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『1971年 市場化とネット化の紀元』土谷英夫を読書。

グローバル化の起点を1971年に起きた市場化(為替の変動相場制への移行)とネット化(マイクロプロセッサの開発とeメールの誕生)とし、市場化とネット化を解説しています。
その後にグローバル化を進めた英国サッチャー首相(1979年就任)などについても解説。

ただしグローバル化が起こした格差問題などの弊害については触れるだけ。新聞記者として市場化を評価している本です。

お勧め度:☆☆

キーワード:グローバル化、ネット化/ネット社会、ブレトンウッズ体制、市場化、変動相場制、ドルと金の交換停止/ニクソン・ショック、スミソニアン合意、通貨先物、トリレンマ、マンデル・フレミング・モデル、インテル、マイクロプロセッサ、マイクロソフト、アップルコンピュータ、@(アットマーク)、アダム・スミス、マーガレット・サッチャー、英国病、サッチャー改革、ハイエク、計画経済、資本移動の自由化

○概説
・今や家庭でも職場でもネットは欠かせず、明らかに「ネット社会」である。また食卓には海外の食材が並び「グローバル化」が進んでいる。その起点は米国ニクソン大統領の「ドルと金の交換停止」(1971年8月ブレトンウッズ体制の崩壊)にある。
・為替の「変動相場制」への移行は投機を生み、世界は「市場化/金融化」した。批判的な人は「カジノ化」と批判した。
・1971年は中国が台湾に替わって、国連に加盟した年でもある。またインテルが「マイクロプロセッサ4004」を開発した年でもあり、eメールが誕生した(メールアドレスに@が使われた)年でもある。

○佐藤政権-1971年前半
・1971年1月日本は第3次佐藤内閣であった。日米繊維交渉、沖縄問題、中国問題、物価問題、公害問題、後継者問題などの問題が存在した。沖縄は72年中の返還が決まっていた。繊維では米国は日本の輸出規制を強く求めた。当時最大の国内問題は物価であった。
・3月繊維産業連盟が7月より自主規制すると発表。4月革新知事の美濃部亮吉が再選。

・5月西ドイツ外為市場が「ドル売り/マルク買い」で閉鎖するが、「変動相場制」に移行し再開。日本でも同様に「ドル売り/円買い」があったが、日銀の介入で360円/ドルを維持。
・日本の高度成長は「輸出主導」ではなく「内需主導」であり、外貨準備は20億ドルで頭打ちだった。しかし68年頃から国際収支の黒字が定着する。6月大蔵省/通産省は円切上げ阻止のため、輸出促進の政策を輸入促進/輸出抑制に180度転換する『円対策8項目』を発表。しかし日本は「強い日本」を自覚していなかった。年初44億ドルだった外貨準備は年末には152億ドルに達する。
・6月参院選で自民党は苦戦する。

○ニクソン政権-1971年前半
・1969年ニクソンは大統領に就く。ニクソンの使命は「ベトナム戦争撤退」と経済再生であった。
・当時は「ケインズ政策」(裁量的財政政策)が基本であったが、「小さな政府」を掲げるマネタリスト(フリードマンなど)が台頭していた。
・ベトナム戦争は泥沼化し、1971年5月にはワシントンで20万人の反戦集会があった。
・7月キッシンジャー補佐官の外交により来年の大統領訪中を突如発表する(ニクソン・ショック)。

・1930年代の反省から「通貨の安定」と「公正な貿易」が重視されていた。通貨面ではIMF/世界銀行による「固定相場制」(ブレトンウッズ体制)が取られた。通商面ではGATT/WTOが設立された。しかしドルの平価維持は困難となっていた。
・8月コナー財務長官による「ドルと金の交換停止」と「輸入課徴金」を突如発表する(ニクソン・ショック)。これが「市場化」の起点となる。

○スミソニアン合意
・1971年7月佐藤首相は内閣を改造(福田外相、水田蔵相、田中通産相)。『円対策8項目』に沿った「総合景気対策」を閣議決定。
・8月16日ニクソン演説があり、東京外為市場で日銀がドル売りに対し6億ドル買う。また東京証券取引所では株価が過去最大の下げ幅となる。27日日銀のドル買いは12億ドルとなり、翌日「変動相場制」に移行する。年初44億ドルだった外貨準備は10日間で40億ドル増えた。

