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『海の武士団』黒嶋敏を読書。

「海の勢力」(海賊、水軍など)を時代(鎌倉期、室町期、戦国期)毎に解説。
勢力を張った「海の勢力」も戦国時代になると消滅します。
歴史的資料から解説しているので、マズマズ分かり易い。

お勧め度:☆☆(中世、海賊などに興味がある方)

キーワード:海の勢力、ナワバリ、寄船、津料、上乗、過所旗、和賀江島、兵庫津、徳政、海賊禁圧令、安藤氏、十三湊、千竈氏、坊津、九州探題、警固、大野湊、尾道、内海、対明通交/倭寇禁圧、松浦党、分国法、村上氏、廻船式目、島津家、山川湊、織田信長、物流、九鬼嘉隆、豊臣秀吉、海賊停止令

○プロローグ
・鎌倉の西に大庭氏が開発し伊勢神宮に寄進した「大庭御厨」があった。関東の武士は大庭氏を始め、土肥氏、伊東氏、河津氏、北条氏など海との関係が深い。
・歴史家網野義彦は「①海の民論②海の道論③百姓は農民でない」で中世における海の重要性を説いた。
・タイトルに「海の武士団」を使ったが海の領主/海の民、海賊、警固、水軍であり、総じて「海の勢力」と云える。
・「海の勢力」は鎌倉期には「ナワバリ」を持ち海上流通に寄生していたが、戦国期に消滅する。

○港、武力、徳政-鎌倉期
・鎌倉幕府が元に送った唐船が遭難し、五島列島日島に漂着。海の民が積載品(砂金・金・水銀・銀・武具・織物など)をあっという間に略奪した。当時は「寄船(漂着船)」の荷や海水が染みた荷を奪う事は認められていた。奪った荷は寺社に寄進されるのが普通で、筑前宗像社は漂着物で本社/末社の修繕費を賄っていた。
・船の側は「津料」「帆別」「碇公事」を納めたり、「海の勢力」を「上乗(乗船)」させたり、「過所旗」を掲げる事で安全に航行できた。
・今川氏の分国法『今川仮名目録』で「津料」の徴収と「寄船」の略奪を禁止している。さらに「国質」(他国の第三者に借金を返却させる)には今川家の許可が必要としている。これらは「ヨソモノ」を強く意識した規則である。
・1243年肥前松浦から宋に出航した貿易船が琉球に漂着し、略奪にあった記録が『漂到流球国記』に残る。
・和賀江島は鎌倉の極楽寺が、兵庫津は奈良の東大寺が「津料」を徴収していた。これは陸上での関に類似する。

・1230年大飢饉となる。1231年鎌倉幕府は海賊を禁圧する『西国海賊事』と、「寄船」を禁止する『海路往反船事』を制定。1232年8月9日和賀江島が完成。その翌日『貞永御成敗式目』を制定。これらは「撫民」を目的とした「徳政」(仁徳のある政治)であり、「海の勢力」を統治する制度である。また1230年は4代将軍となる九条頼経が元服した年。この頃朝廷では頼経の父九条道家が実権を握り、東西で「徳政」が行われた。「徳政」と云えば「徳政令」(借金帳消し)が有名だが、元に戻す事は「徳政」の題目。
・鎌倉幕府は「撫民」から「海賊禁圧令」を幾度か発したが、地頭が「寄船」に加わった様に、「ローカルの論理(慣習)」を統制できなかった。和賀江島は直ぐに廃れ、東の六浦が活況になる。

○ナワバリ-鎌倉・室町期
・津軽の「海の勢力」安藤氏の譲状(遺産相続)が残る。譲状を読むと安藤氏は陸奥湾の外側に領地を持ち、日本海に面する「十三湊」などで蝦夷と交易していた。陸奥湾沿岸の外ヶ浜などは北条得宗家の被官が領有していた。
・千竈氏の譲状も残存する。千竈氏は尾張千竈郷に根拠があり、薩摩川辺郡の地頭代官職に補任されていた。譲状には「坊津」、「大泊津(佐多)」や南西諸島(屋久島、喜界島、奄美大島、徳之島、永良部島など)が記されている。千竈氏は「坊津」、「大泊津」から「津料」を徴収したのは確実で、南西諸島からも上納を受けていたと思われる。南西諸島・琉球を経由する中国への南回り航路は重要な航路だった。
・安藤氏と千竈氏の違いは、安藤氏は蝦夷内乱の過程で北条氏に取り立てられた氏族で、千竈氏は旧来から北条氏の被官であった。

