top learning-学習

『史書を読む』坂本太郎を読書。

古代から近代までの史書29書を毀誉褒貶している。1史書当りの解説量は少ないが、内容は濃い大著である。
様々な史書がある事を再認識。存在を知らなかった史書もある。

お勧め度:☆(滅多に見ない熟語や古文が出て来るので難解。史書に造詣が深い方)

キーワード:日本書紀、六国史、続日本紀/桓武天皇、編年体/紀伝体、日本後紀/藤原緒嗣、続日本後紀/藤原良房(藤原北家)/春澄善縄、文徳実録/都良香、三代実録/菅原道真/応天門の変/班田制、日本紀略/藤原式家、古事記、帝紀/旧辞、風土記、古語拾遺/忌部氏/中臣氏、高天原/岩戸隠れ/天孫降臨、旧事本紀/国造本紀/物部氏・尾張氏/ニギハヤビノミコト、扶桑略記、将門記/軍記物語、大鏡/物語風歴史/藤原道長、鏡/四鏡、今鏡/水鏡、愚管抄/歴史理論の書、平家物語/語り/野宮定基・定俊、吾妻鏡/徳川家康、元亨釈書/仏教史/伝・資治表・志、増鏡、太平記/後醍醐天皇、神皇正統記/北畠親房/正理、梅松論、本朝通鑑/林羅山・春斎、大日本史/徳川光圀、読史余論/古史通/新井白石、日本開化小史/田口卯吉/財貨/群書類従/国史大系

○日本書紀
・『日本書紀』は41代持統天皇までを記しているが、面白い史書である。ヤマトトトヒメはオホモノヌシが蛇と知って尻餅をつき、その時ホトを箸で突いて死ぬ。その墓が「箸墓」である。また「壬申の乱」の「瀬田橋の戦い」も軍記物語の様で面白い。
・また不思議な史書でもある。国語を無理に漢字化した文章も多いし、「改新の詔」当時は「評」が使用されていたのに、全て「郡」に書き直している。

○続日本紀
・『続日本紀』はショクニホンギが正しい読み方。「平城」もヘイゼイが正しい。「六国史」の2番目で42代文武天皇から50代桓武天皇まで(ほぼ奈良時代)を記す。今上天皇(桓武天皇)の治政を記した唯一の国史。
・天平文化の華やかさも、ドロドロした権力闘争も簡潔な漢文で記し、大学でテキストとしてよく使われる。
・「六国史」は代替わりを考慮した「編年体」(日付順)で記されている。中国の『史記』『漢書』は「紀伝体」(本紀・列伝・志・表)で記され、『春秋』『漢紀』『後漢紀』は純粋な「編年体」(日付順)で記されている。
・編修責任者は前半は菅野真道、後半は藤原継縄(藤原南家)で内容が大きく変わる。

○日本後紀、続日本後紀
・『日本後紀』は4代(50代桓武天皇~53代淳和天皇)、『続日本後紀』は1代(54代仁明天皇)を記す。『日本後紀』の編修総裁はは藤原冬嗣、『続日本後紀』は藤原良房で共に藤原北家の嫡流(摂関家)である。
・藤原緒嗣(藤原式家)は『日本後紀』(819年着手、840年完成)の編修に一貫して加わった優れた臣下で、本書にその人格が表れている。

・『続日本後紀』にも藤原北家が摂関家となる基礎を築いた藤原良房や、儒教政治を理想とした春澄善縄の意向がよく表れている。

○文徳実録、三代実録
・「六国史」で『文徳実録』(55代文徳天皇)は最短の10巻、『三代実録』(56代清和天皇~58代光孝天皇)は最長の50巻である。
・文徳朝に初めて皇室でない藤原良房が太政大臣になった(※彼の前に藤原仲麻呂、道鏡がいるけど?)。藤原家の栄華を記した『大鏡』(後述)は文徳天皇から始まっている。
・『文徳実録』は5位以下の伝記が34人と多く、地方の記述も多い。これは編者・都良香の影響と思われる。

・『三代実録』は59代宇多天皇が源能有に編修を命じ、藤原時平(藤原北家)/菅原道真などが編修した。しかし道真は完成直前(901年)に大宰府に左遷された。
・『三代実録』の時代に「応天門の変」で名族伴氏が没落し、藤原北家が専制を強めた。また「口分田」の不足で「班田制」は崩壊し、政府財政は悪化した。

