『政治改革の熱狂と崩壊』藤井裕久を読書。
1977年参議院議員に初当選以降、田中角栄、小沢一郎に従い政界を見てきた藤井裕久が政治を語る。
藤井は大蔵省出身であり、消費税導入・福祉目的化を理念とする。また熱狂後の負の遺産を懸念。
お勧め度:☆☆(大著)
キーワード:熱狂、田中角栄、消費税、大蔵省、秘書官、変動相場制、ハイパーインフレ、資源外交、日本列島改造、三木武夫、福田赳夫、竹下登、社会福祉、大平正芳、中曽根康弘、増税なき財政再建/行政改革、売上税、プラザ合意、バブル経済、リクルート事件、政治改革、小沢一郎、非自民連立政権、福祉目的化、国民福祉税、新進党、自由党、自自連立政権、民由合併、民主党、政権交代、小選挙区制度、金融緩和、集団的自衛権、戦争責任
○はじめに
・70年代は田中角栄が「今太閤」ともてはやされた熱狂の時代。その後物心均衡の時代に入り、田中政治は金脈問題を批判され、消費税が置き土産となった。
○角福戦争
・1955著者は年東大法学部卒業後、大蔵省に入省。当時の省是は「財政健全化、適正な低金利、公平な税制」であり、また「政治に興味を持つな」が方針であった。71年佐藤内閣の竹下官房長官の秘書官として政治に身を置く。
・72年7月田中角栄は総裁選で佐藤前首相が押す福田赳夫に勝利し首相に。著者は引き続き二階堂官房長官の秘書官になる。62年田中は大蔵大臣になるが、役人に仕事しやすい環境を作るタイプであった。田中の冠婚葬祭の包みは佐藤の3倍であった。田中は官僚の前例踏襲・無責任体質・セクショナリズム・上から目線を嫌った。田中は『日本列島改造論』にあるように新幹線整備・高速道路建設と公共事業に予算をつぎ込んだ。田中には新潟の雪、群馬のからっ風を防ぐため「谷川岳をぶっ潰す」の発言もあった。73年に入ると物価が高騰、10月第4次中東戦争によるオイル・ショックでインフレはさらに加速。田中政治は「昭和元禄のシッポ」(高度成長のシッポ)であった。
・一方福田は戦前の主計官の経験から均衡財政・インフレ抑制・安定成長を路線とした。
・71年ニクソン大統領はベトナム戦争による財政赤字、国際収支悪化から金兌換を停止(ブレトンウッズ体制→スミソニアン体制)。73年さらに変動相場制に移行し円高に。73年物価上昇率は11.7%になり、総需要抑制・金融引締めに転換。公定歩合を4.25%から9%に上げる(消費は美徳から節約は美徳に)。それなのに74年予算で2兆円の減税を行いハイパーインフレに(物価上昇率は24.5%)。
・田中政治は「日本列島改造」「日中国交回復」が象徴的だが、「資源外交」にも努める。73年オイル・ショック時、米国に反しイスラエルの武力による占領を批判し、石油供給を維持した。
・74年7月参議院選挙は候補者に支援する企業を割り振り「財閥選挙」と云われる。田中は国民の欲望を聞くため、朝から「目白御殿」にて陳情を受けた。田中は「日本列島改造」を掲げたが、過疎・過密は解消されなかった。
○熱狂の崩壊
・田中政治は資金を必死に稼ぎ、必死に配った。これを成したのは田中の胆力。田中政治は佐藤政権の官僚・秘密主義と異なり、庶民的で明るく期待を持たせ熱狂を作った。しかし金権政治によりあっという間に熱狂は冷めた。
・田中政治の反対に位置したのが三木武夫。74年12月衆議院選挙の敗北で田中辞任後、首相に就く。三木は「政治浄化」を掲げ公職選挙法、政治資金規正法を歴史的に改正。76年12月衆議院選挙でも自民党が敗北し、首相を辞任。
・三木の後を争ったのが福田赳夫と大平正芳、共に大蔵官僚で先輩の福田に大平が譲ったとされる。77年福田は施政方針演説で高度成長からの決別と安定成長への転換をアピール。予算は公共事業を増やし、国債発行依存度は30%を超えたが、内需拡大と企業収益は回復した。
・76年著者は大蔵省の先輩である鳩山威一郎に政界への転身を勧められ退職。77年7月酒と魚の力で参議院議員全国区で初当選。鳩山には大平派(宏池会)への加入を勧められたが田中派に加入。83年6月参議院議員比例区で再選。
・83年当時は中曽根康弘内閣であったが、幹事長は「田中が趣味」の二階堂、官房長官は「田中の懐刀」後藤田で田中派が幅を効かせていた(田中曽根内閣)。10月ロッキード事件の一審判決が下る。12月政治倫理が最大の焦点で衆議院選挙となり、自民党が敗北。それでも田中は新潟3区でトップ当選。
