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『江戸時代後期の広島藩における地誌編纂事業の実態』吉良史明を受講。

『芸州厳島図会』が江戸時代後期(1827~42年)に編集されたが、その実情を紹介。編者達の背景には儒学と国学の対立があったのか?

『芸州厳島図会』の実物に触れたが、当時の図鑑と思える書物でした。今で云えば、「宮島観光ガイド」(10巻もありますが)でしょうか。
木版刷されたので、ある程度の部数が出回ったと思われます。

吉良史明氏は安田女子大学文学部の講師をされており、専門は中近世の日本文学です。

キーワード:芸州厳島図会、国学、儒学、岡田清、田中芳樹、頼杏坪/春水/山陽、加藤棕廬、芸藩通志 、丹霞日記

○はじめに
・『芸州厳島図会』(以下本書)は「厳島名所図会」5巻と「厳島宝物図会」5巻で構成されます。
・文政10年(1827年)に起業し、天保13年(1843年)に発兌しています。
・編者は国学者の岡田清、校正は国学者の田中芳樹と儒学者の頼杏坪と加藤棕廬です。

・岡田清は文化4年(1807年)生まれ、国学者、広島藩士。田中芳樹から国学を学ぶ。
・近藤芳樹は享和元年(1801年)生まれ、天保11年(1840年)田中より改姓。国学者、長州藩士。藩校「明倫館」で国学の講師を務める。
・頼杏坪は宝暦6年(1756年)生まれ、天保5年(1834年)没、儒学者、広島藩士。頼山陽の叔父(長兄春水の子が頼山陽)。広島藩学問所(後の修道館)で儒学を教える。『芸藩通志』(159巻、1825年)などを編集。
・加藤棕廬は寛政2年(1790年)生まれ、儒学者、広島藩士。頼杏坪に儒学を学ぶ。『芸藩通志』の編集に加わる。

○先行研究
・国学者の田中芳樹は広島に滞在し、岡田清の本書編集を助けた。その頃、広島藩では儒学者の頼杏坪が勢力を保持していた。

○『芸州厳島図会』の序
・本書「序二」を田中芳樹が和文で記している。そこには5巻となっている。
・本書「序三」を岡田清本人が和文で記している。そこで「田中芳樹の訂正で、藻屑が玉を得た」と感謝している。

○巻1の詩歌
・本書巻1(厳島名所図会)に「厳島全図」8面が記されている。1面には本居宣長(国学の大家)の和文の詩歌を載せている。2面には菅茶山(福山藩の儒学者)の漢文の詩歌を載せている。※何か国学と儒学の対立を窺わせる。

○『芸藩通志』と『芸州厳島図会』
・頼杏坪と加藤棕廬は『芸藩通志』(159巻、1825年)の編集にも携わった。
・本書巻1(厳島名所図会)に「厳島」の記述がある。その記述は『芸藩通志』と酷似している。なお『芸藩通志』は1825年成立、本書は2年後の1827年着手です。
・本書巻6(厳島宝物図会)に「抜頭面/還城楽面」の記述があるが、これも『芸藩通志』と酷似している。

○田中芳樹の日記『丹霞日記』
・天保7年(1836年)田中芳樹は正月1日を広島で迎えている。
・11月4日、本書の「桜尾城」の編集作業に当たっている。
・11月5日、棚守氏(厳島神社の神官)の所に行き、古文書に載っていた毛利輝元の歌詞を見て感動する。
・11月6日、宝蔵に行き、琵琶「玄上」を見る。本書巻6(厳島宝物図会)には「玄上図」「玄上考」が記されている。
・11月13日、絵師・蘭陵/文陽と行動を共にする。

・天保8年2月9日、頼聿庵(頼山陽の子)の酒宴を訪れる。
・4月18日、田中芳樹の離別により頼聿庵/文陽/蘭陵/加藤棕廬などが訪れて来る。
・天保11年7月23日、頼杏坪の年忌に招かれる。

・田中芳樹は『寄居歌談』に「広島で地位を確立できたのは頼杏坪のお陰」と記しているが、それは皮肉と思われる(久保田啓一「近藤芳樹の活動拠点としての広島」)。

○儒学と国学
・儒学者で長州藩士の山県太華は『鄙言』で、本居宣長(国学)を異学と批判している。
・頼杏坪は『唐桃集』で、契沖(国学)を批判している。

・本書巻4(厳島名所図会)の「弥山開基の由来」には、契沖の歌詞が記されている。
・『芸藩通志』の「重造厳島神廟鳥居記」には、鳥居の柱の1本は「杉」で作られている、と記してある。一方、本書巻1の「大鳥居の図」には、1本は「萩」で作られている、と記してある。※儒学への抵抗か?

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