○日本紀略
・『日本紀略』は『日本紀類』(42代文武天皇~68代後一条天皇)『日本紀略』(60代醍醐天皇~後一条天皇、初代神武天皇~後一条天皇)など多種類ある。
・本書は「六国史」からの抄略(抜粋?)の前篇(~58代光孝天皇)と後篇(59代宇多天皇~)に分かれる。
・前篇は藤原百川/種継(共に藤原式家)に詳しく、編者は藤原式家の人と推測される。後篇は記述のない期間や逆に重出記述(例:「延喜格」の撰進/施行)があり、杜撰である。

○古事記
・「六国史」は正史だが、『古事記』は物語的歴史である。
・本書は天武/持統天皇の命で、諸家が持っていた「帝紀」「旧辞」を削偽定実し、712年に完成した。8年後に完成した『日本書紀』は漢文に変わるが、天皇の訓み/代数は完全に一致し、后妃/宮都/山陵もほぼ一致する。
・本書は年月に疎い史書であり、33代推古天皇までの内、崩年干支が記された10代崇神天皇以下の18代のみを実在とする説がある。

○風土記
・『風土記』は播磨/常陸/出雲/豊後/肥前の5ヵ国が存在する。撰上された時期は、播磨/常陸は715年以前、出雲は733年以降、豊後/肥前は更にそれ以降。豊後/肥前は形式が同じで、大宰府で編修されたと思われる。
・本書では「旧聞異事」「地名説話」が豊富に記されている。播磨に逃げたオケ王/ヲケ王(後の仁賢/顕宗天皇)の話は「記紀」より詳しい。また「土質」「産物」「道路網」も詳しく記されている。※以前『出雲風土記』の解説を読んだが、情報の豊富さに驚いた。

○古語拾遺
・『古語拾遺』は斎部氏(忌部から改姓)が編修。その背景に忌部氏と中臣氏の対立があった。忌部氏は神事で幣帛を、中臣氏は祝詞を司っていたが、地位は忌部氏が宿禰、中臣氏が朝臣で中臣氏が高かった。桓武朝は氏高下の不平が顕わとなった時代である。
・本書の神代の物語は『日本書紀』より詳しい。忌部氏の祖神である天太玉命とその父の高皇産霊神の「高天原」での活躍を詳述している。また「岩戸隠れ」で、多数の神が調度を備え、天照大神を引き出した事も詳述している。この神々は地方の忌部氏の祖神になった。「天孫降臨」ではニニギノ尊は八咫鏡/草薙剣/矛/玉を授けられたとある(四種の神器)。

○旧事本紀
・『旧事本紀』は推古朝に聖徳太子が蘇我馬子に録させたとされるが、偽作と思われる(※推古朝では難しいでしょう)。しかし物部氏/尾張氏に関しては「記紀」より詳しく、両氏と関係が深い人の編修と思われる。
・本書は10巻で、1~6巻が神代、7~9巻が人代(初代神武天皇~33代推古天皇)、10巻が「国造本紀」である。
・大和地方を治める「ニギハヤビノミコト」(物部氏/尾張氏の祖神)が東征してきたイワレビコ(後の神武天皇)に下る神話が記されている。「ニギハヤビノミコト」も高天原から天降っており、32神と10種の神器(鏡、剣、玉、比礼)を授かっており、ニニギノ尊の「天孫降臨」より豪華である。
・「国造本紀」には144ヵ国の国造/県主を記すが、問題点が多い。

○扶桑略記
・『扶桑略記』は「六国史」と違って卑俗の物語を収め、中世に大きな影響を与えた。「扶桑」は日本を意味する。著者は下級貴族出身で叡山の僧・皇円。
・本書には霊狐の霊験譚などが記されている。
・宇多/醍醐/村上天皇の日記も逸文として残り、興趣が尽きない。※本書の「陽成院」「寛建法師」「内裏火災」を書き下し、解説しているが難解。

○将門記
・『将門記』は軍記物語の祖である。本書には唐の訓誡の書『帝範』が引用されるなど、文飾が多い。また大臣を任命したなど粉飾が多く、事実性は低い。
・将門は摂政藤原忠平に仕えた事があり、著者は忠平の関係者と思われる。