・85年田中派内のフラストレーションから竹下派(創政会)が分裂。橋本龍太郎、小渕恵三、小沢一郎、梶山静六などの実力者は竹下登に従った。
○消費税
・86年7月著者は参議院から衆議院(神奈川3区)に鞍替えし、消費税を訴え出馬するが落選。
・田中が73年を「福祉元年」とした様に年金・医療などの「社会福祉」への出費が増大。65年度の補正予算で初めて赤字国債を発行、66年度より建設国債が発行される。68年税制調査会の報告で「一般売上税又は付加価値税の創設が必要」とされた。
・大平正芳は「鈍牛」ではなく「闘牛」で、ずば抜けてインテリだった。大平は中心が二つ存在する「楕円の哲学」を思想とし、自由/統制、保守/革新、弱者/強者などアンビバレントを認めた。最近の政治には多数決で決する短絡さや傲慢さが見て取れる。安倍政権には特定機密保護法など強行採決が多い。
・74年度戦後初めてマイナス成長になり税収減から財政難になる。大平には均衡財政への強い理想があり、78年12月首相就任直後に消費税について言及した。79年10月衆議院選挙で大平は消費税を掲げた事により敗北。11月首班指名で福田、大平が立候補する前代未聞の事態になるが、田中派の支援で再選する。
・80年5月社会党の内閣不信任案に反主流派(福田、三木)が欠席し可決され衆議院選挙となる(ハプニング解散)。しかし大平は非主流派も公認し、小泉、小沢、民主党と違って理念と情に厚かった。しかし大平はこの選挙中に命を落とす。
・首相を継いだ鈴木善幸は、「増税なき財政再建」から行政改革を掲げ、81年3月臨時税制調査会(土光敏夫会長)を設置。80年代(鈴木、中曽根政権)は消費税導入のワンステップであり、米レーガン大統領/英サッチャー首相が煽る風により「小さな政府」(規制緩和、国営企業民営化、金融自由化など)が促進された。
・82年11月田中派(闇将軍)の支援で中曽根康弘が首相に。83年11月行革関連6法が成立。84年12月電電改革3法が成立。85年4月NTT、日本たばこが発足。86年11月国鉄改革8法が成立。87年4月JRが発足。
・85年頃になると大蔵省は本格的に消費税導入の検討に入る。しかし中曽根は、86年7月衆参同時選挙でも消費税導入を否定し大勝(著者は消費税導入を訴え落選)。しかし中曽根は選挙直後に「売上税」構想を発表するが、支持率の急落で構想を撤回。
○新たな熱狂
・87年イラン・イラク戦争で掃海艇派遣問題が起こる。中曽根康弘は後藤田の説得で覇権を断念。
・米レーガン大統領は「ドル高政策」から金融引締め・規制緩和・大幅減税などを行う。これにより「双子の赤字」ほ増大した。しかし「ドル高政策」には無理があり、85年9月「プラザ合意」により協調介入。合意前は240円/ドルが87年末には120円/ドルの円高に。
・著者の落選中に2つの出来事が起きた。一つは竹下政権により89年4月から「消費税」が施行された。もう一つは「バブル経済」の始まり。「円高不況」への対応から公定歩合を5%から2.5%に引き下げられ、溢れたマネーは株と土地への投機に向けられた。80年代後半は需給ギャップが構造化していた。理念・目的のない拝金主義は慎むべきだ。田中政治はまだ夢を与えた事で罪一等を減じられる。
・88年リクルート事件が発覚する。この事件は未公開株が複数の自民党幹部、役員に渡った大変な事件。中選挙区制度はカネがかかり派閥政治を生み、金権体質の温床となっていた。リクルート事件により小選挙区制度への「政治改革」が急務となる。
・89年6月首相の海部は「政治改革推進本部」を設置。90年2月著者は衆議院選挙で神奈川3区(4人区)で竹下派の支援もあり返り咲く。海部政権は竹下派主導で幹事長は小沢一郎であった。
・当時はPKO協力法が牛歩(他につるし、空転、乱闘)で難航するなど、調整型・分配型の「決められない政治」であった。91年8月小沢一郎主導で政治改革関連3法案(政治資金規正法改正案、公職選挙法改正案、政党助成法案)が国会に提出されが廃案となる。しかし92年東京佐川急便事件で竹下派の後継争いと政治改革が再燃。小沢は竹下・小渕を「守旧派」として批判し、92年12月「改革フォーラム21」を結成。
