『<身売り>の日本史』下重清を読書。
日本での人身売買について解説しています。
農業や商業など全般での人身売買などについて知りたかったが、最終的に女性の「身売り」に集約された。日本での人身売買はこれに集約されたのだろうか。この辺りは少しガッカリ。
近世の基礎を築いた秀吉の偉大さが分かる。
お勧め度:☆☆(可成り専門的)
キーワード:人身売買、奴隷制/農奴制、奴婢、飢饉、人商い/人売り買い、人取り、禁制、朝鮮出兵、分国法、倭寇、奴隷貿易、還住令、人返し、奉公人、浪人、請け人、請け状、年季奉公人契約、家制度、身売り、売女、マリア・ルス号事件、芸娼妓解放令
○人身売買
・歴史区分の基本は、古代は律令体制-奴隷制、中世は荘園体制-奴隷制、近世は幕藩体制-農奴制である。近世統一政権による「人身売買禁止令」は、奴隷制を農奴制に変える小農自立政策であった。しかし「人身売買」は年季奉公人政策(身売り)に変質する。
・律令体制の身分は良民(官人、百姓、雑色人)と賤民(陵戸、官戸、家人、公奴婢、私奴婢)に区分され、奴婢の売買は認められた。
・1230年「寛喜の大飢饉」が起こり、飢餓民は妻子や自身を売った。1239年鎌倉幕府は飢饉に限り「人身売買」を追認した。
・不法の「人勾引」「人商い」は追放刑、身体刑から死刑に変わった。
・能の謡曲『桜川』『角田川』『婆相天』や説経節『さんせう太夫』は「人商い」がモチーフになっている。親鸞も召使いの譲り状を残している。
・1232年鎌倉幕府は「御成敗式目」を制定する。その第41条で奴婢(下人、所従、下部)、雑人を規定している。
○戦国期
・戦国大名は雑兵と共に戦た。戦場での食料の掠奪/人の掠奪(人取り)は常態化していた。雑兵は「人買い商人」や親族から金銭を得た。イエズス会フロイスは『日本史』に、島津軍が臼杵城攻めで3千人を捕虜にしたと記す。戦場の民衆は①近くの砦に籠る②事前に逃亡する③金銭で安全を買う(禁制、半手)などで対応した。
・豊臣秀吉は「文禄の役」の時、濫妨/狼藉/放火/人取りを禁ずる「禁制」を大名に発給している。しかし島津軍だけでも3万7千人の朝鮮人を捕虜にしたとされ、両度の朝鮮出兵で10万人以上が拉致・連行された。一部の朝鮮人は対馬藩、朝鮮国使節などにより帰国した。
・戦国大名は「分国法」を定めた。伊達家は分国法『塵芥集』で「下人」について規定している。「分国法」はルールに則った「人売り買い」を認めている。
・4代足利義持の時、朝鮮人使節が『老松堂日本行録』に節「唐人」を記している。そこには倭寇が拉致した中国人が、朝鮮人使節に帰国を請う場面が記されている。
・1533年石見銀山で「灰吹き法」が導入され、銀の産出量が増え、日本の輸出品が金/銅/硫黄から銀に変わった。
・1542年ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲を伝えたが、その船には倭寇の王直が乗っていた。フランシスコ・ザビエルを日本に案内したアンジローは、薩摩から追われた身であった。この頃東アジア貿易とポルトガル貿易が結合し、日本も奴隷貿易に加わる。1582年欧州に派遣された少年使節は、各地で日本人奴隷に出会う。
・1587年豊臣秀吉はキリスト教を警戒し「バテレン追放令」を出す。これは「人売り買い」を禁止した法律ではない。
○年季奉公人
・豊臣秀吉は九州征伐や小田原攻めで、「禁制」や百姓に帰住を命じる「還住令」を多く出している。また「人商い」禁止や売られた人を解放する「人返し令」を出し、郷村の復興を図っている。その後「刀狩令」や「太閤検地」実施も発令している。
・戦国大名に仕える「奉公人」には①侍・足軽②中間・小者③下人の3クラスあった。1586年秀吉は「奉公人」法度を発令し、「奉公人」を雇うルールを定め、「浪人」についても規定した。さらに1591年「身分統制令」を発令、この中で「奉公人」に第三者の「請け人」を立てる事を新たに規定している。
・秀吉の「人商い」禁止令/「人返し令」/「奉公人」法度などのセット政策は、生産基盤を奴隷制から農奴制(小農経営)に変えた。このセット政策は幕藩体制にも継承される。
・1615年「大坂夏の陣」が終わり、2代徳川秀忠が「元和偃武」を始める。不法の「人商い」「人勾引」は引き続き禁止となり、「浪人」は町奉行が認めた者だけが居住可能となる。年季奉公人の「出替わり日」を2月2日とした(その後3月5日)。「請け人」は武家奉公から町・村にも拡大された。
・江戸期でも子女/下人の売買/質入れは合法であった。1641年「寛永の飢饉」で特例で「人商い」を認めた。
・米沢藩に減封となった上杉家は年貢完納/未進百姓の田畑・家財没収/贅沢禁止などの掟を出した。
○身売り
・「請け人」には①同居していない親族②地域の有力者③元の主人がなった。奉公先が決まると「請け人」と雇い主は、身元保証書兼奉公契約書である「請け状」を交わした。17世紀後半には武家/町方/農村/漁村/鉱山での雇用契約も「年季奉公人契約」となった。
・年季奉公人契約/宗門改め/家制度は江戸期の身分制度を支えた。
・17世紀末になると人身売買は女性に限定した「身売り」に変質する。当時「売女」には①遊郭で奉公する遊女②宿場での飯盛女など③隠れ売女があった。
・「売女」は休日なしで、諸経費(衣装・寝具・化粧など)/夜食の自弁など借金が増えるばかりであった。
・「身売り」は百姓の年貢未進を「家制度」で解決するために必要であった。
・1698年4代徳川家綱は年季制限を撤廃する。1711年6代徳川家宣は大高札の忠孝札(親子兄弟札)で、不法な「人売り買い」を禁止する。
○生き残る身売り
・元禄期頃から遊郭・芝居町は、極めて害の多い「悪所」とされた。「身売り」の本来の意味は「人身売買」だったが、性を売るサービスに変化した。「身売り」は江戸期の「平和」を守った。
・1869年判事津田真一郎は「人身売買」の禁止を建議する。津田は西洋の自由意思による「売女稼ぎ」は認めた。
・1867年ハワイの貿易商が日本人153人を連れ出す。1870年には日本人の子供が清に連れ出される。1871年明治政府は刑法に「略売人」(かどわかし)を追加する。
・1872年清国人苦力を乗せたペルー船マリア・ルス号が横浜に入港する。ペルー人船長の苦力に対する暴力・虐待が刑事裁判となり、有罪となる。その後苦力契約(内実移民契約)の有効/無効で民事裁判になる。判決において日本の遊女契約が障害となるが、日本は対外的な奴隷貿易は禁止しているとして、苦力契約を無効とした。
・1872年明治政府は「芸娼妓解放令」を発布し、娼妓・芸妓・遊郭の管理を府県に任せる。しかし遊郭は586ヵ所(1881年)に増えた。
・1931年冷害・凶作となり、3年後には3298人の「身売り」があった。戦後改革で基本的人権が尊重され「家制度」が氷解し、高度経済成長期に「身売り」が終焉する。
○エピローグ
・1956年「売春防止法」が成立。
・日本には「人身売買罪」がなく、米国の『人身売買白書』(2004年)で監視対象国に指定される。翌年刑法に「人身売買罪」を追加する。