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『満州事変はなぜ起きたのか』筒井清忠を読書。

太平洋戦争の遠因となった満州事変が起きた背景を解説。日露戦争から満州事変の間、日本、英国、米国などが中国に取った行動を解説。
原因を簡潔に云うと、中国に対する領土的野心が日本が一番強く、排日運動が盛んとなり、それに対し軍部が暴発した。
1920年代は日本に取って重要な時期と思います。本書は外交が中心なので内政についは殆ど書かれていませんが、この時期に2大政党政治が始まるが、それに対し国民の不満が強く右傾化した時期です。

お勧め度:☆☆☆(大変詳しく絶賛できる。問題は同時並行で起きた様々な事を読者が理解できるか)

キーワード:日露戦争、日比谷焼討ち事件、21ヵ条要求、5・4運動、ワシントン会議、国権回収、公共合作、幣原喜重郎、蒋介石、済南事件、張作霖爆殺事件、関税自主権、治外法権、重光葵、満州事変

○日露戦争直後
・日本は日露戦争で関東州(旅順・大連など遼東半島先端)と南満州鉄道(満鉄)を獲得。この時満鉄を米国鉄道王ハリマンと共同管理する覚書があったが、小村寿太郎は破談させる。また陸軍が満州から撤退しない問題があったが伊藤博文が撤退させる。
・1905年講和条約に反対し「日比谷焼討ち事件」が起こる。これは護憲運動、米騒動、反排日移民法運動に繋がる最初の大衆暴動。

○第1次世界大戦(21ヵ条要求)
・1915年日本と中国は「21ヵ条要求」に調印。この時第5号(政治・経済・軍事顧問の派遣)は削除された。
・1919年パリ講和会議で日本の山東権益が認められ、中国で「5・4運動」が起り、中国は調印を拒否して帰国。

○陸軍
・この頃北方には安徽派(段祺瑞)、直隷派、奉天派(張作霖)、南方には孫文がいた。日本は辛亥革命(1915年第三革命)に軍人を派遣したり、段政権に借款するなど支援した。日本と中国はお互いに利用し合っていた。

○人的交流
・科挙の廃止で外国留学が官吏の条件になり、日本への中国人留学生が増える。逆の中国政府の日本人雇用も増える。

○暴力事件、日貨排斥運動
・1913年日本人に対する暴力事件(漢口事件、兗州事件、第1次南京事件)、15年「21ヵ条要求」から日貨排斥運動、19年パリ講和会議から「5・4運動」が起こる。この背景に米国ウィルソン大統領が提唱した「民族自決」があった。

○日米関係
・1908年米国ローズベルト大統領は日本人移民排斥事件に柔軟に対応。15年ウィルソン大統領は日本の「21ヵ条要求」に明白に抗議。

○ワシントン会議
・1921年米国ハーディング大統領は海軍軍縮、極東問題でワシントン会議を開催。太平洋に関しては「4ヵ国条約」、中国に関しては現状維持で「9ヵ国条約」を締結。その他に海軍軍縮、山東返還、付加税、シベリア撤兵などを締結。本会議は協調的で中国にとっては不平等条約改正の切っ掛けとなった、ただしソ連、ドイツは不参加であった。

○日米関係-排日移民法
・1924年米国で排日移民法が成立。日本では反排日移民法暴動が多発する。

○国権回収運動
・長沙事件(1923年)、商租権(土地貸借権)問題、鉄道権問題、教育権回収運動などの排外運動が激化。

○公共合作、5・30事件
・1924年国民党は国共合作を決定。25年列強の紡績工場でストが多発(5・30事件)。列強(幣原喜重郎など)は不平等条約改正(関税、治外法権)を条件に解決に当たる。

○北伐、南京事件
・1926年蒋介石は北伐を開始。27年北進中の北伐軍が南京にて列強の領事館を襲撃(第2次南京事件)。同様な事件は漢口でも起こる。

○済南事件
・1928年5月済南にて北進中の北伐軍と山東出兵した日本軍が衝突。排外運動の主対象が日本になる。

○張作霖爆殺事件
・1928年4月北伐軍は北京に入城。6月張作霖は満州に帰る途中、日本軍に爆殺される。中国の対日不信はさらに深まる。

○中ソ戦争
・1929年7月中国の共産主義者追放・国権回収から中ソが開戦。ソ連が勝利。

○ワシントン体制
・1925年「9ヵ国条約」に従い「北京関税特別会議」が開かれるが、段政権の崩壊で休会となる。26年英国は単独で中国の関税自主権を認める(12月メモランダム)。28年米国も単独で国民政府、関税自主権を認める(米中関税協定)。米国が親中だったのは中国における米国人宣教師による。

○日中関係
・米英の対中交渉が進む中、日本は済南事件の解決に難航。1929年5月日本・重光葵、中国・王正廷で調印に至る。難航した原因に日本には枢密院、中国には元老クラスの守旧派の存在があった。

○日貨排斥運動
・排日貨により日本の対中貿易は減少。満鉄の収入も半減していった。

○長沙暴動
・1930年4月馮玉祥らが反乱を起こす。これに乗じ共産党も蜂起する(7月長沙暴動)。
・1930年9月張学良は国民党の支配下に入る。1931年2月満州の都市に国民党の党部が設立され反日活動が活発化する。松岡洋介は「満蒙は日本の生命線」と発言するが、国際的に理解を得られる発言ではなかった。

○満州事変直前
・1931年王正廷は5段階の革命外交を発表(①関税自主権回復②治外法権撤廃③租界回収④租借地回収⑤鉄道利権などの回収)。反日活動はさらに活発化する。
・1931年9月関東軍は列車を爆破し、軍事侵攻を開始する。

○日本の問題点等
・ワシントン会議で民族自決が提唱されたが、実態は各国バラバラだった。
・国際連盟で理事国になり重要な地位を占めるが、「不戦条約」には消極的だった。
・張作霖爆殺事件、満州事変など謀略が多く、国際的に大国として認められなかった。
・陸軍は下級軍人を統制できず、張作霖爆殺事件、満州事変などの謀略を許した。
・日比谷焼討ち事件、護憲運動、米騒動、反排日移民法運動など大衆世論を制御できなかった。

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