『馬と人の江戸時代』兼平賢治を読書。
江戸時代の馬と人との関係を解説。特に藩主が南部家の盛岡藩を中心に解説。
江戸時代だけでも馬に対する対応が変わって行くのが分かります。
馬、武士と馬、農民と馬に関心がある人向け。
お勧め度:☆☆
○馬と人
・「東は馬、西は牛」と云われ、東北には「チャグチャグ馬コ」や相馬野馬追の行事があり、一戸~九戸の馬の産地があった。
・牧で飼育される馬を野馬、領民が飼育する馬を里馬、牝馬(オス)を駒、牝馬(メス)を駄と云う。
○将軍と馬
・信長、秀吉、家康は大名に馬や鷹を献上させた。幕府は八朔の儀式で朝廷に馬を献上。武士は弓馬が重んじられた。
・幕府は馬購入のため盛岡藩・仙台藩に「公儀御馬買衆」を派遣。1680年綱吉が派遣した御馬買衆は盛岡藩で853頭を見分し、23頭を購入。
○綱吉
・「生類憐みの令」は殺伐とした気風から慈悲を涵養するための法令。綱吉は見掛けのために筋を切る「拵馬」を禁止。荷物の重量を40貫目(150キロ)に制限する法令も制定。
・1691年購入方法を変更。盛岡藩・仙台藩が見分した目録から幕府が選定する方法に。
○吉宗
・馬好きの吉宗は購入する頭数を増やした。また直ぐに乗馬できる成長した野馬に変更。幕府牧(千葉県小金、佐倉、嶺岡)を再編成。
○武士と馬
・盛岡藩は南部九牧で馬を飼育。牧は牡馬1頭と牝馬複数で構成。
・盛岡藩の馬術には大坪流・一和流があった。
・盛岡藩は100石以上の藩士に役馬の所有を義務付けたが、1695年元禄の飢饉で300石以上に軽減、1848年異国の脅威で200石以上に戻す。
・馬を治療する馬医や調教する馬責がいた。南部家は御馬買衆黒沢家と懇意で、黒沢家の紹介で多くの牢人を召し抱えた。
○農民と馬
・馬の糞は発酵性が高く、寒冷な東北に適した。
・盛岡藩も新田開発で小家族に分裂(1651年3.9万軒→80年4.8万軒)、農馬も増え、馬と一緒に暮らす南部曲家が普及。65軒の火事で馬153頭が焼死と記録にある。
○馬と自然環境
・「馬喰」が東北と関東を往来し馬を売買。火事や渡船の転覆で馬が死んだ記録がある。城下では放馬(手綱を牽かない)を禁止した。
・蝦夷地には馬が少なかったが、有珠、虻田に牧が開設され増えた。1801年異国の脅威で蝦夷地(箱館)が幕府直轄地に。
・牧では野焼きが行われた。昼は馬を野に放ち、夜は狼や熊から保護するため小屋に入れ、厩肥を得た。
・江戸時代に四大飢饉(元禄、宝暦、天明、天保)があった。宝暦の飢饉で鹿肉に馬肉を混ぜて販売した記録がある。天明、天保の飢饉では人肉を食した記録もあり、馬肉も食した。
・馬が死ぬと埋めていたが、19Cになると被差別民が皮を剥ぎ武具(胴乱、玉入れ)に、尾毛は筆・糸・刷毛・網に利用。
○共生
・「火事の際は家財より牛馬を大切にせよ」の指示もあり、人馬一体だった。
・明治政府は富国強兵で馬耕を奨励し、軍馬の増産・品種改良に努めた。