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『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎を読書。

20世紀前半、米国大統領となった2人のルーズベルト(セオドア、フランクリン)を解説。
両氏の祖先はオランダ移民で縁戚。共に海軍次官に就くなど、共通点が多い。ただし所属党や性格は異なる。

セオドアは共和党大統領で海外進出を進めた。性格は熱血漢。
フランクリンは民主党大統領(異例の4期連続当選)で、第2次世界大戦を戦う(第1次世界大戦は海軍次官)。性格は粘着質。

両氏について詳しく知らなかったので、有益であった。私的には終盤を除いて面白かった。

お勧め度:☆☆

キーワード:セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、海軍次官/ニューヨーク州知事/大統領、牧場、官吏制度改革委員会委員、公安委員会委員長、マハン大佐/海軍増強論者、ロッジ上院議員/帝国主義、ハワイ合併、米西戦争/義勇騎兵隊、北清事変/日露戦争、パナマ運河、日本人移民/日米紳士協定/排日移民法、白色艦隊、進歩党、ジョセフス・ダニエルズ海軍長官、ルーシー、ミッシー、第1次世界大戦、ワシントン海軍軍縮会議/日英同盟、ニューディール政策、第2次世界大戦、国防委員会、ノックス海軍長官、キング合衆国艦隊司令長官、石油輸出禁止、チャーチル首相、大西洋憲章、スターリン、カイロ会談/テヘラン会談/ヤルタ会談

○序
・両氏の経歴はニューヨーク出身/ハーバード大学/海軍次官(セオドア:1897-98年、フランクリン:1913-20年)/ニューヨーク州知事/大統領(セオドア:1901-09年、フランクリン:1933-45年)で酷似する。両氏はマハン思想(海軍増強論者)でも共通する。違いはセオドアは4人兄弟で熱血漢、筆まめ、親日、共和党。フランクリンは実質1人子(27歳離れた異母兄がいた)で粘着質、艶福家、反日、民主党。

・ルーズベルト家の始祖クラエス・ローゼンベルトは、1649年にオランダのハーレム地方からニューアムステルダム(英蘭戦争などで英国化し、後ニューヨークに)に渡った。始祖の孫の代でオイスターベイ・ルーズベルト家(セオドア)とハイドパーク・ルーズベルト家(フランクリン)に分かれる。

・米国は1783年独立、1845年テキサス、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアを取得し太平洋に達する。1890年「フロンティア消滅」を宣言する。

<第1部-セオドア・ルーズベルト>
○生い立ち
・1858年セオドア(以下彼)は資産家の長男に生まれる。尊敬する父は、61年南北戦争で代理兵士を雇い、懲役を免れる。彼はこれに反感を持ち、98年米西戦争で海軍次官を辞し、義勇騎兵隊として戦う。
・ハーバード大学卒業後、コロンビア法律学校に入学。1881年ニューヨーク州下院議員に当選。同年『1812年戦争海戦史』の執筆を終える。本書は重宝され、複数の大学でテキストになる。

・1883年大陸横断鉄道が完成し、彼はダコタで牧場経営を始める。牧場で狩猟生活を送り、後に『狩猟の旅』を出版する。翌年妻が長女アリスを出産するが、2日後に母と妻をチフスで亡くす。同年の共和党大会で、親友となるヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員と出会う。86年エジス・キャローと再婚する。88年『西部開拓史』を脱稿、本書はベストセラーになる。

○ルーズベルト・サークル
・1888年の大統領選で共和党ハリソンが当選し、彼はワシントンで官吏制度改革委員会委員に就き、6年間勤める。後の大統領ウィリアム・H・タフト、国務長官ジョン・ヘイなど「ルーズベルト・サークル」ができる。95年ニューヨーク市公安委員会委員長に就く。

・彼は海軍増強論者のマハン大佐の信奉者であった。マハン大佐の『海上権力史論』(1890年)は世界的な名著になる。外交面では、帝国主義のロッジ上院議員に相談した。彼らは米国に都合の良い「マニフェスト・デスティニー」「進化論」を信じる人種主義者で、中国が世界紛争の場になると考えていた。ただし彼は日本に対し賞賛と恐れを持っていた。

○海軍次官時代(1896-98年)
・1896年大統領選挙で共和党マッキンレーが当選し、翌年彼は海軍次官に任命される。
・1894年日本人移民が多く住むハワイ王国が、米国の干渉で共和国になる。98年8月マッキンレー大統領はマハン大佐の圧力でハワイを合併する。

