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『日本人が知らない幸福』武永賢を読書。

著者はベトナム難民で、日本人が経験できない生活を、ベトナム及び日本で送ってきた。
日本人が考えさせられる豊かさ/家族などについて記されている。記されている事の大半に、同感できると思う。

お勧め度:☆☆

キーワード:ベトナム、難民、水/ミネラルウォーター、人助け、塾/レッスン、貧乏、曽野綾子、果物/友人、親子、略奪、ジャングル、クリニック、経験/思い出、納税、自立心/相談、歌手/読書、体験/幸福

○まえがき
・著者は1965年ベトナム・サイゴンに生まれる。9人兄弟の次男で、姉が6人いる。75年サイゴンは陥落し、共産主義国となる。国外脱出を7回試みるが、何れも失敗。82年日本に難民として移住。94年医師に就く。

○水とミネラルウォーター
・母は食事に関しては、自分が食べたいだけ与えてくれたが、水と電気に関しては厳しかった。
・15歳の時、著者と6番目の姉は脱出のためメコン川河岸の民家に隠れた。そこには水道がなく、食事は雨水を利用したが、それ以外は川の水を利用していた。乾期で雨が降った時は、外に出て天に感謝した。
・ベトナムでは水道水を沸騰させて飲んでいた。日本の水道水は飲めて、洗濯や入浴に利用できる、日本の豊かさを感じた。日本でミネラルウォーターを利用する意味があるのか。

・32歳の時、次姉の長男が日本に留学する事になった。著者は「人助けは、できる人ができる時にする」が信念で、当時は無給医であったが、援助を受け入れた。

○塾
・9歳の時サイゴンが陥落、父はジャングルに身を隠し、男手の著者は母の商売を手伝った。兄弟は受験の年に塾に通ったが、著者は塾に通わなかった。親に「塾に行きたい」と言う事もなかった。
・今はフランス語とダンスのレッスンを受け、少年時代にできなかった事に、「幸せ」を感じている。

○貧乏
・日本に移住し中学3年の時、初めて参考書を3,200円で買った。その時5番目の姉が3千円の図書券と、母が食費から200円を出してくれた。大学生になるまで小遣いはもらわなかった。
・高校2年の時「難民を助ける会」の援助で予備校に通えるようになった。1年浪人して杏林大学医学部に合格したが、学費が出せなくなった。曽野綾子先生がそれを知り、産経新聞が寄付を募ってくれた。大学も奨学金制度を創設し、お蔭で入学できた。
・もし願いが叶うなら、どんな運命でも許容できる人間にして欲しい。

○果物と友人
・サイゴンが陥落し、父はジャングルに身を隠し、母が闇市で商品を購入し販売する事で生計を立てた。兄は既に日本に渡っていたため、男手唯一の著者が商売を手伝った。この手伝いは、日本に来る16歳まで続いた。
・母は山積みの商品の中から良い物を選ぶコツを教えてくれた。著者は今でも、海外旅行でもスーパーではなく市場で買う事が好きである。

・著者は人の外見/経済力/家庭事情などは考えず、時間を掛けて友人を選んできた。

○親子
・日本に来た頃、日本人から色々な質問を受けた。大概「あなたは両親に大事に育てられたのね」で会話が終わった。何故そう言われるのか理由が分からなかった。
・医局長のお宅を訪れた時、その理由が分かった。その家では息子さんが「お父さん好き」と言葉に表す。幸せな光景である。一方が溺愛するのではなく、双方が愛情を与えてこそ関係が成立する。

・次姉の長男が愛媛大学医学部に合格した。彼は祖父と5歳の時に別れたのに「おじいちゃんが救ってくれた」と言った。
・著者は両親を「成功者」と思う。それは親は子を思い、子は親を思う関係を築けたからです。

○略奪
・イラク戦争時のバグダッドやロサンゼルス暴動などで略奪が行われた。サイゴンが陥落した時、著者は裕福な住人が既に逃げた邸宅に、略奪衆と共に侵入し、略奪を傍観した。その時銃声が響き、屋外に逃げたが、途中隣の人は頭を打ち抜かれ倒れた。
・その後も死に晒された経験はあるが、死が訪れた時は冷静に受け止め、生ある内は運命に感謝して生きたい。

○ジャングル
・サイゴン陥落後、父は開墾したばかりの土地を譲り受け、ジャングルで農業を始めた。ジャングルでは米/トウモロコシ/芋/野菜などを作った。著者は夏休みは父の所へ行き、農業を手伝った。貴重な米にトウモロコシやサツマイモを混ぜて食べたが、美味しくなかった。日本のふっくらした米粒に感動した。

