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『おカネでみる広島藩~藩札を中心に』高木久史を受講。

広島藩の「貨幣システム」を解説しています。特に「貨幣システム」の中心であった藩札を解説しています。

江戸時代の「貨幣システム」は今日の「貨幣システム」と変わらないと感じました。
また当時から紙幣中心で、藩札のお陰で経済発展できたと感じました。

講師の高木氏は安田女子大学文学部の准教授をされています。
著書『通貨の日本史』は『週刊ダイヤモンド』の2016年ベスト経済書第8位に選ばれています。

キーワード:三貨制度、秤量貨幣/計数貨幣、銀遣い、山田羽書、藩札、札元、札場、経済発展

○江戸時代の貨幣システム
・金(両、分、朱)/銀(匁、分)/銭(文)の「三貨制度」でした。
・銀貨は「秤量貨幣」のため取引の度に計量していました。金貨/銭貨は「計数貨幣」なので、そのまま使用できます。
・西日本は「銀遣い」で、経理は銀単位(匁)でされた(東日本は金遣い)。西日本が「銀遣い」となった理由は①石見銀山/但馬生野銀山など銀が豊富②中国/欧州との貿易で銀を使用した。

○紙幣の誕生
・日本最古の紙幣は、1610年伊勢神宮門前町山田で発行された「山田羽書」です。「山田羽書」は商人が発行した地域通貨です。※ブラタモリで紹介された物だな。
・日本最古の「藩札」は、1630年福山藩が発行しました(私札が「藩札」より先行)。
・藩札が誕生した理由は①銀が海外流出し不足していた②秤量が手間③藩外での取引に銀が必要であった。

○広島藩札の変遷
<藩札発行>
・1704年最初の藩札が発行されます。藩札は白島の櫓(七軒多門煙硝蔵屋敷)で製造されました。札元は商人(辻次郎右衛門、三原屋清三郎、天満屋治兵衛)が担いました。札元は今の日本銀行の様に独立していました。
・藩札は5種類(5匁、1匁、5分、3分、2分)発行しました。2分以上の取引には藩札を義務付けました。藩札での納税を許可しました。
・あくまでも藩札発行の目的は「藩外で使用できる銀の回収」です。
・札場(銀貨と藩札の交換所)は広島(革屋町)/尾道/三次にありました。※城下町三原ではなく、ブラタモリの放送があった港町尾道なんですね。

<通用禁止>
・1707年幕府(将軍綱吉)が藩札の通用を禁止します。広島藩での現物銀への兌換は、準備不足のため40%に留まりました。
・1730年幕府(将軍吉宗)が藩札を解禁します。広島藩も藩札の発行を再開し、藩内での金銀貨の通用を禁止します。

<発行禁止>
・1759年幕府(将軍家重)が藩札発行経験のない藩での藩札発行を禁止します。広島藩は無関係なのに誤解されパニックになり、藩札の通用を禁止します。
・1764年広島藩内での誤解が解消され、藩札の発行を再開し、藩内での金銀貨の通用を禁止します。
・その後1800年代初頭まで、藩札の価格は安定します。

<乱発による価格下落>
・1830年代広島藩は凶作や幕府公役の賦課により財政難になり、藩札を乱発します。これにより広島藩札の価格が下落します(幕府法定:金1両=銀60匁、実勢:金1両=広島藩札2600匁)。
・1847年広島藩は新札を発行(新札1匁=旧札40匁)しますが、幕末まで両藩札が流通します。

○藩札の総評
・「藩札は暴落した」と云われるが、価格が下落した藩は少数です。
・藩札を発行した藩は西日本に集中しています。これは西日本の方が、農業規模/経済規模が大きかったためです。
・藩札は江戸時代の経済発展を支えた。
・広島藩では幕末に藩札の価格が下落したが、全体で見れば一時期に過ぎない。また広島藩で庶民が使用していた貨幣の大半は藩札である。

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