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『どん底から生まれた宅急便』都築幹彦(2013年)を読書。

最近、運輸業で人手不足が云われているので本書を選択。
本書はヤマト運輸が1970、80年代に「宅急便」を始めた経緯が主に書かれています。
商業貨物から宅配へのイノベーションが書かれています。

お勧め度:☆☆(読み易く、結構楽しめた)

キーワード:ヤマト運輸、宅急便、路線トラック、路線免許、商業貨物、信書、公聴会、行政訴訟、スキー宅急便/ゴルフ宅急便/クール宅急便/ヤマトコレクトサービス、コンビニ、クロネコ・マーク、信頼/挑戦/社員

○どん底
・1976年どん底であった「ヤマト運輸」は『宅急便』を始める。始めるにあたって、社内(社員、労組)と社外(運輸省)で障害があった。

・1957年著者は路線部の営業課長に就く。路線部で小倉部長(その後2代目社長)と出会う。当社は「路線トラック事業」が主軸であったが、業績は良くなかった。労組との関係も悪かった。
・1950年代に西濃運輸などは将来を見越し、東京-大阪間の「路線免許」を取得していた。一方当社は国鉄(JR)の利用を考え、後塵を拝した。
・当時、小荷物の配送は郵便局と国鉄に限られ、しかもそのサービス内容は悪かった。

・1973年著者は取締役となり、「宅配事業」の検討に入る。この年「オイルショック」で輸送量が25%減となる。輸送量の地域不均衡を「出稼ぎ」(短期応援)で補う。
・1974年組合の栗飯委員長/伊野副委員長と交渉し、「宅配事業」の同意を得る。
・1975年「宅配事業」に備え、組織を部門別から地域別に変更する。「宅配事業」を検討するワーキング・グループも結成した。
・サービス名は『宅急便』で決まる。重量は10Kg以下、縦・横・高さの合計は1m以下とした。「翌日配達」を原則とした。運輸省の「路線トラック運賃表」を基にシンプルな「地域別運賃表」を作成した。

○挑戦
・1976年2月『宅急便』の営業を始める。初日の取扱個数は11個であった。『宅急便』の開始で「商業貨物」から3年以内に撤退する事を決定。「商業貨物」撤退で荷物が減った。ドライバーやOBがチラシを配るなどの営業を行った。米店/酒店に取扱店になってもらった(10月時点24店、今は25万店)。
・1977年埼玉県戸田に物流ターミナルが完成する。
・1978年和泉雅子がメインで「クロネコヤマトの宅急便♪」のテレビCMを始める。
・1976年大口顧客であった「松下電器」との取引を辞退する。1978年、1923年からの顧客であった「三越」との取引を辞退する。

・1年目の取扱個数は170万個、2年目540万個、3年目1087万個と順調に増え、2年目には利益が出た。これは①同業者との提携(連絡運輸)②同業者の路線免許の買収などによった。
・1981年頃になると西濃運輸、福山通運、全日本流通(日本運送など)、連絡運輸グループ(西武運輸など)、日本通運、郵政省などと「宅配戦争」が始まり、取扱店の争奪戦も始まる。また「宅配事業」の急拡大が社会問題を起こす。

○郵政省
・競合する郵政のサービスは集荷しないため、勝ち目はあると考えた。
・1984年女子高生が中曽根首相にバレンタインのチョコレートを送り、それに手紙(信書)が添えられていたとして郵政省から警告を受ける(郵便法違反)。

○運輸省
・当社は1社単独での「全国ネットワーク」に拘った。全都道府県での路線免許の取得に15年掛かった。運輸省の対応の遅さに行政訴訟まで起こした。
・路線免許がない場合、「区域積み合わせ」や「連絡運輸と軽車両配送の併用」の仮対応で営業した。また東北、北陸、中国、九州などでは同業者から路線免許を買収した。

・山梨県でお客様から「なぜ翌日配達しないのか」と苦情を受けた。お客様は路線免許が必要なのを理解できないのである。1980年免許申請したが、地元同業者12社の反対で中々免許が下りなかった。84年1月公聴会が開かれ、5月免許が下りた。この公聴会は「宅配事業」認められる転換点になった。
・東北では1981年に路線免許を申請したが、5年間放置され、86年8月行政訴訟を起こす。10月公聴会が開かれ、12月免許が下りた。
・伊豆半島、北海道でも免許取得に難航するが、1990年にはカバー率で人口比、面積比共99%を達成する(80年は人口比74%、面積比27%だった)。

○進化
・1983年『スキー宅急便』は冬季に荷物が減る長野支店のアイデアで生まれた。サービス開始2年目、大豪雪で2億5千万円の大損害となる。翌年は雪上車8台を購入した。
・1984年『ゴルフ宅急便』を始める。これに伴い「荷物追跡情報システム」を稼働させた。
・1985年『クール宅急便』を始める。このサービスは「経営戦略会議」で商品開発を進めた。ハードウェア設備などで150億円投資した。このサービスの取扱個数(2012年)は12%を占めるまで伸長した。
・通信販売の決済業務を支援する『ヤマトコレクトサービス』を始める。このサービスも取扱個数(2012年)は12%を占めるまで伸長した。

・当社は個人商店を取扱店としていたため、コンビニ対応が遅れていた。著者が社長になった1987年は「ファミリーマート」と契約できていたが、「セブンイレブン」は日本通運と、「ローソン」は日本運送と契約していた。ところが同年、ダイエー中内会長との面会で「ローソン」と取扱店契約する(その後郵政に変更)。翌年には鈴木社長との面会で「セブンイレブン」と取扱店契約する。

・当社の「クロネコ・マーク」は親ネコが子ネコをくわえている、これは親ネコ(当社)が子ネコ(荷)を大切に運ぶ事を意味している。当社のキャッチフレーズも「まかせてあんしん」である。

○出会い
・1950年著者は慶応大学卒業後、当社に入社する(他の同期入社5名はほどなく辞めている)。著者の叔父は榎本健一(エノケン)である。
・通運部汐留営業所、本社路線部営業課長、綱島支店長、本社路線部部長などを経て、1987年社長となる。営業課長時、初代小倉社長の「カバン持ち」をする。
・1988年好景気で取扱個数が増え、ドライバー不足となり、唯一の運賃値上げをする。※近年の好景気と通信販売の盛況で同様の状況では。

・当社で学んだ事は「信頼」「挑戦」「社員」である。「信頼」が第一で、「信頼」があれば利益は付いて来る。世の中は常に変わっており、「挑戦」は必須である。「社員」こそが会社の商品であり、そのためには教育/コミュニケーションが重要である。

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