・ジャングル生活を始めて3年半後に中越戦争が始まり、父はサイゴンイ戻るが、その間3番目の姉(当時17歳)は喘息を持つ父に付き添った。彼女に「一番希望に溢れる時期に、そこで過ごした事に悔いはない?」と尋ねると、「カボチャの実でも様々あるのよ。同じである事を要求するのは自然の摂理に反するでしょ」と答えた。

○クリニック
・娘が高血圧の母を連れ、診察に来た。半年後母娘が泣きながら話をする場に遭遇した。娘は日本人と結婚し日本語も話せるが、母は日本語もできず保険証も持っていない。孤立する高齢者の問題が存在する。
・著者家族は1982年日本に移住、95年父が亡くなる。母は共働きの兄夫婦と同居していたが、その後は寂しい思いをしたのではないか。

・若い男女が診察に来た。彼女は急性白血病であった。彼女は保険証を持たないため、帰国して治療を受ける様に説得した。数年経ち、ある男性がクリニックを訪れた。その男性は前述の彼で、彼女は元気になり、普通の生活を送っているそうだ。著者は大きな「幸せ」をもらった。

○経験と思い出
・ベトナムからチェコスロバキアに出稼ぎに行った女性と文通していたが、1989年「ベルリンの壁崩壊」から連絡が取れなくなった。2003年ベトナムに帰国した時、たまたま彼女も帰国していて再会した。彼女は西ドイツに逃れ、労働力不足に悩む西ドイツに難民として受け入れられ、永住権も取得したそうである。
・著者は脱出に7回も失敗した。教会の軒下で2晩野宿した事もあれば、小舟に乗っていて公安船に銃撃された事もあった。
・人は最期を迎える際、あの世に持って行けるのは、稼いだ財産/勝ち取った地位・高名ではなく、その人の経験と思い出だけではないだろうか。

○納税
・クリニックに3回しか診察に来なかったが、気になる男性がいた。最後に診察に来た時、彼は「うつ状態」であった。彼は難民申請は認められていたが、健康保険証は持っていなかった。
・日本には国民皆保険制度がある、ベトナムにはない。また邦人が海外で事件/事故に遭遇した際、大使館は救出に当ってくれる。これらの恩恵を受けられる国は少ない。権利を得るには納税の義務がある、著者はこの納税に喜びを感じる。

○自立心と相談
・8歳の頃、高熱を出したが、家族には言わなかった。また13歳の頃、膝の関節に痛みがあったが、これも家族には言わなかった。我慢強くもあったが、自立心も強かった。
・両親は子供達が自分で決めた事に反対しなかった。ただ一度だけ反対した事がある。妹が大学1年の時、ベトナムに関係する映画の主役に誘われた。父の反対もあり断ったが、今では妹も未練がない様だ。

・著者が日本に移住した時、年齢では高校生であったが、冬休みでもあり中学2年に編入する。2年の時は、隣の席が話し好きの女の子で助かったが、3年になると無口な女の子になり、先生に相談した。話し好きの女の子の隣になり、授業に付いて行ける様になった。
・日本に「ホウレンソウ」と云う言葉があるが、良い言葉だと思う。

○歌手と読書
・小学生の時パーティで歌い、みんなから褒められ、歌手になる夢を持った事もある。
・父は読書が好きで、夕方7時から9時までは家族皆が集まって、黙って読書をしていた。著者は世界の偉人の伝記を読むのが好きであった。

・ベトナムの国語の試験は、テーマに対して作文で回答するスタイルであった。著者は中学1年までは国語は苦手だったが、中学2年になると学年でトップになるほど成績が上がり、自信となった。「文章が短く、分かり易い」「明確な例を使用している」と評価された。

・南極地質調査船の船医になった時、処女作『それでも日本人になった理由』を1年4ヵ月掛けて書き上げた。その後も本を書き続けたが、曽野綾子先生から「読者がイメージできるように書いて下さい」の貴重なアドバイスを頂いた。

○あとがき
・この本は「色々な経験をしたので、若者に発信する本を書いてみては」の助言から書き始めた。余りにも特殊な経験なので、最初は躊躇したが、今は「人には様々な人生があって当然」と思っている。
・著者は「夢を追いかける」「青年よ、大志を抱け」は好きではない。これらとは別に「能力にあった大望は望ましい」「大志は単なる願いの影である」が好きである。

・様々な体験をさせてくれた両親/兄弟に感謝している。これらの体験があるから、些細な事に幸福を感じ、生きて行ける。
※本書を読んで、小学1年の教室に掛かっていた「苦楽」の額を思い出した。

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