・1898年4月米国はキューバのスペインからの独立に加担する(米西戦争)。彼は海軍次官を辞し、義勇騎兵隊を組織し、キューバで戦う。米国はカリブ海/マニラ湾で勝利し、キューバを保護国、グアム島/フィリピン諸島(以下比島)を領有する。ただし初の海外領土となった比島のゲリラ活動には手を焼く。彼の凱旋帰国は熱狂的に迎えられた。同年ニューヨーク州知事に当選し、翌年就任する。
・1900年大統領選挙で共和党マッキンレーが再選し、翌年彼は副大統領に任命される。

○大統領時代(1901-09年)
・1901年9月マッキンレー大統領が暗殺され、彼が大統領に就く。42歳で最も若い大統領となり、2期勤める。

・1900年「義和団の乱」から7ヵ国(英米日独仏伊露)が出兵する(北清事変)。ロシアは事変が解決しても満州から撤退しなかった。02年ロシアの南下を警戒し「日英同盟」が締結される。
・1904年「日露戦争」が始まる。翌年5月日本海海戦で日本が勝利する。8月ポーツマスで講和会議が始まり、9月調印する。彼の日露講和が評価され、翌年「ノーベル平和賞」を受賞する。

・1903年11月米国はコロンビアからパナマ共和国を独立させ、「パナマ運河」建設地を米国の管理下に置く。14年パナマ運河は完成し、米国に多大の利益をもたらす。※ハワイ合併と手法が似てる。

・彼とマハン大佐は「黄禍論」でも一致し、ハワイ/カリフォルニアの日本人移民を警戒していた。19世紀中頃アイルランドは大飢饉となり、多くのアイルランド人が米国に移住した。アイルランド人移民も日本人移民を嫌悪した。
・1908年日米は「日本は米国への移民を制限する」「米国は排日移民法を作らない」で合意する(日米紳士協定)。しかし13年カリフォルニア州で「外国人土地法」が成立するなど、日本人移民は土地所有/教育/帰化で差別された。第1次世界大戦後の19年、日本は国際連盟の規約に「人種差別撤廃」を要求したが、米国は否決する。24年連邦議会で「排日移民法」が成立する。

・「桂・タフト合意」(1905年)「高平・ルート会談」(08年)で日本の朝鮮/満州領有、米国の比島領有を相互に認める。これにより彼は太平洋の海軍基地をハワイ真珠湾に決める。
・彼は海軍増強に邁進する。1907-09年16隻の巨大戦艦群「白色艦隊」が世界周航する。08年彼は「海兵隊」の任務を変更し、「海兵隊」は中南米の革命/内乱に急遽派遣される様になる。

・第1次世界大戦後の1922年「ワシントン海軍軍縮条約」で英米日の主力艦比率は10:10:6となり、米国海軍は世界最強になる。同時に米国最大の外交課題であった「日英同盟」は破棄され、対日圧力が強まる。

○大統領辞任後
・1908年大統領選挙では後継者のウィリアム・タフトを推し、当選する。
・1912年政界復帰すべく「進歩党」を結成し、大統領選挙に出馬するが、民主党ウィルソンが当選する。翌年フランクリン・ルーズベルトが海軍次官に任命され、第1次世界大戦で職務を全うする(後述)。※進歩党、こんなのがあったのか。

・彼はアフリカ探検や欧州旅行をする。
・1914年第1次世界大戦が勃発する。17年米国はUボート(ドイツ潜水艦)により参戦。彼の4人の息子は前線で戦う(四男は戦死)。
・1919年彼はオイスターベイで死去する。20年大統領選挙で共和党ハーディングが当選し、翌年彼の長男セオドア・ルーズベルト・ジュニアが海軍次官に任命される。

<第2部-フランクリン・ルーズベルト>
○家系
・フランクリン・ルーズベルト(以下彼)の父ジェームズは鉄道会社の副社長で、資産家であった。1880年父は52歳の時、サラ・デノラと再婚し、82年彼が誕生する(27歳離れた異母兄がいた)。

・彼はハーバード大学を卒業し、05年現職大統領セオドア・ルーズベルトの姪エレノアと結婚する。エレノアは6人の子供を産む。
・彼はコロンビア法律学校に入り、弁護士資格を取る。1910年ニューヨーク州上院議員に当選し、翌年就任する。

