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『ルイ・ナポレオンのブリュメール18日』マルクスを読書。

あのカール・マルクスが1852年に著した本。
第二共和政を解説しています(1848年「二月革命」から1851年12月2日ルイ・ボナパルトがクーデタで権力を掌握するまでの約3年半)。
第二共和政はブルジョア(王政派)が議会で主導権を持ちますが、最終的にはルイ・ボナパルトがクーデタで議会を解散し、独裁を始めます。
マルクスはナポレオン・ボナパルトを英雄と見る一方、甥のルイ・ボナパルトを凡庸と見ています。

マルクスは経済学者のイメージが強いのですが、歴史家としても優れた能力を持っていたんですね。歴史を多面的(経済的/政治的/社会的)に、しかも迅速に把握しています。これが「史的唯物論」なのか。※勉強不足。

お勧め度:☆☆(翻訳で難解だが、マルクスを知る切っ掛けになりそうな本)

キーワード:ナポレオン・ボナパルト、ブリュメール18日、封建制、市民社会、ルイ・ボナパルト、二月革命、第二共和政、憲法制定議会、大統領、六月蜂起、カヴェニヤック、憲法、大統領、正統王朝派、オルレアン派、秩序党、山岳党、6月13日事件、選挙法、新聞法、12月10日会、シャンガルニエ、12月2日クーデタ、国家権力、農民、史的唯物論

○概説
・ナポレオン・ボナパルト(以下ナポレオン)は1799年11月クーデタ(ブリュメール18日)で第1統領に就き、その後帝位(ナポレオン1世)に就く。ナポレオンは「封建制」を一掃し、「市民社会」の基礎を築いた。
・同様に甥のルイ・ボナパルト(以下ボナパルト)は1848年12月10日大統領に選出され、1851年12月2日クーデタで権力を掌握し、その後帝位(ナポレオン3世)に就く。
・1848年「二月革命」によりルイ・フィリップが退位、「7月王政」(オルレアン朝)が終わる。
・「第二共和政」(1848年二月革命から1851年12月2日クーデタまで)は3つの期に分かれる。①1848年2月~48年5月-二月期②1848年5月~49年5月-憲法制定議会による共和国樹立期③1849年5月~51年12月-立法国民議会による立憲共和制。

○憲法制定国民議会、六月蜂起
・①二月期は暫定的な期間で、ブルジョア(王政派)、ブルジョア(共和派)、小市民(民主共和派)、プロレタリア(共産共和派)はいずれも暫定政府でポストを得た。
・②共和国樹立期は憲法制定期、市民共和制樹立期であった。1848年5月「憲法制定国民議会」が開会される。翌月「六月蜂起」(六月事件)によりプロレタリア(ブランキなど)は脱落。プロレタリア以外の多くの政党は「財産、家族、宗教、秩序」を掲げ「秩序党」として連合。

○憲法、大統領選出
・六月蜂起を鎮圧した将軍カヴェニヤック(ブルジョア共和派)が憲法制定国民議会で権力を握る。ブルジョア共和派は憲法を起草し、諸自由(人身、出版、言論、結社、集会、学問、信教など)を認めたが、「公共の安全」の制約があった。憲法は2つの頭(750人で構成される立法国民議会、1人の大統領)を認めていた。1848年11月憲法公布。
・1848年12月10日ボナパルトが多くの国民(農民、軍隊、ブルジョア、小市民、プロレタリア)の支持を得て、大統領に選出される。敗れたカヴェニヤック(ブルジョア共和派)は消滅する。地主ブルジョアの「正統王朝派」と金融ブルジョアの「オルレアン派」が連合した王政派「秩序党」が憲法制定国民議会で権力を握る。ボナパルトはバロー(正統王朝派)を首相に指名する。
・1849年1月29日六月蜂起を鎮圧した将軍シャンガルニエ(王政派)が付属法成立のために存続していた憲法制定国民議会に解散の圧力を加える。

○立法国民議会、6月13日事件
・③立憲共和制はさらに3つの期に分かれる。③-1)1849年5月~49年6月-小市民(山岳党)の敗北。③-2)1849年6月~50年5月-秩序党による執権。③-3)1850年5月~51年12月-立憲共和制の崩壊。
・1849年5月立法国民議会の選挙が行われる。小市民とプロレタリアに支持される「山岳党」(社会民主党)は秩序党に次ぐ議席を得る。
・1849年6月山岳党は「ローマ砲撃事件」は違憲として内閣弾劾法案を提出するが否決される。秩序党(シャンガルニエなど)は立法国民議会の内外で山岳党を弾圧(6月13日事件)。この結果、秩序党は立法国民議会での権力を得たが、立法国民議会の地位を下げ、逆に大統領の地位を上げた。正規軍/国民警備隊を指揮し、山岳党を弾圧したシャンガルニエは称賛された。