・93年6月野党が提出した内閣不信任案に小沢は賛成し衆議院が解散となり、小沢は新生党を結成。8月日本新党細川護熙を首相とし8党会派による非自民連立政権が誕生する(55年体制崩壊)。著者は小沢の①政治改革②消費税の「福祉目的化」に賛同し、細川内閣/羽田内閣で大蔵大臣に就く。
・94年2月細川は「国民福祉税」構想を発表し連立政権崩壊の引き金になる。「国民福祉税」は政治改革と云う熱狂の「あだ花」であった。熱狂は世界大戦がそうであった様に国民の幸福につながらない事が多い。
○政治改革の果て
・小沢政治は①93年政治改革から97年新進党崩壊②98年自由党結成から00年自自公政権離脱③03年民由合併から06年民主党代表就任④06年民主党代表就任から12年民主党離党の4期に分けられる。
・小沢は「保保連合」を図ったが、自らに完全服従する政治家しか許さず、97年12月新進党が崩壊する。
・98年1月小沢は自由党を結成。第2期は政治理念に原点回帰した時期。自由党の理念は①市場経済の確立②社会保障の充実③官僚政治の打破④安全保障。小選挙区制度により調整型の「決められない政治」が強いリーダシップによる「決めれる政治」に変わった。小沢の『日本改造計画』は新自由主義で小泉政治の先駆けでもあった。
・99年1月自由党は分裂傾向にあったが、小渕内閣と自自連立政権を開始。しかし99年10月連立政権に公明党が加わる事で、自由党の存在価値が低下。00年4月小沢は連立を解消。野田毅、二階俊博、中西啓介らは保守新党として政権に残り、自由党は分裂。
・01年12月自由党と民主党の「民由合併」が動き出す。民主党の入口は旧社会党系の横路孝弘であった。これは細川非自民連立政権が社会党の離脱で崩壊した経験による。03年7月民主党菅直人代表と合併で合意。この合併に京セラ創業者稲盛和夫も協力した。
・04年5月与野党が年金未納問題で揺れ、民主党代表に岡田克也、幹事長に著者が就く。7月参議院選挙で民主党は議席を増やす。しかし05年9月郵政選挙で民主党は大惨敗。著者も落選する。
・06年4月小沢が民主党代表に就く。07年7月民主党は第1次安倍政権下での参議院選挙で圧勝。11月小沢は突如福田首相と大連立で合意するが頓挫。自民党は弱体政権が続くが、09年3月小沢も西松建設事件で秘書が逮捕され、5月代表を辞任。8月衆議院選挙で民主党は圧勝し政権交代。10年9月小沢は代表選に出馬するが、菅に僅差で敗れる。
・11年8月野田佳彦が民主党代表に就く。著者は党の税制調査会長に就き、消費税増税に着手。小沢は行政改革の徹底を主張し、民主党の分裂は強まる。12年7月小沢は民主党を離党し「国民の生活が第一」を結成。
・小選挙区制度では「オセロ現象」となり小泉チルドレン/小沢チルドレンを生み、人材育成問題を起こした。しかし小選挙区制度により政権交代が実現し、安定多数により「決めれる政治」に変わった。派閥政治から総理大臣に権力・影響力が集中したと云える。また中選挙区制度での派閥政治による腐敗(政官業癒着)を忘れてはならない。ただし劇場型小泉政治や安倍政権による「異次元金融緩和」など熱狂には要注意である。安倍政権で金融緩和・財政出動するも、田中時代と異なって圧倒的に需要が少ない。著者は有効需要の底上げには「社会の安定」が第一と考える。
○結び
・金融緩和の出口戦略は非常に難しい。1920年「大正バブル」が崩壊し、不況からの脱出は長期化する。高橋是清は膨張した通貨を公共事業に回すが軍事費にも回り、満州事変を勃発させる。
・集団的自衛権の容認により米国との連携から自衛隊の役割が拡大する。そうなると自衛隊員の応募が減り、徴兵制が復活する恐れがある。政府は集団的自衛権は許されないとの見解を継承してきた。「保守政治」を標榜する安倍政権がこの見解を一変させる「保守」とは何なのか。国連の指揮下ではなく米国との連携で自衛隊を稼働させる事は危険過ぎる。
・戦争責任問題も国民に考えて欲しい問題である。「あの戦争は仕方がなかった。悪くはなかった」では戦争の正当化になる。日本人として猛省しなければならない。
○編者あとがき
・田中政治の後にはハイパーインフレが人々を苦しめ、政治改革の後には「一強多弱」政治となり、小泉政治の後には弱肉強食社会が訪れた。熱狂には常に負の遺産が伴う。安倍政権による「異次元金融緩和」、憲法解釈変更も熱狂から弊害が生じる恐れがある。