○大鏡
・『大鏡』の原名は「世継の物語」で、鎌倉時代に『大鏡』になった。歴史を「鏡」(鑑)とする思想は中国から伝わっていた。ちなみに「四鏡」は『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』を指す。
・本書は「物語風歴史」で藤原北家の繁栄が主題。期間は55代文徳天皇から68代後一条天皇まで14代で、藤原冬嗣から道長までである。形式は紀伝体で、2人の老人と若侍の対談である。
・本書の「藤原忠平/道長の胆力」「藤原師輔の3人の子(伊尹、兼道、兼家)の権力争い」を抜粋し、解説している。

○今鏡、水鏡
・『大鏡』が好評で、平安時代末に『今鏡』、鎌倉時代に『水鏡』、南北朝時代に『増鏡』が書かれる。
・『今鏡』は68代後一条天皇から80代高倉天皇までの13代で、白河/鳥羽/後白河上皇の院政が行われた時代である。本書は10巻で、1~3巻は天皇・后妃、4~6巻は藤原、7巻は村上源氏、8巻は皇子、9・10巻は逸話を記している。歴代天皇の評価は読みごたえがある。

・『水鏡』の期間は初代神武天皇から54代仁明天皇までで、『大鏡』の前に位置する。本書は『扶桑略記』の転記で、『扶桑略記』の欠を補う価値がある。

○愚管抄
・『愚管抄』の著者は関白藤原忠通の子慈円で、彼は教界を領導した。よって九条家(藤原摂関家)の発展を強く意識した史書である。「承久の乱」直前に完成し、その後追記されている。
・本書は7巻で、1~2巻は年代記、3~6巻は史実を評価し、7巻は歴史全体を評価している。よって最初の「歴史理論の書」とされる。『大鏡』と同じく、「道理」が頻繁に使われている。

○平家物語
・『平家物語』には多数の異本がある。13世紀に琵琶法師の「語り」を基に6巻本が作られ、その後12巻本に増え流布本となった。更に20巻本「長門本」、48巻本「源平盛衰記」が作られた。
・「清盛は残忍、重盛は仁孝、源氏は勇健、平氏は懦弱」の仮定から事実の削除/捏造が多い。また「末法史観」が底流にあった。
・江戸時代の公家・野宮定基/定俊親子は『平家物語考証』を著し、卓見で物語の真偽を判定した。

○吾妻鏡
・『吾妻鏡』は鎌倉将軍6代(源氏3代、藤原氏2代、宗尊親王)を実録する。前3代記は政治/軍事/武士道、後3代記は天変地異/祭祀祈祷に関する記事が多い。『源平盛衰記』を材料にするなど、誤謬が多い。しかし朝幕間の調節が記されているため、徳川家康は本書を手放さず愛読した。
・本書には後北条氏に伝わった「北条本」51巻と吉川家に伝わった「吉川本」48巻がある。

○元亨釈書
・『元亨釈書』は仏教史で、寺院/宗派/法会/寺像まで記されている。元亨2年に東福寺の僧・虎関師錬が著作した。
・本書は伝/資治表/志の3部構成。「伝」は僧侶の伝記で10目に分かれている。主要な高僧には論/賛を記して評価している。「資治表」は史実を多く載せ、理解し易い。「志」は10志に分かれている。

○増鏡
・『増鏡』は「四鏡」の掉尾で、82代後鳥羽天皇から96代後醍醐天皇までの15代を記す。王朝の盛時を願う書物だが、大覚寺統(南朝)支持でも持明院統(北朝)支持でもない。本書に批判的な記述はなく、単調な歴史書である。
・本書の「承久の乱」「元寇」「北条時頼廻国説」「浅原為頼皇室乱入事件(※知らない事件)」の原文を記載し、解説している。

○太平記
・『太平記』は軍記物語であるが、『平家物語』が「歴史的物語」とすると、本書は「物語的歴史」で雲泥の差がある。しかし本書も「講釈師」によって広まった。
・本書は①(1~12巻)96代後醍醐天皇の即位から「元弘の乱」を経て「中興政治」まで、②(13~21巻)「中興政治」の失敗から後醍醐天皇の崩御まで、③(22~40巻)両朝の対立と足利幕府の内訌から足利義詮の死までの3部に分かれる。
・本書の「蔵人右少弁・日野俊基の道行文」「後醍醐天皇」「新田義貞の鎌倉攻め」を抜粋し、解説している。

