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『広島歴史探訪』本田美和子を受講。

広島は三角州で干拓により土地を広げました。
その干拓や神社、水運のための雁木などを紹介しています。

講師の本田氏は「ブラタモリ」で干拓や雁木を説明した方です。

キーワード:干拓、堤防、樋門、吉島、西新開、舟入、西本川、雁木、米蔵、材木蔵

○干拓
・広島は干拓で土地を拡大した。江戸時代初期の海岸線は平和大通り辺りだった。
・干拓は浅瀬に堤防を築き、内側の海水を排水する事で土地を得た。
・川の水は上水に使うため、汚水は用水路に流した。よって干拓地の先端に樋門が作られ、干潮時に樋門を開けて汚水を海に流した。

・天満町に古い干拓堤防が残る。千田町の広大跡地の北と南にも干拓堤防が残る。
・吉島町は段階的に干拓が行われ、その干拓堤防が残る。干拓堤防の先端に吉島神社が残る。樋門も管理していたと思われる。

・比治山と仁保島(黄金山)の間は、江戸時代東と西で大規模な干拓が行われた。西新開(皆実新開)は「ブラタモリ」で紹介された。「大河浦入海」は段階的に埋め立てられた。山城公園には樋門が埋め立てられた跡がある。
・宇品新開の干拓は明治22年に行われ、道路は南北に走り、西新開の道路と向きが異なる。

○水運、雁木
・舟入に広島藩の軍港があった。港の入口に住吉神社が残る。付近に「かこ」(舟の漕ぎ手)が住んでいた(加古町)。
・本川西岸に恵比須神社、常夜灯、雁木が残る。『広島諸商仕入買物案内記・・』(明治16年発行)に当時の繁栄が描かれている。描かれている万問屋本田権平は、恵比須神社の石柱にも刻まれている。明治時代になると宇品島(元宇品)付近で蒸気船から小舟に荷を移し運んだ。
・原爆ドームの場所には広島藩の米蔵があった。原爆ドームの目の前の雁木は米俵の搬入に利用された。
・本川東岸(空鞘橋付近)に「水制工」が残る。目的は船着き場、河岸保護など判明していない。
・広島は干満差があり、桟橋ではなく雁木が多く作られた。
・楠木町に「大雁木」が残る。この場所に広島藩の材木蔵があり、太田川上流から運ばれて来た木材を陸揚げしていた。明治時代、横川駅から引込み線が引かれた。
・近代に入り財を成した者が京橋川西岸に家を建て、個人使用の雁木を設け、それが残る。

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