・室町期は南北朝の対立で始まり、足利家内部の「観応の擾乱」など内乱が蔓延し中央権力が弱く、地方の統治は守護に任せた。周防・長門は大内氏、玄界灘は宗像氏、壱岐・平戸は松浦党、対馬は宗氏、豊後は大友氏が把握していた。守護より上位の「九州探題(渋川氏)」が博多に置かれたが、その影響力は小さかった。
・当時は東南アジアとの交易が盛んで、「九州探題」は島津総州家に南蛮船に警固目的で「上乗」を乗船させるよう指示していた。
・朝鮮使節は博多から赤間関(下関)までは「九州探題」が警固し、赤間関から兵庫までは守護(大内氏、山名氏、細川氏)がリレーして警固した。瀬戸内海で実際に警固するのは村上氏、三宅氏などの海賊であった。

・北陸「大野湊」では守護富樫氏が「津料」を引き上げたため船の寄港が減った。備後「尾道」では守護長井氏が神社仏閣・民家を焼き払い、船から物資を略奪した。これを太田荘の荘園領主高野山が幕府に訴えた。知多半島「内海」では守護一色氏と荘園領主相国寺との間で「津料」を巡って争いがあった。この様に守護と「海の勢力」との争いは絶えなかった。

・足利尊氏の弟直義は鎌倉幕府の「海賊禁圧令」を継承したが、「観応の擾乱」で直義が敗れると消滅した。守護は将軍と主従関係を結び直臣となり、「海の勢力」は守護と主従関係を結び将軍の陪臣となったが、十分に統制できなかった。
・3代将軍義満は明から対明通交と倭寇禁圧をセットで要請され、それを受けたが、4代将軍義持は拒否する。6代将軍義教は対明通交を復活させ、倭寇禁圧のため在地の「海の勢力」と直接主従関係を結んだ。「松浦党」は肥前から五島列島に及ぶ「海の勢力」の連合であったが、将軍が平戸松浦氏と直接主従関係を結ぶ事で分裂した。

○冬の時代-戦国期
・前出の今川氏分国法『今川仮名目録』では「津料」「寄船」「国質」と共に「他国人との結婚」「他国人の軍事参加」「他国人の被官」も禁止していた。戦国大名の領国統治を強化するのが分国法の目的。
・伊豆大島に薩摩船や紀伊船が漂着した。何れも北条氏の指示で寺社に寄進された。戦国期になると、この様に戦国大名に上納された後、下賜される様になった。
・陶晴賢は大内義隆を討ち大内領を継承した。陶は村上氏が「津料」を厳島で徴収していたのを停止し、陶が直接商人から徴収する様に変更した。これにより村上氏は陶と対立する様になる。
・この様に戦国期は戦国大名が「海の勢力」が保持していた「ローカルの論理(慣習)」を規制し、「海の勢力」が消滅する時代。

・海に関する慣習をまとめた「廻船式目」が津々浦々に残る。「廻船式目」は1223年に成立したとされる。
・戦国期になると港湾側より廻船側が優位になるが、その理由は①京都中心の物流が変質し、廻船業が縮小した②船の大型化・高性能化で寄港回数が減った。
・1584年「坊津」「山川湊」の廻船衆が島津家の正月の儀礼に挨拶に上がった。「山川湊」の船頭は島津家から「琉球渡海朱印状」を取得した。
・戦国期は広域流通を担う廻船衆と地元の流通を担う廻船衆が存在した。

・織田信長は物流の重要性を認識し、京都の物流の玄関口である伊勢湾/大阪湾/若狭湾を重視し、その掌握に努めたとされる。
・1569年信長の次男信雄が伊勢国北畠具房の養子に入る。1576年具房を蟄居させ信雄が領国を治める。1578年志摩水軍の九鬼嘉隆は大船を擁し、大阪湾で毛利水軍を破る。

・1588年豊臣秀吉は「海賊停止令」を発した。この法令により肥前国深堀氏は領地(長崎)を没収され、能島村上氏は小早川隆景に従い九州に移った。秀吉は陸上でも全国の関を廃止した。
・秀吉の政策により「海の勢力」は解体された。江戸期に存続した「海の勢力」は陸奥三春藩秋田家(安藤氏)、摂津三田藩九鬼家、豊後森藩久留島家のみで、何れも内陸に領地があった。

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