『匈奴』沢田勲を読書。
漢時代頃(紀元頃)にモンゴル高原で活躍した匈奴を解説。
匈奴は漢との抗争を繰り返し、分裂と漢への服属を2度迎えます。
匈奴は文字を持たなかったため未解明の部分も多く、今後の考古学による発掘にも期待。
大変詳しく、匈奴の概要を知るのに最適。
お勧め度:☆☆
キーワード:匈奴、遊牧、胡、始皇帝/万里の長城、冒頓単于、武帝/張騫/衛青/霍去病、李陵/司馬遷/史記、呼韓邪単于/東匈奴、公主/王昭君、王莽、オルドス青銅器文化、ノイン・ウラ、穹廬、閼氏、屠各種/攣鞮氏、左右賢王/左右谷蠡王/左右骨都侯、貴姓氏族、掠奪、呼韓邪単于/南匈奴、車師、班超、北匈奴/呼衍王、匈奴・フン同族説、八王の乱/前趙/五胡十六国、北魏/独孤部
○まえがき
・匈奴に関係する小説に中島敦『李陵』がある。その「李陵」の匈奴への投降で、「司馬遷」は宮刑を受け『史記』を著した。『史記』の「匈奴列伝」は大変有益な史料である。
<匈奴の登場>
○源流
・モンゴル高原の景観は、基本は草原だが一様ではない。匈奴はこの地で騎馬遊牧生活を送った。漢人は匈奴を「胡」とも称した。
・匈奴は人種的にはモンゴル系またはトルコ系と推定される。
○勃興
・戦国時代の前307年、「趙」は匈奴の強力な騎馬軍制を取り入れた。
・秦「始皇帝」(位前246~221)の時、「頭曼単于」が匈奴を統一した。「始皇帝」は将軍「蒙恬」に30万の兵を与え、前215年匈奴を退け、「万里の長城」を築いた。
○遊牧国家
・「始皇帝」の死により「頭曼単于」は「オルドス」(黄河の屈曲部)を回復する。
・前209年「頭曼単于」の長子「冒頓単于」(位前209~174)は父を殺害し単于になる。
・前200年「冒頓単于」は「白登山の戦い」で漢「高祖」(劉邦)を破る。漢は匈奴と和睦し、以降貢物を献上する。
・前176年「冒頓単于」は西域を獲得し、月氏を分裂させる。月氏はイリ地区(天山山脈の北部)の大月氏と、甘粛の小月氏に分裂する。
<漢との攻防>
○対立
・前139年漢「武帝」(位前141~87)は匈奴を挟撃するため、大月氏に「張騫」を送る。しかし大月氏に匈奴と戦う意志はなかった。前126年「張騫」は帰国し、西域の貴重な情報を持ち帰った。
・前129年武帝は大将軍「衛青」の活躍でオルドスを回復する。119年将軍「霍去病」が匈奴を河西地区から追い出し、「河西回廊」(武威-河西(張掖)-酒泉-敦煌)を設置する。これによりイラン/シリアの国まで漢に朝貢した。
○内紛
・前99年「李陵」は匈奴に敗れ投降する。「李陵」を弁護した「司馬遷」は宮刑を受け、『史記』を著す。他に「衛律」は匈奴に亡命し、孤鹿姑単于/壷衍鞮単于の側近になった。
・前96年匈奴は西域支配強化のため「日逐王」を設置するが、前71年東から「烏桓」、西から漢と「烏孫」に攻められ後退する。
○東西分裂
・前60年「日逐王」が漢に投降し、漢は「西域都護」を設置する。匈奴は5単于に分裂する。前54年西匈奴「郅支単于」は単于庭を掌握するが、前36年漢により斬首される。前51年東匈奴「呼韓邪単于」(位前58~31)は漢に入朝し、臣下となる。
○公主
・異民族に嫁いだ天子の娘を「公主」と云う。「烏孫」に嫁いだ公主に「細君」「解憂」がいる。「王昭君」は「呼韓邪単于」に嫁ぐ。彼女が悲劇のヒロインになったのは、元時代の物語による。
○中興
・後8年「王莽」(位8~23)は漢から禅譲され「新」を建国。「王莽」は対匈奴強硬政策に転じる。これにより東の「烏桓」「鮮卑」や西域諸国が匈奴に服属し、「単于輿」(呼都而尸道皋、位18~46)の時、匈奴は極盛となる。
<匈奴の文化>
○特質
・「オルドス青銅器文化」の前期は半農半牧民「山戎」、後期は騎馬遊牧民「匈奴」の文化である。後期の遺跡からは馬具や「グリフィン」(獅子の体に鷲の頭と翼を持つ)が出土する。
・内モンゴル/西域/バイカル湖南部で鉄器が出土し、匈奴は鉄器を多量に製造していた。
・「ノイン・ウラ」の墳墓は単于の墓とされ、毛織物/絹布/漆器などが出土する。
○経済、産業
・匈奴は馬/牛/羊を追って遊牧していた。一部では農業も行われていた。また漢人の「関市」で必要物資を入手していた。
○衣食住
・匈奴は家畜の乳から酪/酥/馬乳酒を作り飲用した。
・匈奴は「穹廬」(テント)を住居とした。
○風俗、習慣