・その後のG10蔵相会議(ロンドン、ワシントン、ローマ、スミソニアン)で、多国間の通貨調整(円の切上げなど)が決まる。12月スミソニアン博物館でのコナー財務長官と水田蔵相との交渉で308円/ドル(17%切上げ)が決まる。金価格も1トロイオンス=35ドルが38ドルと引き上げられた(スミソニアン合意)。

・1972年5月沖縄が日本に復帰する。6月佐藤首相は引退を表明し、7月自民党総裁選で田中が勝利し、田中内閣が発足する。

・1972年6月ポンドが投機で売られ「変動相場制」に移行する。73年に入ると「リラ売り/スイス・フラン買い」「ドル売り/マルク買い」で「スミソニアン合意」は揺らぐ。2月欧州各国は「変動相場制」に移行し、以降今日まで「変動相場制」が続いている。

○通貨は商品
・1971年12月シカゴのマーカンタイル取引所(CME)のメラメド会長は「通貨先物」の上場を公表する。シカゴには農産品を扱うシカゴ商品取引所(アイルランド取引所)と畜産品を扱うマーカンタイル取引所(ユダヤ取引所)があった。
・メラメド会長はポーランド生れのユダヤ人で、リトアニア領事杉原千畝に助けられ、シカゴに移住した。
・メラメド会長は「通貨先物」の上場にあたり、経済学者フリードマンに論文『通貨先物市場の必要性』を依頼している。72年5月「通貨先物」の取引を開始。81年には「金利先物」を上場している。

・外国為替の取引には3種類ある(①貿易による実需②リスクヘッジ③投機)。③投機は個人的利益を求めるものではなく、多国籍企業/銀行/国家などが損失を最小限にするものである。
・外国為替の1日当り取引高は年間貿易額の1/4に相当し、「市場化」を資本主義の「カジノ化」と批判する経済学者もいる。

・スミソニアン合意後、国際通貨制度は合議制となる(G5財務相・中央銀行総裁会議、G7サミット)。85年G5財務相・中央銀行総裁会議「プラザ合意」でドル切下げが行われた。
・2009年中国はドル基軸ではなく、SDRを主体とする通貨制度改革を提唱。
・通貨制度に関して「国際通貨・金融のトリレンマ」「マンデル・フレミング・モデル」などの法則がある。「固定相場制」下では財政政策が有効で、「変動相場制」下では金融政策が有効である。そのため中央銀行総裁がスターになる。

○ネット社会
・1968年ゴードン・ムーアなどがシリコンバレーに「インテル」を設立。71年マーシャン・ホフ、嶋正利などにより電卓用の「マイクロプロセッサ4004」が作られる。74年8ビットで高性能の「マイクロプロセッサ8080」が作られ、パソコンへの道を開く。
・75年ポール・アレン、ビル・ゲイツは「マイクロプロセッサ8080」用のBASICを作成する(マイクロソフト誕生)。
・75年スティーブ・ウォズニアック、スティーブ・ジョブズはパソコン「アップルⅠ」を作成する(アップルコンピュータ誕生)。
・71年ARPANETを開発していたレイモンド・トムリンソンは、メールアドレスに@(アットマーク)を使用する。

・市場では情報が重要である。ナポレオン戦争「ワーテルローの戦い」の時、ネイサン・ロスチャイルドは勝敗をいち早く知り、1日で資産を2500倍にした。
・大阪堂島の米市場には「米飛脚」「旗振り」などの通信手段があった。

・87年CMEで電子取引システムが承認される。各国の証券/先物/オプション取引所が「電子化/ネット化」される。

○市場と情報
・500年前欧州にはタバコ、ジャガイモ、トマト、サツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、チョコレート、ピーナッツなど全てなかった。これらはコロンブスのアメリカ大陸発見による「グローバル化」がもたらした。また活版印刷がなければ、コロンブスは動機となった『東方見聞録』を目にする事はなかった。