○神皇正統記、梅松論
・『神皇正統記』は忠臣北畠親房が『元元集』『職原抄』の草稿を基に著した。本書は鎌倉時代の『愚管抄』を継承し、共に仮名交じり文で歴史評価を行っているが、その内容は対蹠的である。本書は道徳史観で「正理」を強調している。
・延元4年(1339年)に初稿本が著されるが、前年に北畠顕家/新田義貞が亡くなり(楠木正成は1336年)、当年は後醍醐天皇が崩御し、南朝にとって危機的な年であった。

・逆に足利側に立つのが『梅松論』である。本書は将軍足利尊氏を心剛/慈悲天性/心広大と讃えるが、後醍醐天皇やその忠臣も讃えている。

○本朝通鑑
・徳川家康は学問を好み、江戸時代は学問復興の時代である。家康と林羅山の出会いも面白い。

・江戸時代は①(寛永~貞享)3代家光~5代綱吉、②(寛政~嘉永)11代家斉~12代家慶に国史編修が行われた。①の時期に『本朝通鑑』が編修された。
・家光は羅山に国史編修を命じ、1644年羅山は初代神武天皇から59代宇多天皇までの『本朝編年録』40巻を献上する。
・1664年4代家綱が羅山の子春斎に国史編修を命じ、70年『本朝通鑑』が完成する。本書は正編(神武天皇~宇多天皇、『本朝編年録』)40巻、続編(60代醍醐天皇~107代後陽成天皇)230巻など全310巻となった。
・本書では安徳朝/後鳥羽朝と南朝/北朝の元号を併記している。また『晋書』の太伯説は否定している。

○大日本史
・近世歴史書の双璧は『本朝通鑑』『大日本史』であり、本書は「明治維新」の拠り所でもあった。本書は紀伝体を採り、出典を例外なく挙げている。
・徳川光圀が国史編修を命じた理由は、光圀が『史記』「伯夷伝」を読み、その境遇に自身を重ね、感じた所による。光圀は『本朝通鑑』を強く意識し、吉弘元常/佐々宗淳(助さん)を奈良に遣わす。
・本書の特筆は①神功皇后の即位を否定する②大友天皇の即位を肯定する③南朝を正統とする。

・1697年「百王本紀」(初代神武天皇~100代後小松天皇)73巻が完成する。1700年編修局を水戸と江戸に分ける。15年「列伝」170巻が完成し、20年「百王本紀」「列伝」など250巻を献上する。1805年印刻が始まる。
・1906年「志表」154巻が完成し、全390巻となる。「志」は神祇/氏族/職官/国郡など10編、「表」は臣連伴造/公卿/国郡司など5編からなる。

○読史余論、古史通
・『読史余論』は新井白石が著した。牢人の白石は37歳の時、徳川綱豊(後の6代将軍家宣)に仕える。本書は白石の進講の副産物である。
・本書は56代清和天皇から南朝までの時代を9期間、その後の武家時代を5期間に分けて叙述している(九変観・五変観)。白石は儒教の歴史観から後白河法皇/足利義満などを酷評している。

・1716年白石は『古史通』を7代将軍家継に呈上している。彼の合理主義で神代を解釈している。また「高天原在常陸論」を説いている。

○日本開化小史
・1875年福沢諭吉は『文明論之概略』を著し、既存の歴史書に疑問を呈した。

・1877年田口卯吉は『日本開化小史』(全6巻)の第1巻を刊行する。彼は歴史の動力を「財貨」とし、人の快楽主義/利己主義を説いた。また代々の為政者を峻烈に批判するが、旧幕臣のため徳川家康の評価は甘い。
・それよりも彼の功績は、国史・国文の叢書『群書類従』(1779年、塙保己一)と重要な史書41種を集めた『国史大系』を活版印刷した事にある。

○解説-大津透
・著者坂本太郎は、1945年東京帝国大学教授に就任し、歴史学が「皇国史観」から「唯物史観」に変わる重責を一人で担う。
・彼の専門は日本古代の制度史研究で、その実証過程は評価できる。また文献研究も専門で、日本歴史叢書『六国史』は代表的な著作である。

top learning-学習