『バルト三国史』鈴木徹(2000年)を読書。
バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の歴史(主に現代史)を解説。
バルト三国の歴史は欧州とロシア/ソ連、特に隣国ロシア/ソ連と密接に関係します。
最近注目されている地域なので、本書を選択。
お勧め度:☆☆☆(読み易く、地図/用語集/索引/年表などの資料が充実)
キーワード:バルト三国、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ドイツ騎士団/リヴォニア騎士団、リヴォニア、ポーランド=リトアニア連合(ヤゲウォ朝)、モスクワ・ロシア/ロシア帝国、リヴォニア戦争、スウェーデン、大北方戦争、ポーランド分割、奴隷制廃止、ロシア化政策、ロシア正教、民族主義運動、ロシア革命、ドイツ帝国、第1次世界大戦、ロシア2月革命/10月革命、ボリシェヴィキ/ソ連、独立、憲法、少数民族問題、農地改革、ヴィリニュス/クライペーダ、権威主義体制、スメトナ、パッツ、ウルマニス、ヒトラー、独ソ不可侵条約、第2次世界大戦、バルト三国併合、強制移住/迫害、杉原千畝、スターリン、ソ連化政策、農業集団化、工業化、粛清/弾圧、フルシチョフ、ブレジネフ、反体制運動、ゴルバチョフ、人民戦線、人間の鎖、独立回復、ロシア系住民問題、NATO、EU
○概要
・バルト地域は欧州の「辺境の地」であったが、13C「ドイツ騎士団」が「リヴォニア」(エストニア南部/ラトヴィア北部)を征服する。宗教的にはエストニア/ラトヴィアはドイツの影響で「ルーテル新教(ルター派)」に、一方リトアニアはポーランドの影響でカトリックになる。
・地理的には丘陵地(最高峰は318m)で森林が広がる。エストニアはシェール・オイルを産出する。多数の不凍港があり、ラトヴィアを流れるダウガヴァ川は東西を結ぶ重要な河川。
・地政的には大国(スウェーデン、デンマーク、ドイツ、ポーランド、ロシア)に囲まれ、貿易中継地となったが、大国の戦場となった。
○戦場
・欧州最後の「異教の地」となったリトアニアは、リトアニア公ゲディミナス、アルギルダス親子がベラルーシ/ウクライナに領土を拡大する。1386年リトアニア公ヤガイラはポーランド王女と結婚し「ポーランド=リトアニア連合(ヤゲウォ朝)」を形成する。その後、ボヘミア/ハンガリーに領土を拡大するが、オスマン=トルコとの対立などで衰退する。
・「リヴォニア」は司教とリヴォニア騎士団が支配するが、1558年モスクワ・ロシア(ロシア帝国)イヴァン4世がリヴォニア騎士団を敗走させる(リヴォニア戦争)。1561年「リヴォニア」は「ポーランド=リトアニア連合」の領土となる。ドイツ人騎士はバルトドイツ貴族となりエストニア人/ラトヴィア人を農奴とし、支配層として残る。
・スウェーデン国王グスタフ2世アドルフは、1617年フィンランド湾/1561年エストニア/1629年「リヴォニア」と南下し、領土を拡大。1648年「30年戦争」のヴェストファーレン条約でバルト海の大国となる。
・1699年ロシア帝国ピョートル大帝はスウェーデンと戦い、「エストランド」(エストニア北部)/「リヴォニア」を奪う(大北方戦争)。バルト地域のロシア支配が始まる。
・衰退した「ポーランド=リトアニア連合」は、ロシア/プロイセン/オーストリアによる3度の分割(1772年/1793年/1795年)で消滅する。リトアニアはロシア領となる。
○帝政ロシア支配
・バルトドイツ貴族が支配するエストニア/ラトヴィアでは19C初頭に、ポーランド貴族(シュラフタ)が支配するリトアニアではロシア本土と同じ1861年に奴隷制が廃止される。
・19C中頃エストニア/ラトヴィアで非ドイツ化政策/ロシア化政策(ロシア語公用語化、ロシア教育制度、ロシア正教改宗など)を行うが、これがエストニア人/ラトヴィア人の民族意識を高める。
・19C中頃リトアニアで非ポーランド化政策/ロシア化政策を強行した。ポーランド貴族(シュラフタ)を大量流刑し、ロシア農民を移住させた。農奴解放により農民は農村に定着、または北米大陸に移住した。
・1905年「ロシア革命」が起こると、エストニア/ラトヴィアではバルトドイツ人に対する暴動が多発する。一方リトアニアでは直接ロシア人に対する暴動が起こった。
・経済面ではエストニア/ラトヴィアは不凍港(タリン、リーガなど)を擁し、バルトドイツ人により産業化/都市化が進んだ。一方内陸のリトアニアは農林業が経済を支えた。
○独立
・1914年強国となったドイツ帝国は弱体化したロシア帝国に宣戦布告し、リトアニアを占領する(第1次世界大戦)。
