『江戸300藩 物語藩史 中国・四国編』山本博文を読書。
中四国の主要な藩の略歴を解説。解説範囲が略歴、藩政、史跡などに限定されている。
外様には取り潰しがあるが、親藩・譜代には転封が多い気がする。
各藩、最初から財政難との闘いですね。これが幕府が簡単に倒れた要因か。
お勧め度:☆☆
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○はじめに
・中四国には16ヵ国が存在した。豊臣時代には毛利家が8ヵ国を領していたが、「関ケ原の戦い」で2ヵ国に減封される。これにより他地域から福島家、山内家などが配置された。
○鳥取藩-32万石、外様
・豊臣秀吉が兵糧攻めで鳥取城を落す。1600年「関ケ原の戦い」後、池田輝政の弟長吉が鳥取藩に入封(輝政は姫路藩52万石)。17年姫路藩を継いだ光政(輝政の孫)が幼いため鳥取藩に移り、長吉は備中松山藩に移った。32年岡山藩を池田光仲(輝政の孫)が継ぐが幼少のため鳥取藩に移り、光政が鳥取藩から岡山藩に移った(最終的に宗家は姫路藩から岡山藩に移った)。
・初代光仲は徳川家康の曾孫(輝政の妻が家康の娘)で親藩に準ずる扱いを受けた。光仲の頃、鹿野藩、若桜藩が分立する。
・1717年、39年大一揆が起こる。5代重寛は蝋の専売制や藩校「尚徳館」を始める。
・1837年「天保の大飢饉」が起こる。「天保の大飢饉」は幕藩体制を弱体化させた。※大飢饉(享保、天明、天保)は50年間隔で起きている。近年冷害は起きているのか?
・1864年「禁門の変」、64~66年「長州征討」までは佐幕派であったが、68年「鳥羽・伏見の戦い」では新政府側に付く。最後の藩主慶徳は水戸藩徳川斉昭の子で将軍徳川慶喜の兄のため、帰属に苦悩した。
・史跡に鳥取城、藩校「尚徳館」、鳥取池田家墓所がある。
○松江藩-18万石、親藩
・1600年「関ケ原の戦い」後、堀尾家が出雲国/隠岐国を領し、月山富田城に入城。11年松江城を完成させ入城。34年堀尾家が断絶し、京極忠高(宗家)が入封。
・1638年京極家も断絶し、松平直政(徳川家康の次男結城秀康の三男)が入封。直政は藩政を確立するが、財政は早くも逼迫する。直政は苦労人で名君と云える。
・1686年藩士の俸禄を半減する「減禄半知」を出す。1732年「享保の大飢饉」が起こる。83年「天明の大飢饉」で一揆が起こる。96年7代治郷の親政で財政は好転する。
・1868年「戊辰戦争」で新政府側に付く。その後「鎮撫使事件」が起き、隠岐が鳥取藩に移管される。
・史跡に松江城(現存12天守の一つ)、圓成寺(堀尾家の菩提寺)、月照寺(松平家の菩提寺)、城山稲荷神社がある。
○長州藩-36万石、外様
・1600年「関ケ原の戦い」で毛利家は周防・長門に減封され、藩庁は不便な萩にされた。これにより藩是が倒幕になった。
・5代吉元は藩校「明倫館」を創設する。
・7代重就は新田・塩田開発、港湾整備、製紙・製蝋で財政を立て直す(宝暦改革)。
・13代敬親は村田清風を登用し藩政改革。幕末には改革派(周布政之助)と保守派(椋梨藤太)が対立する。1863年改革派は外国船を砲撃(下関事件)、京都で「八・十八の政変」になり、64年「禁門の変」で敗れる。高杉晋作は身分を問わない「奇兵隊」を結成、その後多くの諸隊が生まれる。66年坂本龍馬の仲裁で「薩長連合」が結成される。
・史跡に萩城、松下村塾、大照院/東光寺(毛利家の菩提寺)がある。
○広島藩-42万石、外様
・1600年「関ケ原の戦い」により毛利家が減封され、福島正則が広島藩に入封。19年正則は広島城の無断修築で除封され、浅野長晟(宗家)が紀伊藩より転封される。広島藩は自国の米だけでなく他国の米も買い入れ、大阪の米市場で利益を得た。
・1701年分家の赤穂藩が「赤穂事件」を起こす。
・1864年「第1次長州征討」は広島が拠点になり、特需で潤った。66年「第2次長州征討」には参加せず、翌年薩摩/長州/広島の3藩同盟が結成される。しかし68年から始まる「戊辰戦争」では広島藩の装備が旧式のため主流から外れた。
・広島城は毛利輝元が1588年着工し、翌年入城。黒田如水が縄張りを行った(※ビックリ)。他に縮景園、國泰寺(浅野家の菩提寺)が史跡。
○岡山藩-31万石、外様
・1600年「関ケ原の戦い」により宇喜多秀家が除封され、小早川秀秋が岡山藩に入封。03年小早川家が断絶し、池田輝政の次男忠継(母が徳川家康の娘)が入封。32年光仲が継ぐが幼少のため、鳥取藩池田光政(宗家)と国替え。
・初代光政は藩校「花畠教場」と日本最古の庶民の学校「閑谷学校」を創設。光政/綱政の代に新田開発、木綿、製塩が盛んになる。光政は保科正之、徳川光圀と並び「江戸前期の三名君」の一人。