○秩序党による執権
・1849年11月ボナパルトはバロー内閣を罷免する。バロー内閣は最初で最後の議院内閣となった。これにより秩序党は執行権を失った。またボナパルトは以降首相を廃止した。
・秩序党はワイン税や無信仰を廃止する教育法を成立させた。農村は重税に苦しんだ。自由を訴える者は「社会主義者だ」と非難された。一方ボナパルトは軍人の日給値上げや労働者への無利子貸付で国民の人気を得ようとした。また6月13日事件で山岳党を裁いたバロシュ(秩序党、後ボナパルト派)を内務大臣に任命した。
・1850年5月選挙法が改正され「選挙区に3年以上居住」が条件となり、有権者が1千万人から700万人に減った(プロレタリアが有権者を減らす)。翌月新聞法により革命的な新聞は制限された。

○秩序党とボナパルトとの闘争
・秩序党の各分派は立法国民議会の休会中にそれぞれ王政復古を画策した。正統王朝派のアンリ5世は内閣を任命した。一方ボナパルトは、ならず者の集まりである「12月10日会」を伴い、各地を遊説した。12月10日会の党員が秩序党代議士に暴力を振るう事件も起こった。
・ボナパルト派はエリゼ宮殿に陣取り、秩序党のシャンガルニエはチュイルリー宮殿に陣取った。1850年11月ボナパルトは再開された立法国民議会に教書を送り、静穏を求めた。
・負債を抱えていたボナパルトは禁止された「宝くじ」で資金を得た。立法国民議会は法務/陸軍/海軍/財務大臣を問責したが、ボナパルトは辞職させなかった。1851年1月ボナパルトは新内閣を任命し、立法国民議会から信頼されていたシャンガルニエを解任する。こんな時、ボナパルトは株式市場を操作し、株価を上昇させた。
・立法国民議会は全ての権力(内閣、軍隊、人民・世論の支持)を失った。ボナパルトは頻繁に内閣改造して立法国民議会を翻弄した。1851年4月ボナパルトは反議院内閣を任命した。

○12月2日クーデタ
・1851年5月改憲問題が起こるが、それに伴い王政派(秩序党)はブルボン派(正統王朝派)とオルレアン派に分裂する。実は秩序党の両派の闘争の結果が議会共和制だった。金融ブルジョアや産業ブルジョアは静穏を求めボナパルト支持に転換(秩序党は立法国民議会外とも分裂)。この背景に1851年の商業恐慌があった。
・1851年11月立法国民議会は再開されたが、存在意義はなかった。12月2日ボナパルトは武力によるクーデタで立法国民議会は解散し、カヴェニヤック、シャンガルニエなどの代議士を逮捕。ボナパルトの独裁が始まり、以降王政が復古する事はなかった。

○総括
・「社会共和制」は六月蜂起で消され、「民主共和制」は6月13日事件で消され、「議会共和制」は12月2日クーデタで王政派ブルジョアが自ら消した。
・二月革命の目的は王政とブルジョアの打倒であったが、12月2日クーデタでその目的が完結した。
・「フランス革命」(封建制の崩壊)により国家権力(官僚機構、軍事機構)が強化された。
・ナポレオンは封建制を廃止し、農民に土地を与えた。ボナパルトは国民の多数を占めるその農民を代表した。
・歴史家はボナパルトの12月2日クーデタを偉業と見るが、マルクスは事前の階級闘争が作った状況が凡庸な人物(ボナパルト)にクーデタを成就させたと見る。

○訳者あとがき
・マルクスは二月革命時、『新ライン新聞』でドイツ統一/民主共和制/男女普通選挙などを要求し、ドイツの革命に参加した。
・「史的唯物論」は階級闘争を軸として歴史/社会を捉える理論で、経済状況を下部構造、政治形態/法律形態/政治・法律・哲学の理論を上部構造とする理論。
・マルクスは恐慌に続いて革命が起きると考えていたが、1857年の恐慌後は、逆に資本主義が西欧に定着した。
・資本主義は高い生産力を持つが、資本家と労働者の資本格差が拡大する制度。1867年マルクスは『資本論』を刊行。
・当時は普通選挙の実施と廃止が繰り返された時期で、これにより民主主義が成長した。

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