『落書きに歴史を読む』三上喜孝を読書。
仏堂に書かれた「落書き」から、民衆文化の拡散を解説しています。
戦国末期・江戸初期が解説の中心ですが、この時期は人の交流が盛んで、庶民に文字が広まった時期と思えます。
お勧め度:☆(理系に古文は難しい)☆☆☆(心性史が分かる)
キーワード:落書き、若松寺観音堂、心性史、参籠、観音堂、三十三観音巡礼、かたみかたみ/あらあらこいしや、法隆寺五重塔/難波津の歌、かたみの歌、蔵王、巻数/巻数板、千巻心経、遣唐使/円仁、アンコール・ワット/祇園精舎、西国三十三所巡礼、巡礼札、社寺参詣曼荼羅、文字/呪術
○落書きは歴史資料になるか
・本書の起こりは、山形県天童市「若松寺観音堂」の「落書き」の調査である。本書は政治史・制度史を目指したのではなく、「心性史」を目指した。
○落書きを歴史資料として活用
・歌人・結城哀草果は地元の寺社に書かれた雨乞いの落書きに着目した。
・藤木久志は新潟県「平等寺薬師堂」に書かれた越後で起こった「御館の乱」(1578年)の落書きに着目した。また伊達政宗の会津侵攻(1589年)の落書きに着目した。落書きには「ねまる」と云う言葉が多出する。その意味は「くつろぐ」である。
・山岸常人は滋賀県「善水寺本堂」に書かれた多数の「参籠(さんろう)僧」の落書きに着目した。これらは16世紀に書かれている。
・山形市「石行寺観音堂」(最上三十三観音7番所)の落書きも、大半が天正期に書かれている。
・『山形県史』を集計すると、落書きは①16世紀後半から17世紀前半に②観音堂に書かれているものが多い。ただし山形県寒河江市の古刹「慈恩寺本堂」でも寛永期(17世紀前半)の落書きが多数あった。
○落書きの調査-若松寺観音堂
・「若松寺観音堂」も「西国三十三所巡礼」に倣い、最上氏が平定した天正12年(1584年)以降「最上三十三観音巡礼」が整備される。
・調査は屋根裏と堂内(内々陣、内陣、外陣)で行われた。
・屋根裏に書かれた落書き(墨書)は慶長16年(1611年)に書かれており、改修年が明確になった。「屋根葺き職人」の墨書もあり、彼らは宮城県加美郡から集団で来ていた。
・堂内には、地元(天童、村山地域)の参詣者の落書きが多かった。
○「かたみかたみ」「あらあらこいしや」
・落書きにはパターンがあり、「住所+名前+”かたみかたみ”+日付」のパターンが多い。このパターンは16世紀後半から各地で見られ、自分の住所/名前を書き残すのが目的と考えられる。
・もう一つのパターンが「あらあらこいしや・・・」である。これは中世に流行った男色を表している。
・他に「いろはにほへと」なども見られる。
○歌の落書き
・奈良県「法隆寺五重塔」に書かれた落書き「難波津に咲くやこの花・・・」(難波津の歌)は有名である。この歌は仁徳朝に歌われた古い歌である。この落書きは五重塔の再建時(711年)に書かれたと推定される。「難波津の歌」は約30点出土しており、都城以外からも出土している。
・京都府「醍醐寺五重塔」の天井板に書かれた歌も有名である。また『太平記』には、楠木正行が後醍醐天皇の御廟に歌を書いたと記されている。他に『一遍上人絵伝』には柱に歌を書く絵がある。
・『万葉集』『伊勢物語』『宇津保物語』には土器に歌を書いた事が記されている。
・平安宮左兵衛府や鹿児島県「気色の杜遺跡」(国府跡)から歌が書かれた土器が出土している。
・土器に文字を書くのは①呪術や②習書が目的と考えられる。
○かたみの歌
・「若松寺観音堂」を調査していて、同じ句の歌「書き置くも 形見と成れや 筆の跡 我はいずくの つゆと成るとも」(かたみの歌)が多見された。類似する歌が山形市蔵王「松尾山観音堂」、「慈恩寺本堂」、新潟県「護徳寺観音堂」、高知県「善楽寺」、「善水寺本堂」でも見られ、多くの人に歌われたと考えられる。これらの歌が書かれた時期は16世紀後半から17世紀前半である。
・「かたみの歌」も①手習いや②呪術的目的があったと考えられる。
・『平家物語』『太平記』に「書き置く」と「かたみ」が使われた歌があり、これらが「かたみの歌」の起源かもしれない。※『平家物語』『太平記』は広く伝わったらしい。
○「かたみの歌」の一人歩き
・薩摩・大隅・日向の地誌『三国名勝図絵』に1599年「庄内の乱」のさい、平田三五郎が薬師堂に「かたみの歌」を書いたと記されている。事実は平田三五郎が書いた歌は別物で、後世に成って「かたみの歌」にされた。この物語も男色/出陣などで『太平記』と類似している。
・他に物語『雪折之松』や宮崎県庄内町「関之尾の滝伝説」にも「かたみの歌」が出現する。
○石に刻まれた「かたみの歌」
