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『古代道路の謎』近江俊秀を読書。

古代道路「駅路」を解説。
律令国家により幅が10mを超え直線的な古代道路が建設されたんですね、しかし中央権力の弱体化で古代道路は消滅。
古代道路と国府/国分寺/条里制の関係や、中央と地方の政治・経済状況も一緒に解説しているので理解が深まる。

お勧め度:☆☆☆(私的好み)

キーワード:駅路、駅家、乙巳の変/白村江の戦い/壬申の乱/平城京、蘇我馬子、大化の改新/改新の詔、大宰府、天武天皇、大宝律令、田令/厩牧令/賦役令/関市令/公式令、吉備国、国府、国分寺/国分尼寺、日本書紀、ソイルマーク/クロップマーク、墾田永年私財法

○古代道路
・律令国家が7世紀に建設した古代道路「駅路」が各地で発掘されている。701年「大宝律令」が完成している。「律」は刑法、「令」は行政法を意味する。律令国家は地方を国・郡(当初は評)・里で統治した。
・律令国家は地方を山陽道・山陰道・西海道・南海道・東海道・東山道・北陸道に分割し、それぞれに「駅路」を設けた。約16Km間隔に「駅家(うまや)」を設けた。
・7世紀は645年「乙巳の変」663年「白村江の戦い」672年「壬申の乱」710年「平城京遷都」と激動の時代であった。

○目的
・587年蘇我馬子は物部守屋を倒し、592年崇峻天皇を殺害し推古天皇を立てる。以降飛鳥が都となる。613年難波と都を結ぶ大道が作られたと『日本書紀』にある。
・645年中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を殺害する(乙巳の変)。孝徳天皇が即位し、都を難波に遷し「大化の改新」を始める。646年「改新の詔」で①公地公民②国郡制③班田収授④租・庸・調を宣布する。
・しかし653年皇極(斉明)天皇/中大兄皇子らは飛鳥に戻る。この頃飛鳥で「飛鳥宮苑池」「亀形石槽」などの大規模土木工事が行われた。
・663年中大兄皇子は「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れ、政策を国土防衛に転換する。664年最前線に防人/烽火を置いた。また大宰府を内陸に移し、周辺に水城/大野城/基肄城/阿志岐城を築いた。667年には高安城(大和)/屋嶋城(讃岐)/金田城(対馬)を築く。670年天智天皇に即位し、戸籍「庚午年籍」を作る。
・672年天武天皇は「壬申の乱」で勝利し即位する。684年「八色の姓」で皇親政治を進める。国・評の地方制度を確立する。この頃「条里制」の区画整理が行われたと思われる。発掘された「駅路」と条里区画を見ると、「駅路」は条里区画の基準線になったと判断できる。
・701年「大宝律令」が完成。推古天皇から百年に亘って進められた律令国家の建設が完了する。

○駅制
・古代道路「駅路」は7本あり、402の「駅家」が『延喜式』に記されている。「駅家」には大路で20匹の駅馬が置かれた。なお「格」は律令の修正・補足で、「式」は律令の細則である。
・『日本書紀』には592年、603年に「駅使」の記述があり、その頃から「駅制」が整備されと思われる。
・「駅路」は二官八省の民部省/兵部省が管理し、地方(国・郡)が維持した。
・律令「田令」には「駅家」経営のため駅田4枚(大路)を与えると規定され、律令「厩牧令」にも「駅家」経営の詳細が規定されている。「駅家」の遺跡に子犬丸遺跡(山陽道/布勢駅家)、落地遺跡(山陽道/野磨駅家)などがある。
・律令「賦役令」に納税の規定があり、納税に「駅路」を利用した。律令「関市令」「公式令」には「関」の規定があり、通行手形「過所」を使用していた。

○工法
・古代道路「駅路」は直線区間が多く、西海道(福岡県)、東山道(群馬県)では20Km以上の直線区間が推定される。道幅は2丈(6m)、3丈(9m)、4丈(12m)とされた。
・「駅路」の工法は地方によって異なるが、土を突き固める「版築工法」などが使用された。路面は透水性の良い土を使った。石畳が一般化するのは江戸時代後半である。
・「駅路」の左右には側溝を設けた。側溝は水路(静岡市曲金北遺跡)、運河(奈良県下ツ道)にも利用された。「駅路」自体が溜池の堰堤になる事もあった(福岡県春日市)。

○吉備国
・吉備国は4世紀まで大和と並ぶ力を持っていた。造山古墳(5世紀前半)、作山古墳(5世紀中頃)は畿内以外で最大の古墳。463年吉備下道臣前津屋、吉備上道臣田狭が反乱を起こし、雄略天皇が鎮圧した。雄略天皇は葛城氏を滅ぼすなど、大和王権を強化した。
・689年吉備国を備前/備中/備後に三分割し、備前と備中の境は吉備中山/名越山/大平山とした。吉備中山の東西に吉備津神社/吉備津彦神社がある。
・「国府」はその国の中心地に置かれ、「国分寺/国分尼寺」もその近くに置かれた。
・『延喜式』によると備前国には坂長/珂磨/高月/津高、備中国には津峴/河邊/小田/後月の「駅家」があった。
・条里区画を見ると通常の109mではなく120mを超える区画がある。これは「駅路」の痕跡である。
・山陽道には石城山城/鬼ノ城/大廻・小廻城/城ノ山城などの古代山城があったが、これらは山陽道から離れた場所にある。
・8世紀末頃「駅路」の路線変更や道幅縮小が行われている。この理由に中央権力の衰退や、地方での維持負担の軽減が考えられる。
・九州自動車道/長崎自動車道と西海道のルートと駅家/ICは、ほぼ一致する。これは設計思想が同じためと考えられる。

○景観
・山陽道の備中国河邊駅家から備前国との国境までを歩く。

○見つけ方
・『日本書紀』に「少子部栖軽が磐余宮を出て、阿倍山田を通り、豊浦寺を通り、軽衢に向かった」とある。この記述から当時の地理的状況が推測できる。
・『日本書紀』に「壬申の乱」の戦場となった上ノ道/中ノ道/下ノ道が記されている。この記述からも当時の地理的状況が推測できる。
・航空写真のソイルマーク(土壌の違い)、クロップマーク(農作物の違い)から道路跡が判別できる。

○廃絶
・743年聖武天皇は「墾田永年私財法」を出す。これにより耕地面積は増大するが、民は大寺院や貴族の元に流れたと考えられる。
・桓武天皇は794年平安京に遷都し、律令制度の修正を図るが、中央権力は弱体化し、「駅路」の路線変更や道幅縮小が行われる。
・摂関政治末の11世紀初頭には、「駅路」は他の道路と同規模になり、国府や郡衙も廃絶する。

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