴、境遇、態度、主義主張等で共通点が多く、アウトサイダーとして共感を持った。

○田中耕太郎
・カトリックの立場から「教養と文化の時代」を批判。「ソフィストの時代」の原因は確固たる世界観を持たない「思想的アナーキー」。
・自然法は国家を拘束し、文化の形成を方向付ける。
・超国家主義批判、社会契約説批判、人民主権説批判等の近代批判を行った。
・西洋・中国を検証し、自然法(習慣法)、成文法の必要性を確信。法哲学と実定法学から「世界法」の理論的可能性を模索。
・カトリックの権威を否認するプロテスタントの個人主義と学問・文化からの分離を批判(新カント派批判、純粋法学批判)。
・超国家主義は普遍的基準を持たず、道徳・宗教・人格は手段とされ、国家自体が自己目的化する。
・現行憲法前文の「人類普遍の原理に基づく」は自然法思想を認めた証拠。基本的人権の保障は自然法の一部だが、その内容は批判。
・スコラ的自然法思想のボアソナードを評価。

○野田良之
・自然法は具体的な歴史法を評価する基準であるが、恒久不変ではない。ラトーブルフと同様、「共同体における人格」を追及。

○中国
・特殊な近代史のため法律専門家は政治階級とならず、むしろ異端的だった。これは国家や政府よりも家族や個人を重んじるため。
・田中耕太郎は中国で西洋的な商法を受容できるか、法家思想に着目し調査。株式会社は中国人の心理に適合しないとした。しかし文化大革命での孔子批判や法家思想をイデオロギーとした始皇帝への評価等で中国は「法家の時代」を迎えつつある。

○福沢諭吉『文明論之概説』
・古典は自分自身を現代から引き離し、現代を批判する立場を与える。
・江戸期儒教研究から、儒教的思惟様式(理論体系ではなく常識化した思惟範型)が問題とした。
・主権的国民国家の形成のため欧州文明の精神を採る事を「議論の本位」とした。
・自由主義者としての自由は古代的自由、教団の自由、内面的自由ではなくゲルマン的自由。
・政府と国民の対立的統一が近代国家だが、日本は政府あって国民なし。
・「人心の改革、次に政令に及ぼし、終に有形に至る」をテーゼとし、貿易・金融自由化に反対。
・アジア間の戦争(征台・征韓)は軍事費の支出で欧米への経済的依存・従属を増大させるとして反対。
・幕藩時代は官僚として国際貿易・金融の拡大論者だったが、維新後は知識人として反対に転換。

○丸山眞男『戦中と戦後の間』
・著者にとって本書は新鮮かつ古典性を帯びる。本書の文章は記憶される文章で古典である。
・精神的分野は近代化されなかったため、明治の問題は同時代の問題とした。
・儒教的思惟様式の自己解体は近代化ではない。自由民権運動の自由も「感性的自由」であって「理性的自由」でない。
・民主主義は「少数者からの権利」から出発する。この思想はエリートと大衆の接点にあるリベラルの視点。

○森鴎外
・学術的歴史(史実?)でもフィクションでもない「史伝」と言うジャンルを開拓。
・自分との共通点(文学者かつ官吏。隠居)から知名度の低い渋江抽斎の史伝を著す。史伝では彼の没後についても記述。明治以降の啓蒙主義的・功利主義的・実用主義的な学問を批判。
・渋江抽斎は江戸詰の弘前藩士、1844年幕府直参に。藩を超えた知的共同体は、やがて討幕派等の政治的共同体に発展。森は共同体の価値を再発見した。
・『あそび』で自身(文学者かつ官吏)を表現。
・大逆事件は森、永井荷風等の文学者に精神的ストレスを与えた。
・『かのやうに』で「無いものを有るように考えないと、理論は成立しない」と記し、近代化に導いた天皇制を肯定。
・東京日日新聞は森『渋江抽斎』を連載。対抗する朝日新聞は夏目漱石『明暗』を連載。
・渋江抽斎に自分を超えた「用無用を問わない」考証学的学問観を見出した。

○栗本鋤雲
・箱館在任中、仏人宣教師カションと交際。1863年江戸帰還後、軍艦奉行、外国奉行に就く。犬養毅、尾崎行雄は幕府に殉じた栗本を評価。島崎藤村、永井荷風も栗本の生き方を評価。

○史料
・歴史研究家にとって史料は重要。著者は国会図書館で『佐々友房関係文書』『倉富勇三郎日記』に出会う。
・政治家の日記には2種類あり、情報専門家としての日記『松本剛吉政治日誌』『西園寺公と政局』『木戸幸一日記』と、政策決定者の日記『原敬日記』がある。
・外務省外交文書室(現・外交史料館)に栗原健が務められ、著者は『松本記録』等を利用した。
・新聞は政治史・外交史研究家にとって第一級史料ではないが、事実を意味づける歴史的文脈を認識させる指標となる。
・宮崎外骨は関東大震災の反省から明治新聞雑誌文庫を提唱。
・石川淳は『白頭吟』で安田・原の暗殺を親子の政治的・世代的ディスコミュニケーションとして著す。
・戦争時代、永井荷風等の文学者は精神的苦悩を受ける。日中戦争後、輸入や快楽は民需から軍需に充てられた。著者にとって『荷風日記』は「座右の史料」。
・1940年天皇が東大に行幸。東大法学部は「憲法発布万民歓喜」を展示。著者は当日馬場辰猪の墓に参った者がいたエピソードを聞いた。
・天保改革を断行した鳥井忠輝の墓所近くに、4歳で亡くなった鳥井の次女の墓があった。その墓標は鳥井が記した。

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