○海軍次官時代(1912-20年)
・1912年大統領選挙で民主党ウィルソンが当選し、翌年31歳の彼は海軍次官に任命され、8年間勤める。彼は高校時代にマハン大佐『海上権力史論』に熱中し、海軍に関心が強かった。
・彼を推薦したジョセフス・ダニエルズ海軍長官は新聞経営者で、業務の多くを彼に委ねた。ダニエルズ海軍長官は平和主義者で、第1次世界大戦参戦に最後まで反対した。
・当時の海軍省は連邦政府予算の20%を占め、購買/補給/財務が主業務であった。海軍次官時代に「ルーズベルト閥」が作られ、大統領時代に主要ポストに就く(統合参謀長会議議長リーヒ、海軍作戦部長スタークス、太平洋艦隊長官キンメルなど)。

・彼は艶福家であった。1913年妻エレノアが秘書ルーシー・マーサーを雇う。妻エレノアは夫と彼女の関係を知るが、離婚は留まる。彼女は別の男性と結婚するが、彼の最期を看取る。
・1920年妻エレノアは家事雑用でマーガリート・ミッシー・ルハンドを雇う。彼は彼女を個人秘書として常に同伴させる。彼は遺書に不動産収入の半分を妻に、半分を彼女に与えると書いた。

・1914年8月第1次世界大戦が勃発する。15年ダニエルズ海軍長官は海軍に統一性を持たせるため「海軍作戦部」を創設する。16年大統領選挙で第1次世界大戦参戦に消極的な民主党ウィルソンが再選する。
・1917年4月ダニエルズ海軍長官も参戦に回り、対独宣戦布告する。18年7月彼は欧州視察に出て、英国/仏国/伊国などを視察し、9月帰国する。11月第1次世界大戦は終了する。

・1920年大統領選挙で彼は副大統領候補となるが、共和党ハーディングが当選する。翌年セオドア・ルーズベルト・ジュニアが海軍次官に任命される。
・1922年制服組は反対するが「ワシントン海軍軍縮条約」が調印され、同時に「日英同盟」は破棄される。これにより日米対立が鮮明化し、24年連邦議会で「排日移民法」が成立する。

○ニューヨーク州知事
・1921年彼はポリオに罹る。以降、歩行が困難となる。24年、28年大統領選挙で民主党スミスは敗れる。
・1928年彼はニューヨーク州知事に当選し、翌年就任する。

・1929年10月ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、大恐慌が始まる。翌年「ホリー・ストーム法」が成立し、高関税を掛ける。植民地を持つ英国などはブロック経済化し、ドイツ/日本は打撃を受ける。

○大統領時代(1933-45年)
・1932年大統領選挙で彼は民主党候補となり「ニューディール政策」を掲げ、当選する。彼の周辺にはコミンテルン協力者がいたとされるが、政治家としての力量は疑う余地がない。性格は表と裏で差があったとされる。
・彼は海軍で統合参謀長会議議長リーヒ、海軍作戦部長スターク、太平洋艦隊長官キンメルなどを重用する。

・1期目(1933年~)は「ニューディール政策」が重視された。「ニューディール政策」は労働者/農民/失業者/黒人などの低所得者からは支持されたが、実業家には批判された。
・2期目(1937年~)の39年9月ドイツがポーランド侵攻し、第2次世界大戦が勃発し、外交問題が重視される。同年陸海軍の軍事作戦を指導する「統合参謀長会議」を大統領直属とする。翌年「国防委員会」を創設し、戦時体制を整える。

・3期目(1941年~)40年大統領選で「連合国を支援するが参戦しない」「挙国一致(スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官)」を公約し当選する。
・フランク・ノックス海軍長官は第1次世界大戦で志願し、欧州で戦う。1931年新聞社「シカゴ・デイリー・ニュース」を買収し育てる。36年大統領選挙で共和党副大統領候補となる。40年彼から海軍長官に任命される。合衆国艦隊司令長官にキングを推す。
・1941年12月合衆国艦隊司令長官にキング、太平洋艦隊司令官にニミッツを任命し、キングに海軍作戦部長も兼務させた。

