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『禹王と日本人』王敏(2014年)を読書。

禹王は夏の創始者で、約4千年前の人。
中国では聖人とされ、日本では各地で治水神として祀られている。
いくら日本は中国文化の影響を強く受けたとしても、日本に根付いているのは驚きです。

お勧め度:☆☆(禹王は知っておいた方が良いな)

キーワード:禹王、夏、治水神、石碑、図像、禹王祭、四書五経、史記、勧誡図、涂山、九尾狐、疎通、禹歩、鯉の滝登り/登竜門、鼎、如意棒、空海、禹王信仰、禹王研究

○概説
・中国の聖人に「三皇五帝」があるが、禹(う)王を「五帝」に含める場合もある。禹王は前2070年「夏」を創設したとされるが、実証はされていない。『史記』には五帝や禹王の記述がある。終焉の地・浙江省紹興市に「大禹陵」(会稽山)がある。禹王の事績に治水があり、日本各地で「治水神」として祀られている。

○日本の治水神に
・神奈川県酒匂川の両岸に「文命東堤碑」「文命西堤碑」がある(文命は禹王の名前)。1726年徳川吉宗の時、田中丘隅が文命堤を築き、これらの碑を建立した。
・2010年第1回「全国禹王文化まつり」が神奈川県開成町で開かれる(2012年第2回群馬県片品町、2013年第3回香川県高松市、2014年第4回広島市(中止))。
・第3回「全国禹王文化まつり」の時「治水神・禹王研究会」が設立された。同研究会による調査で、全国で百件以上の史跡・文物が確認された。これらは江戸期/明治期に設置されている(※識字化の影響かな)。

・古い物では、相国寺の公用日記『蔭涼軒日録』に「1228年に鴨川が氾濫し、禹王廟を建立した」と記されている。
・群馬県片品村片品川に「大禹皇帝碑」(1874年建立)、沼田市泙川に「禹王碑」(1919年建立)がある。
・岐阜県海津市の揖斐川と長良川の合流地点に「治水神社」があり、揖斐川沿いに「田鶴の禹王さん」の灯明がある。
・『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)にも文命/禹王の記述がある。

・明代の『歴代君臣図像』『新刻歴代聖賢像賛』、日本人が製作した『歴世大儒像』『和漢絵本魁』などに禹王の像が描かれている。
・埼玉県久喜市「文命聖廟」(1708年建立)、大阪府島本町「夏大禹聖王碑」(1719年建立)、神奈川県酒匂川「文命東堤碑・西堤碑」(1726年建立、前述)、大分県臼杵市「禹稷合祀の壇」(1740年建立)、岐阜県海津市「田鶴の禹王さん」(1838年建立、前述)、群馬県沼田市「禹王碑」(1919年建立、前述)では「禹王祭」が存続している。

・禹王の姓名は姒(じ)文命である。
・孔子は『論語』で、孟子は『孟子(離婁章句)』で禹王を絶賛している。
・司馬遷『史記(五帝本紀)』には、五帝(黄帝、顓頊、嚳、堯、舜)の事績や禹王の九州の治水が記されている。
・「殷」の前に「夏」があったとされ、「二里頭」はその中心都市とされるが、「二里頭」で文字は出土していない。

・日本は600年より遣隋使/遣唐使を送り、仏教などの中国文化を吸収した。
・宮内庁書稜部が所蔵した漢籍が『日本国見在書目録』(891年)に記されている。そこには『尚書(書経)』『礼記』『春秋』『論語』『孟子』(以上「四書五経」)『史記』などが記されている。禹王は「四書五経」に696回、『史記』に21回登場する。
・江戸初期、藤原惺窩に学んだ林羅山は家康に仕え、儒学(朱子学)を教える。武士階級は藩校で「四書五経」から禹王の理解を深めた。

○京都御所の襖絵
・吉田兼好は『徒然草』で禹王の徳政を引いている。
・京都御所・御常御殿の襖絵「大禹戒酒防微図」(1855年)は狩野派・鶴沢探真の作で、禹王が描かれている。

・清・乾隆帝が作らせた「青玉大禹治水図玉山」は巨大(高さ2.2m、幅・厚さ1m、重さ5t)な玉の彫刻である。これには禹王が指導した土木作業が彫られている。
・禹王の墓「大禹陵」には始皇帝を始め、歴代の皇帝が参拝した(乾隆帝は14回参拝した)。

・天皇の行動規範を定めた『禁秘抄』には、唐・太宗の問答集『貞観政要』を習うべきと記されている。日本の皇室は中国の倫理道徳を習った。
・年号「平成」は禹王の功績である「内平外成」から選ばれている。

