『広島藩の武術』森本邦夫を受講。
広島藩で行われた武術を紹介。広島は原爆投下で多くの史料が失われ、把握は難しくなっている。
武術には剣術・槍術・居合・薙刀・柔術・弓述・砲術・馬術などがある。
講座の後半には剣術・居合・柔術の演武があった。
武術には詳しくないので、感想に自信はない。
講師の森本氏は貫汪館(かんおうかん)の館長。
キーワード:武術、剣術、大石新影流、貫心流、槍術、佐分利流、居合、柔術、澁川一流、難波一甫流、演武
○武術の分類
・武術には剣術、槍術、居合、薙刀(長刀)、柔術、弓述、砲術、馬術、水術、軍学、水軍などがある。しかし江戸時代の各流派は、剣術と居合、剣術と居合と柔術、槍術と薙刀など複合的であった。
・槍は元寇により元から伝わった。銃剣は幕末から広まった。銃を使うようになっても、刀は使用し続けた。
○武術の流派
広島藩で行われた武術に以下がある。
<剣術>
・一刀流-1645年間宮五郎兵衛久也が広島藩に招かれ師範となり、明治維新まで続く。墓が興禅寺にある。
・円明流-宮本武蔵が流祖。1710年多田源左衛門祐久が広島藩に伝え、明治維新まで続く。墓が専勝寺にある。
・大石新影流-1797年大石進種次が興す。剣道の基礎となる。※大石新陰流?
・貫心流-宍戸司箭が流祖(源義経が遠祖)。築山通護が再度広島藩に伝える。幕末には広島藩の剣術は「貫心流」に限定された。幕末時の師範は細六郎致義で、墓は禅昌寺にある。宮島・豊国神社に奉納額がある。
・信抜流-1662年永山大学が伝える。広島、三原で栄える。永山大学の墓は海田にある。
<槍術>
・津和野藩・原田康人の廻国修行記録『英名録』に広島藩の状況が記されている。
・佐分利流-流祖は佐分利猪之助重隆。本流が三原浅野家に伝わるが断絶する。1727年嶋末源太正景が伝え、幕末には広島藩の槍術は「佐分利流」に限定された。
<居合>
・関口流-流祖は関口弥六衛門氏心。広島藩では槍術・行覚流、柔術・貫心流でこの居合をした。
<薙刀・長刀>
・司箭流-宍戸司箭が流祖。剣術は貫心流、薙刀は司箭流と称した。
<柔術>
・澁川一流-渋川流・難波一甫流・浅山一伝流を習得した首藤蔵之進満時が流祖。戦後まで坂・呉・府中に道場があった。
・真貫流-松田魁輔(1849年広島藩生まれ)が流祖。宮島・豊国神社に奉納額がある。
・世保流-廿日市・河内次郎一滴斎が行った。戦後まで続いていた。廿日市天満宮に石碑があり、宮島・豊国神社に奉納額がある。
・難波一甫流-難波一甫斎が流祖。広島で最も盛んな柔術。その後矢野家、宇高家が継ぐ。
<弓術>
・弓術では大平流、吉田流などがあった。
<砲術>
・高島流-長崎の商人がオランダ陸軍から学んだ西洋砲術。
<棒火矢>
・棒火矢は陶器に火薬を入れ、それを敵陣に投げ込む。現代の焼夷弾に相当する。
○武術の状況
<剣術>
・1848年神道無念流・斉藤新太郎の記録-斉藤新太郎が廻国修行で広島藩に立ち寄り、貫心流と試合をした。
・1852年土佐藩・樋口真吉の記録-廻国修行で広島藩に立ち寄った時、貫心流に試合を申し込んだが、断られた。
・1860年土佐藩・武市半平太の記録-武市半平太が廻国修行で広島藩に立ち寄った時、貫心流と試合をした。※あの武市半平太だよな。
<槍術>
・槍術の稽古には「入身稽古」「相面稽古」があるが、広島藩は遅れていた。しかし剣術よりは他流試合をしていた。※広島藩は戊辰戦争で戦力にならなかったと聞く。
・1852年佐賀藩・藤原左右一の記録-「広島藩は稽古場がないため武芸繁盛せず」と記している。
・他に1860年高槻藩士・藤井又一、1862年津和野藩・原田康人の記録がある。
<柔術>
・1858年久米久兵衛の廻国修行記録がある。
・柔術は護身のため農民・商人にも流行った。
○演武
・講師と生徒4名による大石新影流(剣術)、無雙神傳英信流抜刀兵法(居合)、澁川一流(柔術)の演武があった。※迫力あり。
・形は剣術、柔術共に80形あるとされる。