・1940年1月「日米通商航海条約」が失効する。日本への工作機械の輸出が止まる。9月屑鉄の輸出を禁止。翌年5月英国はマレーから日本への生ゴムの輸出を禁止。7月米国/英国/蘭国は日本資産を凍結。8月米国/蘭国は対日石油輸出を禁止。※北朝鮮への対応と同じ。日本が防衛戦争を主張するのも納得できる。

・1941年9月独軍によるロンドン空襲が始まるが、英軍は制空権を回復する。11月独軍はモスクワ攻撃に失敗する。
・1941年10月東条内閣発足。11月ハル国務長官は「ハル・ノート」を手交。12月日米開戦。彼もセオドア・ルーズベルトと同様、人種主義者であった。

○ルーズベルト・チャーチル会談 ※チャーチルは忙しかった。英国の苦労も分かる。
・1940年5月独軍のベルギー/オランダ侵攻によりチャーチルが英国首相に就く。チャーチルは彼と毎日の様に電報を交わし、また側近ハリー・ホプキンスを各国に派遣した。
・1941年8月米国オーガスタでチャーチルと彼は会談し、戦後の基本方針となる「大西洋憲章」を発表する。
・1941年12月ワシントンで米英首脳が会談。①太平洋は米国が司令、大西洋/欧州は英国が司令②米英軍による北アフリカ作戦③連合参謀長会議の創設が合意される。大戦中、連合参謀長会議は200回程開かれた。

・1942年6月ワシントンで米英首脳が会談。7月ロンドンで米英軍部首脳が会談。米国は北フランス上陸を主張するが、北アフリカ上陸作戦が了承される。米国は対日重視派(キング合衆国艦隊司令長官、太平洋方面陸軍司令官マッカーサーなど)と対独重視派(マーシャル参謀総長など)で分裂していた。
・1942年8月モスクワで英ソ首脳(チャーチル、スターリン)が会談。チャーチルは①北アフリカ上陸作戦とドイツ空爆を重視②北フランスに上陸し、第2戦線(西部戦線)を作るのは困難を伝える。スターリンは政治家より、革命家としての経歴が長かった。

・1943年1月カサブランカ(モロッコ)で米英首脳が会談。連合参謀長会議でキング合衆国艦隊司令長官は「シシリー島上陸作戦はイタリア維持の負担が増えるだけ、北フランスに上陸すべき。またビルマ侵攻によって蒋介石政府を支援すべき」と主張し、英国の手を焼く。
・1943年5月ワシントンで米英首脳が会談。①北アフリカ作戦の成功でスエズ運河が利用可能になった②来年北フランスに上陸したい③ビルマ侵攻作戦④ソ連の対日参戦などが協議された。北フランス上陸作戦の期日(来年5月)が決まるが、ビルマ侵攻作戦の期日は決まらなかった。

・1943年8月ケベック(カナダ)で米英首脳が会談。欧州方面の総司令官はアイゼンハワー、太平洋方面の総司令官はマッカーサーとなる。ビルマ侵攻作戦は英国マウントバッテン海軍中将が総司令官となる。
・1943年11月カイロ(エジプト)で米英首脳が会談。本会談に蒋介石も出席する。
・1943年11月テヘラン(イラン)で米ソ首脳が会談。「英国が地中海を重視するのは帝国主義だから」で意見が一致する。同日、米英ソ首脳会談も行われる。スターリンは対独戦争終結後に対日戦争に加わる事を伝え、第2戦線(西部戦線)の形成を強く要求した。

・1944年6月ノルマンディー上陸作戦が始まる。同年夏、本作戦は完了する。太平洋方面でもマリアナ攻略/ニューギニア占領がほぼ完了していた。
・1944年9月ケベックで米英首脳が会談。太平洋での対日戦争に英艦隊も参加する事になる。この頃彼の病状は悪化していたが、11月大統領選で4選を果たす。

・1944年10月モスクワで英ソ首脳が会談。①ソ連の対日参戦②戦後の欧州体制(特にポーランド問題)③ビルマ戦線が協議される。対日参戦はドイツ降伏の3ヶ月後となる。ポーランドでの傀儡政府を意図するスターリンにとって、英国の亡命ポーランド政府は目の上の瘤であった。
・1945年2月ヤルタ(ソ連)で米英ソ首脳が会談。①戦後のドイツ問題②ポーランド問題③国連の創設が協議された。

・1945年4月彼は死去する。最期を看取ったのは妻エレノアではなく、愛人ルーシーだった。5月ドイツ降伏、8月日本降伏。

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