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『日記で読む日本史11 平安時代の国司赴任』森公章を読書。

第1部で国司平時範の因幡赴任を、第2部で地方豪族(因幡国造、伊福部臣)を解説。
平安時代の地方統治の様子(受領交替、神事、徴税、因幡国造衰退、平氏の台頭等)が分かる。

お勧め度:☆☆(詳しいので平安時代に関心が高い人向け)

○プロローグ
・第1部の平時範は桓武天皇の孫・高棟王を祖とする文士の桓武平氏で、摂関家藤原師通・忠実に仕える。
・時範が記した日記『時範記』(1075~08年)から因幡守としての赴任(1099年2~4月)を解説(1086~1129年白河上皇院政)。
・国司は四等官(守・介・掾・目)で国務に責任を負った。後司への受領交替は重要で受領功過定に影響。『朝野群載』の「国務条々」を参考に解説。
・第2部では地方豪族伊福部臣を系図『因幡国伊福部臣古志』(以下『古志』)等から解説。

○任命
・1098年7月時範が因幡守になる。除目の時期になると主人の受領を期待して人々が参集。

○下向
・1099年2月8日公卿(藤原師通等)に挨拶。天皇への挨拶(罷申)は前年に実施。9日出発、山陽道を経て14日因幡国境に到着。全行事の日時は陰陽師に相談。

○着館
・2月15日入境。国府の惣社で印と鍵を受領。目代保清、陰陽師久宗等を郎党として随従。

○儀式
・2月26日惣社、宇倍社、坂本社、三嶋社、賀呂社、服社、美歎社を巡拝(神拝の儀)。
・3月2日調所、出納所、案主所、税所が吉書を申上し、返抄に請印(政始の儀)。

○行事
・3月6日宇倍宮で仁王会を挙行(降雨祈願?)。3月15日宇倍宮で臨時祭を挙行。翌日より国務開始。郡司が提出した「利田請文」を宇倍宮に奉幣。宇倍神社は因幡国の「一宮」で伊福部臣の介久経が筆頭社司。

○帰京
・3月27日国府出発、4月3日帰京。

○地方豪族
・『古志』は伊福部臣の系図。初代大己貴命(大国主神)、26代都牟自は孝徳期の水依評の長官、39代介久経は一神主。
・4C後半~6C千代川周辺に前方後円墳等が築造される。八上郡・高草郡では因幡国造が、法美郡・邑美郡では伊福部臣が勢力を有した。

○因幡国造
・『万葉集』に安貴王(694年~)が八上采女と結婚したとある。『日本後記』に桓武天皇(737~806年)が高草采女国造浄成女を寵愛したとある。
・756年因幡国造勝磐が東大寺に依頼され、高草郡高庭庄の墾田を開発。
・1005年橘行平が因幡守に。任初、諸国申請雑事(調・庸の代納)を奏上。行平は受領交替完了の解由状を前司藤原惟憲に出さない問題を起こす。
・1007年介因幡千兼を殺害し百姓が内裏に参集(千兼は因幡国造の有力者で以降衰退か?)。その後行平は歴史から姿を消す。

○伊福部臣
・708年采女として京で死去し因幡で火葬された伊福吉部徳足比売の骨蔵器が宇倍神社で発見される。
・平時範が因幡守の頃、介久経は「一宮」宇倍神社の筆頭社司で案主所の上首者。この頃には伊福部臣は郡領氏族から国衙官人に転身していた。
・相撲も武芸の一つで、『長秋記』1111年に相撲人・服常方、服助常(伊福部→服)の記述がある。常(経)方は介久経の弟と推定される。
・伊福部臣は神職や武士として存続、『吾妻鑑』に鎌倉幕府の御家人として活躍した記述がある。

○エピローグ
・1110年藤原宗成が因幡守になる(宗成は権中納言藤原宗忠の子で、宗忠が知行国主と推定される)。後司への受領交替で問題が発生したが宗忠が取り計らった。
・地方統治には武士と文士の結合が必要で、桓武平氏・平清盛の台頭の原因はここにあったと思われる。

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