・1917年「ロシア2月革命」が起こると、ロシア臨時政府はエストニア/ラトヴィアに新しい行政区を創設し、それぞれに民族を代表する議会と臨時自治政府を創設した。
・1917年ドイツ帝国占領下のリトアニアでも、民族を代表する臨時評議会が創設された。「ロシア10月革命」でボリシェヴィキが権力を把握すると、1918年ドイツ帝国はボリシェヴィキと講和し、リトアニアの独立を認めた。
・1918年ドイツ帝国が崩壊し第1次世界大戦が終結すると、ボリシェヴィキはバルト地域に侵攻し、各バルト民族の臨時政府と戦闘になる。1920年バルト三国はボリシェヴィキ(ソ連)と平和条約を締結し、独立を認められる。※東西帝国の崩壊でバルト三国が独立できた。
○独立当初の諸問題(1920年代)
・バルト三国は独立当初、政治・経済・社会体制の確立/農地改革/安全保障などの諸問題があった。
・1920年リトアニアは憲法を採択。1922年ラトヴィア/リトアニアは憲法を施行。バルト三国に共通する事は、ワイマール憲法の影響で比例代表/一院制で強力な政権を生み出せなかった。
・エストニア/ラトヴィアにはロシア人/ドイツ人、リトアニアにはユダヤ人/ポーランド人の旧支配層の少数民族が居住していた(少数民族問題)。
・バルト三国は「土地収用法」でバルトドイツ人/ポーランド人などの大土地所有者から土地を収用した(農地改革)。
・エストニア/ラトヴィアでは農民が支持する政党と労働者が支持する左派政党が二大勢力となった。リトアニアは農業国のため農民が支持する「キリスト教民主党」が一大勢力となった。しかしいずれの国も政党が乱立した。
・リトアニアには2つの「領土問題」があった。リトアニアの古都「ヴィリニュス」はポーランド(1918年復活)により占領された。これによりリトアニアとポーランドの関係は悪化する。一方リトアニアは良港のある「クライペーダ」を連合国より軍事回復した。
・1925年「ロカルノ条約」によりドイツと西欧の不可侵が約されるが、バルト地域は不安定のまま置かれた(安全保障)。
○権威主義体制(1930年代)
・1926年リトアニアで右派系国民党スメトナが軍事クーデターを起こし大統領に就く。1936年スメトナは憲法を改正し大統領の権限を強化し、権威主義体制を確立した。
・1934年エストニアでは農民党パッツ首相が国会を休会する。1937年二院制/大統領制の新憲法を採択し、権威主義体制を確立する。
・ラトヴィアでは農村連合ウルマニスが1934年首相、1936年大統領に就き、権威主義体制を確立する。
・ソ連は1926年リトアニア、1932年フィンランド/エストニア/ラトヴィア/ポーランドと不可侵条約を結んでいたが、1933年ヒトラー政権の誕生で不安定化する。ヒトラーは「バルト海はドイツの海」と考えていた。
・1934年敵対していたナチス=ドイツとポーランドの不可侵条約は、バルト三国/ソ連を動揺させた。バルト三国はソ連にも警戒し「バルト三国協商」を締結する。
○大戦前夜
・1938年リトアニアは古都「ヴィリニュス」の主権をポーランドに譲り、1939年良港「クライペーダ」をナチス=ドイツに譲る。1939年エストニア/ラトヴィアはナチス=ドイツと不可侵条約を結ぶが、バルト三国の外交は親独/親ソでバラバラだった。
・1939年ソ連はナチス=ドイツと不可侵条約を結ぶ。この時の秘密議定書により、ソ連はバルト三国とポーランドの東半分の領有を認められる。
○第2次世界大戦(1939~45年)とソ連併合
・1940年ソ連はバルト三国に圧力を掛け、各国に親ソ政権を成立させ、バルト三国を併合する。ここにバルト三国の最初の独立は20年間で終わる。バルト三国の官僚を強制移住/迫害する。
・1941年ナチス=ドイツはバルト三国に無関心を装っていたが、突然侵攻を始める。バルト三国ではソ連の恐怖支配からナチス=ドイツを歓迎したが、ユダヤ人の抹殺が行われた。リトアニア駐在の杉原千畝領事は通過査証を発給し、多数のユダヤ人を救った。
・1944年ナチス=ドイツの撤退により、ソ連がバルト三国を再占領する。第1次世界大戦と異なり、連合国はソ連のバルト三国併合を容認する。
○スターリン時代(1924~53年)
・ソ連はバルト三国でソ連化政策を進めた。各国で最高会議を開催し、第1書記には各国の出身者を任命したが、第2書記にはロシア人を任命した。
・1940年に創設した「国有土地公庫」により、富農(クラーク)の農地の没収/再分配した。さらに1949年強制移住と最終的な農業政策である「農業集団化」を進めた。