・アダム・スミスは『国富論』(1776年出版)で「日本の銅価格は欧州の銅価格に、ペルーの銀価格は欧州の銀価格に影響を与える。しかし英国北西部の石炭価格は北東部の石炭価格に影響を与えない」と書いている。これは石炭の運送コストが高いため。
・『国富論』は「分業」から書き起こされている。これは生産性向上は「分業」によるとスミスが考えていたため。「グローバル化」「サプライチェーン」も「分業」と云える。
・「農村より都市の方が収益率が高いため、資本/労働は都市に集中する(都市化)」「水上輸送コストは安いため、先に沿岸地域が発展する(中国発展)」「英国の産業の中心はアメリカに移り、首都はアメリカに移転する(米国台頭)」など、アダム・スミスの卓見に驚く。

・20年前ビル・ゲイツは「各種市場はデジタル化により巨大市場になる」と予想していた。
・大阪堂島には米先物市場があり、米は証券に相当する「米切手」で売買されていた。日本は市場先進国であった。
・市場が円滑に機能するには①情報インフラ②輸送インフラ③決済インフラ④法的インフラが必要である。

○ハイエクとサッチャー-新自由主義
・1975年マーガレット・サッチャーは保守党党首に就き、79年英国首相に就く。当時の英国は福祉国家で、労働党政権では国有化され、保守党政権では民営化されるなど経済政策は不安定で失業率も高く「英国病」と云われていた。サッチャー首相は①所得税フラット化②民営化③規制緩和④福祉抑制⑤労組弱体化などの供給サイドの改革を行った(サッチャー改革)。サッチャー首相はケインズに敵対するハイエク『隷従への道』を読み、彼に傾倒していた。

・80年代英連邦のニュージーランド/オーストラリアなども同様の改革を行う。米国レーガン大統領も「小さな政府」にはならなかったが、規制緩和を行う。日本も「サッチャー改革」を手本とし、電電公社/国鉄の民営化(中曽根内閣)、郵政民営化(小泉内閣)を行う。仏国ミッテラン大統領は社会党ながら、保守系の首相を迎える。
・97年18年振りに政権に復帰した労働党ブレア首相は、「ニュー・レーバー」を掲げ、「サッチャー改革」を基本的には否定しなかった。
・78年中国で鄧小平の「改革開放」が公認される。89年「天安門事件」で「改革開放」は中断するが、92年「南巡講話」で再加速する。91年インドでは「計画経済」から「市場経済」に転換する。

○計画経済とグローバル化
・ソ連ではホテルで湯が使えない、魚屋には塩漬けか冷凍の魚しかない、百貨店の商品棚はスカスカであった。ソ連のお土産が入れ子人形「マトリョーシカ」なのが理解できた。
・ソ連が経済成長しなかったのは企業家(アントレプレナー)がいなかったからである。
・ハイエクは「諸条件を考慮して均衡点を見つけるのは困難」として「計画経済」を否定し、「市場メカニズム(市場経済)」を肯定している。

・「リーマン危機」により資本主義の欠陥が露呈し、中国/ロシアの「国家資本主義」優位論が起きたが、「リーマン危機」から5年経ち「国家資本主義」が優位とは思われない。※しかし別のサイクルで動いている国の存在で「リーマン危機」を脱出できたと考えられる。
・中国が「中所得国のワナ」に陥らないためには、効率の悪い国有企業の民営化が必要である。
・中国の「言論の自由」は後退している。一方インド/インドネシアはフェイスブックの利用者が世界上位5ヶ国に入り、「民主主義」を自慢している。

・「ブレトンウッズ体制」の崩壊で「資本移動の自由化」がなされ、「グローバル化」の要因となった。中国/インドは「外資の受け入れ」で経済発展した。
・「グローバル化」は産業革命で遅れた国が先進国に追い着く「世界のフラット化」「大収束」と云える。
・「グローバル化」は貧富の格差を拡大している。
・1870年頃から1914年は貿易/海外投資/移民が盛んで経済成長し、「第1次グローバル化」とする考えもある。

・今の世界は「民主主義」で政権を牽制し、「市場経済」で成長する道しかない。

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