・1863年8代慶政は帰属に苦悩し、水戸藩徳川斉昭の5男茂政に家督を譲る。68年茂政は「戊辰戦争」で実兄徳川慶喜を討てず、支藩の章政に家督を譲る。
・岡山城は宇喜多秀家が1590年着工し、97年完成する。後楽園は2代池田綱政が造園。当初御後園であったが、明治に入り後楽園となった。後楽園は水戸偕楽園、金沢兼六園と共に「日本三名園」。
○高松藩-12万石、親藩
・1587年豊臣秀吉の四国平定で生駒親正が讃岐を領するが、1640年「生駒騒動」で改易になる。42年松平頼重(水戸藩初代徳川頼房の長男)が高松藩に入封。
・5代頼恭は塩田・製糖で財政を立て直す。また平賀源内を登用した。6代頼真は藩校「講道館」を創設する。
・9代頼恕は砂糖の流通で蓄財した。また崇徳上皇配流の地「雲井御所」を整備し、「讃岐塩業の父」久米栄左衛門を登用した。
・1868年「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍に味方し、諸藩に追討される。
・生駒親正が築城した高松城は今治城、中津城と共に「日本三大水城」。生駒家は栗林公園も造園した。他に法然寺(高松松平家の菩提寺)が史跡。
○徳島藩-25万石、外様
・1585年豊臣秀吉の四国平定で蜂須賀家政が阿波に入封し、翌年徳島城に移る。「阿波踊り」は徳島城完成の祝いが起こりとされる。1600年「関ケ原の戦い」前夜、家政は領地を豊臣秀頼に返還し、徳川方に走る。
・蜂須賀家は祖谷山などの在地土豪の支配に苦労するが、1617年の刀狩りで平定する。
・1633年藩と海部郡を治める家臣益田豊後が対立する(益田豊後騒動)。1766年藩による藍の管理で名西郡の農民が一揆を起こす。1842年藩による煙草の専売で三好郡の農民が今治藩に逃散し、一揆を起こす(上郡一揆)。
・維新後の1870年、淡路の家臣稲田家が反乱を起こす(庚午事変)。これにより淡路は徳島県に編入されず、兵庫県に編入された。
・史跡に徳島城、藩校「長久館」、菩提寺の興源寺、儒葬墓地の万年山がある。
○土佐藩-20万石、外様
・1600年「関ケ原の戦い」により山内一豊が土佐藩の浦戸城に入城、03年高知城に移る。
・2代忠義は早くも藩政改革を迫られ、野中兼山の主導で長曾我部家に仕えた郷士を登用し、用水路・新田を開発した。また尾戸焼を始めた。
・8代豊敷は国産品を専売制にして利益を得ようとしたが、農民が反発し、1755年「津野山一揆」が起こる。59年豊敷は藩校「教授館」を創設し、南学(土佐の朱子学)を教えた。
・9代豊雍は谷真潮を登用し、格式を10万石に切下げ節約に努め、財政を立て直す。
・「天保の大飢饉」後、13代豊熈は馬淵嘉平を登用し藩政改革に取り組むが、急死する。
・1849年分家の豊信(容堂)が15代藩主に就く。豊信は吉田東洋を登用し藩政改革を行うが、59年「安政の大獄」で隠居する。61年尊王攘夷の高まりで、武市瑞山をリーダーとする「土佐勤王党」が結成されるが、間もなく崩壊する。66年後藤象二郎は「開成館」を創設し、殖産興業・富国強兵を行う。67年坂本龍馬の「船中八策」で「大政奉還」される。板垣退助は「戊辰戦争」で活躍する。
・高知城は「現存12天守」の一つ。他に北会所・藩校「教授館」、南会所、開成館などが史跡。
○松山藩-15万石、親藩
・1600年「関ケ原の戦い」後、加藤嘉明は20万石に加増される。03年松山城を築き、正木城から移る。27年会津藩蒲生忠知と国替えするが、34年断絶。
・1635年久松松平家の松平定行(徳川家康の甥)が入封。3代定長の時、高内又七を登用し藩財政は安定。80年4代定直は「道後温泉」の運営を始める。
・1732年5代定英の時、「享保の大飢饉」で多くの餓死者を出し、一気に財政難に。41年久万山の農民が大洲藩に逃散する「久万山一揆」が起こる。
・1768年田安家から9代定国を迎え、譜代から親藩になる。11代定通は藩校「明教館」を創立する。
・1866年「第2次長州征討」では周防大島で略奪行為に及んだが、旧式のため大敗北する。68年「鳥羽・伏見の戦い」後、松山城は土佐藩に引き渡される。
・松山城は「現存12天守」の一つ。他に藩校「明教館」、道後温泉、常信寺/大林寺/法龍寺/法華寺(久松松平家の菩提寺)が史跡。
○諸藩
・他に浜田藩、津和野藩(西周、森鴎外を輩出)、長府藩、岩国藩(錦帯橋がある)、福山藩(阿部正弘が幕末に活躍)、備中松山藩、津山藩、丸亀藩(金毘羅宮がある)、宇和島藩(伊達政宗の長子が継ぐ。日本初の蒸気船を完成)、大洲藩を解説。
・備中松山城、丸亀城、宇和島城は「現存12天守」。※「現存12天守」の半分は中四国にある。