・ソ連では工業化が進んだバルト三国に対し、「5ヶ年計画」で工業化をさらに進めた。
・1950年エストニアではエストニア共産党の粛清を行った。
・リトアニアではカトリック教会とゲリラ活動が結び付く事が多く、弾圧した。文学や歴史/教育も弾圧したが、音楽の弾圧は難しかった。
○フルシチョフ時代(1953~64年)
・1953年スターリンの死により状況が変わる。特に文化面で「雪解け」が見られた。
・1955年頃から強制移住された文学者の帰還や、西側出版物の翻訳が許されるようになった。エストニアの首都タリンはモスクワ/レニングラードに次ぐ「前衛芸術」の中心となった。
・しかし1960年ラトヴィア化を進めたラトヴィア共産党の粛清を行った。
・工業化により以下の問題が発生した。①農村が荒廃し、農業生産が低迷②エストニア/ラトヴィアではロシア人の入植により両民族の構成比率が大幅に低下③都市化による社会問題④環境問題。
○ブレジネフ時代(1964~82年)
・ブレジネフは中央集権化を進めるとともに、文化面でも「冬の時代」に逆戻りする。
・民族的に純粋なリトアニアでは「異論派」や宗教的組織「サミズダート」が反体制運動を起こす。ロシア人の入植により両民族の構成比率が大幅に低下していたエストニア/ラトヴィアでも同様に反体制運動が起こる。
○ゴルバチョフ時代(1985~91年)
・ペレストロイカ(改革)/グラスノスチ(情報公開)が叫ばれるが、バルト三国は民族主義を強く訴えず、経済・環境問題を訴え、水力発電所建設計画(ラトヴィア)、硫黄鉱山採掘計画(エストニア)を撤回させた。
・バルト三国で民主化を求める「人民戦線」が創設され、党と「人民戦線」が協力して改革が進むと考えられた。しかし1988年11月憲法72条「共和国のソ連離脱権」を巡って「人民戦線」とゴルバチョフが対立する。これにより民族独立を強く求める急進派組織や、逆にロシア人の権利を守る組織「インテル戦線」が結成された。
・1989年3月リトアニアでの自由選挙「連邦人民代議員選挙」で「人民戦線」が圧勝する。民族的に純粋で、共産党の粛清が行われなかったリトアニアが独立運動の先頭に立つ。
・1989年5月エストニアの首都タリンでバルト三国の「人民戦線」の合同会合が開かれ、バルト三国併合の起点となった「独ソ不可侵条約秘密議定書」が非難される。
・1989年8月バルト三国の首都(タリン、リーガ、ヴィリニュス)を200万人で繋ぐ「人間の鎖」が行われる。このデモは世界を驚愕させた。
・1989年12月リトアニア共産党はソ連共産党からの分離を宣言する。1990年3月リトアニア最高会議は「独立回復」を宣言する。
・1990年3月エストニア/ラトヴィアでは急進派「市民委員会」が「市民会議」を創設するが、最高会議が「独立への移行期間」を設定すると、「市民会議」は影響力を失った。
・1991年1月ソ連はリトアニア/ラトヴィアに武力制圧に出る。しかしこの行動は逆にバルト三国の独立気運を高めた。
・1991年8月ソ連で保守派がクーデターを起こすが失敗する。同月エストニア/ラトヴィアで最高会議が「独立回復」を宣言する。
○占領からの脱却
・バルト三国は「独立回復」により、エネルギー危機/ロシア系住民問題/ロシア軍撤退/国境問題などの諸問題に直面する。
・1992年10月リトアニア国会選挙で民主労働党(旧共産党系)が大勝する。翌年の大統領選でも民主労働党ブラザウスカスが選出される。
・1992年9月エストニアの国会選挙で「祖国連合」などの右派勢力が勝利し、大統領選でも「祖国連合」メリが選出される。
・ラトヴィアはロシア系住民への国籍付与問題で遅れ、1993年6月国会選挙が行われ、右派勢力が勝利する。大統領選では「農民連合」ウルマニスが選出される。
・バルト三国はロシアに依存するエネルギー危機と民営化(財産所有権の回復)で苦慮する。
・リトアニアでは民族の差別なく全申請者に国籍を付与したため、ロシア系住民問題は起きなかった。一方エストニア/ラトヴィアでは1940年ソ連併合前の国民とその子孫に国籍が付与した。これに対しロシア/欧州安全保障協力会議/欧州評議会が批判した。1994年8月バルト三国からロシア軍が撤退する。
○欧州への回帰
・バルト三国は安全保障からNATO加盟を望んだが、1997年マドリッド・サミットには参加できなかった。1995年バルト三国はEU加盟を申請する(※NATO、EU共に2004年加盟)。
・バルト三国は欧州とロシアを繋ぐ重要な中継貿易地(トランジット)であり、バルト三国の発展には欧州とロシアの協調が欠かせない。