・匈奴は長子の権力が強く、老人は無力であった。婦人の地位は高かった。漢「高祖」は「白登山の戦い」で、「冒頓単于」の「閼氏」(単于の后妃)への贈物で救われた。
・匈奴にも簡素な法律があった。
・匈奴の宗教は、北アジアに普遍的な「シャーマニズム信仰」であった。
○文字
・北アジアで最初に文字を持ったのは6世紀に登場した「突厥」で、匈奴は文字を持たなかった。
<匈奴の社会>
○部族組織
・『晋書』では匈奴は「屠各種」など19種があった。「屠各種」は貴種で、単于を輩出する「攣鞮氏」や「独孤氏」など8氏で構成された。
・各氏族に氏族長(大人)と氏族民がいた。氏族長(大人)は尊崇され、北アジアで発掘される墳墓の多くは、氏族長の墓と思われる。支配層は姓を持ったが、一般牧民は持たなかったと思われる。
○単于
・「冒頓単于」は父「頭曼単于」を殺害し単于となった。単于は「竜城」と呼ばれる集会で擁立された。「竜城」は年3回(正月/5月/9月)開かれた。
○行政組織
・匈奴は領地を5分割(単于、左右賢王、左右谷蠡王)し、「左右骨都侯」が単于を補佐した。太子は常に「左賢王」に就いた。
○単于、貴姓氏族
・単于の尊号は匈奴だけでなく、東の「烏桓」「鮮卑」でも使われた。
・単于と婚姻する「貴姓氏族」(呼衍氏、蘭氏、須卜氏)は「骨都侯」に就いた。「骨都侯」の権力は次第に拡大し、後に領地も有する様になる。※日本も中国も同じだな。
○掠奪
・北アジアの遊牧民は頻繁に中国に侵入し、掠奪を行った。掠奪の最大の目的は「家畜の補充」であり、人民拉致の目的は農民と手工業者の獲得であった。
・一般牧民にとって「牧草地/家畜の確保」と「牧民の安寧」が最重要で、軍事的に有能な指導者の下に団結した。
○国家論
・サーヴィスは社会は、部族制→首長制→国家の順で発展し、匈奴を首長制社会とした。匈奴の一般牧民は牧草地/家畜の統轄を首長に委ね、匈奴は遊牧国家の形成期と云える。「攣鞮氏」は農業/手工業生産を独占する事で権力を保持した。
<匈奴の分裂>
○南北分裂
・45年モンゴル高原は干魃/蝗害に襲われる。46年「単于輿」(前述)が亡くなり、長子「烏達鞮侯」が継ぐが直ぐに亡くなり、その弟「蒲奴」が継ぐ。
・48年これに反対した「日逐王比」が祖父と同じ「呼韓邪単于」(位48~56)を名乗り、南匈奴を興す。50年「呼韓邪単于」は後漢「光武帝」(位23~57)に朝貢し、臣下となる。前年「烏桓」も朝貢する。
・87年「鮮卑」が北匈奴の左部(東モンゴル)に侵入し、北匈奴の多くの部族が南匈奴に降った。
・94年南匈奴で「日逐王逢侯」が乱を起こす(逢侯の乱)。乱を鎮圧したのは後漢/烏桓/鮮卑の兵で、南匈奴は騎馬民族の性格を失っていた。
○北匈奴の動静
・北匈奴は南匈奴/後漢と度々戦うが、一方交易も盛んであった。
・西域での重要な攻防地点は「車師」(天山山脈の東部)であった。後漢の「班超」は「西域都護」となり、31年間西域を保持した。
・91年後漢/南匈奴は、北匈奴をモンゴル高原からイリ地区(天山山脈の北部)に追い出す(金微山の戦い)。モンゴル高原は「鮮卑」の支配となり、残った遊牧民は「鮮卑」に吸収された。
・イリ地区の北匈奴は貴姓氏族「呼衍王」の下で勢力を回復するが、166年を最後に記録から消える。
○匈奴・フン同族説
・4世紀に東ユーロッパに侵入し、民族大移動の発端となったフン族を、北匈奴とする説がある(匈奴・フン同族説)。匈奴が使用した銅鍑とフン族が使用した銅鍑は酷似している。
○五胡
・91年「金微山の戦い」で北匈奴の部族が南匈奴に流入し、南匈奴の人口は5倍になった。
・189年南匈奴で反乱が起き、反乱軍は「攣鞮氏」でない須卜氏「須卜骨都侯」を単于に立てる。この頃には「攣鞮氏」の権威は失われていた。
・216年魏「曹操」は南匈奴(甘粛の沮渠匈奴、オルドスの鉄弗匈奴は除く)を五部に分割する。
・西晋「武帝」(位265~290)が一時的に中国を統一するが、彼の死で「八王の乱」が起こる。諸王は五胡(匈奴、羯、鮮卑、氐、羌)を兵力とした。
・304年「劉淵」が匈奴五部を統一し「大単于」となり、漢(前趙)を興す(華北は五胡十六国時代になる)。
・386年「鮮卑拓跋氏」が北魏を建国。439年北魏「太武帝」が華北を統一する(南北朝時代になる)。匈奴「独孤部」は北魏皇帝の外戚となり、権力を保持した。北魏の「勧農政策」により鮮卑/匈奴の遊牧民は農民化した。