・山形市上宝沢「王子権現万年堂」(石祠)に「宝永7年 形見と成れや 筆の跡」が刻まれている。宝永7年(1710年)は巡礼の落書きが書かれなくなった時期だが、「かたみの歌」が人々の記憶に残った事を表している。
・「かたみの歌」は「最上三十三観音巡礼」により山形県に広く知れ渡り、「納札」として仏堂に書かれたと考えられる。
・山形県白鷹町「深山観音堂」にも「かたみの歌」に類似した歌が刻まれた歌碑がある。その堂内には、16世紀後半から17世紀前半に書かれた落書きが多数ある。
※「石行寺観音堂」「王子権現万年堂」「松尾山観音堂」はいずれも蔵王の麓にあり、「若松寺観音堂」「深山観音堂」はその近隣にある。
○落書きされた巻数
・「若松寺観音堂」に「”奉読”+経典名」形式の落書きがある。これは「巻数」(かんず)と云われる書式で、読誦した経典の記録である。
・福島県「江平遺跡」から「最勝王経」「天平15年」(743年)などが記された木簡が出土した。『続日本紀』に天平15年に全国各所で最勝王経を転読させたと記されている。
・山形県「道伝遺跡」(郡家跡)から「経典名+数字」が多数記された木簡が出土した。この木簡の上部には木クギが残り、何処かに掲示されたと推定される。
・兵庫県「木梨・北浦遺跡」から上段に「経典名+巻数」、下段に願文が書かれた木簡(972年銘)が出土した。この木簡の上部にも穿孔があり、何処かに掲示されたと推定される。
・石川県「堅田B遺跡」(鎌倉武士の館跡)から「般若心経」全文と願文が書かれた大型木簡が2枚(1251年銘、1263年銘)出土した。
・戦国時代の越後国人・色部氏の『色部氏年中行事』に正月8日に館の門に「巻数板」を掲げる儀礼が記されている。
・相馬中村藩『相馬藩世紀』に宝永元年(1704年)正月8日に「般若心経」を読誦し、「灌頂札」(巻数板)を門に掛けたと記されている。
・福井県大島半島では正月に「勧請板」(巻数板)を村境に掲げる行事が今でも行われている。「勧請板」の表面には奉読した経典名を記し、裏面には願文を記している。
・新潟県佐渡島でも同様に「心経板」(巻数板)を村境に掲げる行事が近年まで行われていた。
・山形県飯豊町「天養寺観音堂」にも「”奉読”+経典名+回数」形式の落書き(1615年銘)がある。これは天気快晴/病気平癒などを祈願する「千巻心経」の記録である。
○海を渡った落書き
・円仁は第19次遣唐使で唐に渡る(838~847年)。五台山巡礼中、開元寺で日本人が発願した浄土図/仏像に出会う。これは第13次遣唐使(759年~)のもので、仏像の左右には「官位+名前」が落書きされていた。
※円仁は第3代天台座主で、東北に天台宗を広めた。浅草寺も開山している。凄い人だ。
・歴史学者・黒板勝美などはアンコール・ワットに残る日本人の落書きを調査し、14点確認された。肥前松浦藩士・森本右近太夫一房の落書きは2点あった(回廊の石柱と経堂の入口)。落書きは慶長17年(1617年)と寛永9年(1632年)に集中しており、慶長分は住所が堺/城州(山城)、寛永分は肥州(肥前・肥後)であった。
・当時アンコール・ワットは「祇園精舎」とされていた。水戸藩彰考館にアンコール・ワットの配置図「祇園精舎図」が残る。その作者は森本字右衛門で、森本右近太夫一房と同一人物と推定される。
○落書きが書かれた理由
・「三十三観音霊場巡礼」の始まりは「西国三十三所巡礼」で、平安末期(12世紀中頃)に「天台寺門派」により成立した。15世紀中頃に「西国三十三所巡礼」は民衆化し、東国からも武士・僧侶・庶民が訪れた。「西国三十三所巡礼」の影響を受けて、坂東/秩父/最上など全国各地に「三十三所観音巡礼」が成立した。
・「西国三十三所巡礼」の「巡礼札」(納札)を整理すると、1470年代から1550年代に限られ、ピークは1500年頃である。すなわち「巡礼札」が落書きに変わったと考えられる。
・16世紀後半に巡礼が民衆化し、「いろはにほへと」などの落書きは、手習した文字を書いたと考えられる。
・16世紀後半から17世紀前半に書かれた「社寺参詣曼荼羅」(葛井寺、清水寺、善峯寺、成相寺など)には、仏堂に落書きをする巡礼者が描かれている。
○人はなぜ落書きするのか
・人が落書きした理由は、社会不安と考えられる。16世紀後半から17世紀前半の落書きは、明治以降と違って「伸びやかさ」がある。それは解放感からと考えられる。
・落書きには「本貫地(住所)+名前」が記されている。これは神仏が個人を特定するために必要だったと考えられる。
・文字は中国で生まれたが、それは呪術が目的であった。人々は神と会話するために、仏堂に落書きしたと考えられる。