・『帝鑑図説』は明の幼帝・神宗の啓蒙のために作られた「勧誡図」である。『帝鑑図説』は過去の帝王の善行81幅と悪行36幅から成る。中国で様々な「勧誡図」が木版印刷で刷られ、朱印船貿易で日本に輸入され、庶民に流通した。
・桃山時代/江戸時代初期の狩野山楽も『帝鑑図説』を参考に『帝鑑図押絵貼屏風』を製作した。狩野山楽の末裔の鶴沢探真も『帝鑑図説』の「戒酒防微」を参考にし、京都御所の襖絵「大禹戒酒防微図」(前述)を製作した。

○禹王と九尾狐
・禹王は「理想の聖人」だがロマンスも存在する。禹王は30歳で「涂山氏」の娘・女嬌を娶る。「涂山」は淮河の中流(安徽省懐遠県)にある。当時「涂山氏」は「東夷」の有力者であった。地理書『山海経』に子孫繁栄の瑞獣「九尾狐」が記されている。女嬌が「九尾狐」とされたのも納得できる。「涂山」には「禹王宮」「望夫石」「台桑」などの遺跡がある。
・「大禹陵」(浙江省紹興市)の参道の両側に「九尾狐」が置かれている。

・「九尾狐」はインドに伝わり、中国に戻り、さらに日本に渡った。鳥羽上皇の寵愛を受け「玉藻前」と名乗ったとされる。
・広島市の太田川に巨大(高さ1.8m、幅3.8m)な「大禹謨碑」(1972年建立)がある。「大禹謨碑」の近くにローレライ伝説に相当する「キツネ岩」がある。
・香川県高松市に日本最古の「大禹謨碑」(1637年建立)がある。「大禹謨碑」が置かれた栗林公園と「玉藻城」(高松城)は近い。

○現代に生きる
・「疎通」には「塞がった所を分けて通す」の意味がある。禹王が「涂山」(前述)と「荊山」を分け、その間に淮河を流したとの伝説がある。治水は放水が重要で、太田川、利根川、淀川、信濃川、何れも放水路によって治水している。

・「禹歩」の意味は、日本では「上辺を真似ても、中身が伴わない」、中国では「見掛けで人を判断してはいけない」で異なる。「禹歩」は人形浄瑠璃/歌舞伎/神楽では「反閇」、相撲では「四股」として残る。
・「鯉の滝登り」「登竜門」-黄河に狭隘部がある。禹王がこの峡を開削したとされる。この峡を超えた魚は龍になるとされる。
・「鼎(かなえ)」は三本足の青銅器で、禹王が鋳造を命じたとされる。「鼎談」「鼎立」として残る。
・孫悟空が手に入れた「如意棒」は、禹王が水深を測るために使用した道具である。

・弘法大師空海は『三教指帰』(797年)で儒教/道教/仏教を比較し、仏教の優位を説いている。804年空海は遣唐使船で入唐し、806年帰国する。821年故郷・讃岐の「満濃池」を修築、825年大和国に「益田池」を築く。
・沖縄県南風原町に禹王を顕彰する「宇平橋の石碑」が、沖縄戦に耐え保管されている。日本各地に「禹王祭」や石碑が残り、「禹王信仰」のパワーを感じる。
・台湾には水仙(禹王)を祀る宮が37ヵ所ある。しかしその性格は航海安全や貿易振興である。香港/朝鮮も同様である。

・前2059年「大禹陵」で最初の「禹王祭」が開かれた。前210年始皇帝が「大禹陵」に参拝し「禹王祭」を行った。皇帝の「大禹陵詣で」「禹王祭」は恒例になった。1939年周恩来も参拝している。
・浙江省紹興市出身の魯迅は「疎通」をテーマに物語『理水』を書いた。

・禹王の末裔は730万人で、26姓(欧、欧陽、涂、植、樓、鄧など)に分かれている。「大禹陵」は姒姓が管理している。

○東アジアと禹王
・中国では1978-2010年で19回「禹王研究会」が開かれた。研究は①資料収集と②発掘調査である。①資料収集では4姓(欧、欧陽、涂、植)の家譜調査が、②発掘調査では「二里頭」の発掘調査が中心である。
・朝鮮では地名に「禹」が残り、「禹」姓も多く残り、著名人を多く輩出している。

・東アジア各国の生活習慣/風俗/行事/信仰に禹王の存在があり、禹王は東アジアの紐帯になる。
・著者は30年前、宮沢賢治の研究から禹王の存在を知る。日本と中国は精神面/教養面/生活面で距離が近く、禹王は日本人にも浸透している。
・禹王研究をさらに進めるためには、地域/民間/大学/研究機関の協力が必要である。

参考
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no40/index.html

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