『<階級>の日本近代史』坂野潤治を読書。
明治維新から日中戦争開始まで70年間の政治を階級を観点として解説。
1925年普通選挙で「政治的平等」を獲得、37年日中戦争開始頃「社会的平等」獲得の流れがあったと解説。
長期間で内容も詳しいが、流れを掴むには最良。
お勧め度:☆☆☆
○はじめに
・保守と革新の違いは中間層のどちら側に重きを置くかにある。
・今日まで「平和と自由」は擁護されたけど、「平等(格差)」はないがしろに。
○士族と農村地主-国会開設前
・武士には多くの格式があり、高遠藩は38等級、倒幕した薩摩藩は12等級、長州藩は14等級と少なかった。秩禄処分で藩主は35万円、下級藩士は350円で千倍の格差があった(今の大会社社長とワーキングプアの格差は100倍位)。
・武士から士族になった者は40万人。自由民権運動の板垣・愛国社(国会期成同盟、急進派)と福沢・交詢社(穏健派)の多くは士族で、自由民権運動の主導権争い。1880年国会期成同盟は「国会開設請願書」を提出。翌年「国会開設の勅諭」が出る。
・1873年地租改正で地主は地価の3%を納税(77年2.5%に減税)。80年代前半の「松方デフレ」で農民は没落し、寄生地主が生まれる。90年衆議院選挙は農民540万人中、被選挙権者は50万人、有権者は90万人。農民間にも格差があった。
・国会開設前、大同団結運動、三大事件建白書(条約改正、言論自由、地租軽減)の民主化運動が起こるが、安保条例で崩壊。
・1890年最初の総選挙の有権者90万人の大半は農村地主。当選した代議士の1/3が士族で2/3が農村地主。よって第一スローガンは地租減税に。
○農村地主-国会開設後
・国会開設頃、地租は直接国税の95%を占め、地租減税(2.5%から2%)は重要な課題。自由党、改進党は政費節減で「小さな政府」、政府は富国強兵で「大きな政府」。衆議院解散か内閣総辞職を繰返し、議会政治は「決められない政治」で始まる。
・日清戦争の賠償金(国家予算の4倍)と米価高騰(3倍)による農村地主の富裕化で、板垣・自由党は「小さな政府」から酒税増税・インフラ拡充(鉄道、電話)に方向転換。1896年板垣は第2次伊藤内閣に内務大臣として入閣するが、直ぐに内閣総辞職。
・1898年自由党と進歩党(旧改進党)は憲政党を結成、議会の2/3を占め、日本最初の政党内閣(大隈内閣)が成立。地租微増ではなく、酒・煙草・砂糖を増税。
・星亨は憲政党から旧進歩党を締出し、「積極主義(地租微増、地方振興)」で憲政党は万年与党(保守党)に。
・1900年憲政党は立憲政友会(以下政友会)に改名。星を継いだ原敬により、桂(軍閥・官僚閥)と西園寺(政友会)が交互に組閣。政治的に安定(01~12年桂園時代)。
・憲政擁護運動で1913年桂内閣、翌年山本内閣(政友会系)が倒れる。
○資本家-普通選挙
・吉野作造は農村が地盤の政友会の一党支配を変えるのは普通選挙制と説く。1917年直接国税で所得税が地租を上回る(20年には所得税が地租の2.5倍に)。20年米価は第1次世界大戦前の2.7倍に高騰。米の生産者は潤い、消費者は米騒動を起こす。
・1920年原・政友会はインフラ整備(鉄道、通信)を掲げ、総選挙で圧勝。政友会内閣(原、高橋是清)は協調外交。
・1924年護憲三派(加藤高明・憲政会、高橋・政友会、犬養・革新倶楽部)が総選挙で勝利。25年男子普通選挙法が成立。有権者は4倍(1千2百万人)に。
・1925年治安維持法は普通選挙法と同時に成立。同法で「国体の変革」と「私有財産制度の否認(社会・共産主義)」は犯罪に。
・労働組合公認と失業問題が存在。内務省社会局には労働組合公認を主張する官僚がおり、労働組合総同盟(労働組合右派、以下総同盟)も同様だった。
・1927年憲政会と政友本党は立憲民政党(以下民政党)を結成。日本経済は民政党内閣(浜口、若槻)の金解禁、世界恐慌で大打撃。民政党は資本家政策で総同盟の期待(労働組合公認)を裏切る。
・1932年犬養内閣(政友会、最後の政党内閣)は積極財政を掲げ総選挙で勝利。
○階級の多様化-軍部の台頭
・民政党内閣(浜口、若槻)は最も「平和と自由」な内閣であったが、1930年ロンドン軍縮条約で軍部が政治に関与、31年満州事変を起こす。
・美濃部達吉は軍国主義批判から「軍部大臣の武官制の撤廃」を提唱。
・当時は労働争議・小作争議は増加、治安は悪化(10月事件)、幣原協調外交は満州事変で崩壊。
・1932年積極財政の犬養内閣(政友会)は総選挙で圧勝するが、五・一五事件で総辞職。挙国一致の斎藤内閣が成立。
・1932年社会主義諸党は社会大衆党(以下社大党)を結成。
・美濃部達吉は「円卓巨頭会議」、社大党は「国民経済会議」を提唱。
・1935年岡田内閣は内閣審議会、内閣調査局を設立し、「陸軍統制派」と内務官僚「新官僚」に経済財政政策を主導させる。総同盟は労働者・農民の不参加と財閥の参加を理由にこれを批判。
○社会的平等-日中戦争
・1936年ファシズムを進めた政友会は総選挙で負け、民政党が僅かに勝利。直後に二・二六事件が発生し、挙国一致の広田内閣が成立。斎藤隆夫(民政党)は議会で反ファシズム・自由・平和を演説するが、平等には言及せず。
・麻生久(社大党)は議会で陸軍の「広義国防」を支持。退職金積立法案で内務省社会局、社大党と資本家連合の全産連は対立。
・1937年社大党は「広義国防」を支持し、総選挙で議席を倍増。「国家社会主義」から「社会民主主義」に転換。
・1937年偶然の盧溝橋事件で日中戦争が勃発、必然の太平洋戦争に繋がる。翌年国家総動員法で総力戦体制に。日中戦争前の自由主義体制では「格差是正」は進まず、総力戦下の「戦争と独裁」で「格差是正」が進む。