『広島城下絵屏風の337人と18匹』前野やよいを受講。
江戸末期に描かれた『広島城下絵屏風』(以下絵屏風)の解説を受けました。
絵屏風には広島城下の337人の武士・町人や18匹の動物が描かれています。
絵屏風のレプリカが置かれていましたが、見ていて飽きない物でした。
講師の前野氏は広島城の学芸員をされています。
キーワード:広島城下絵屏風、西国街道、武士、知新集、商店、芸藩通志
○広島城下絵屏風とは
・六曲一双で左右二隻から成ります。一隻の大きさは高さ170cm×幅368cmです。
・誰が誰に描かせたか分かっていませんが、身分の高い侍か裕福な商人が描かせたと思われます。
・文化年間(1804~18年)の情景を江戸末期に描いたと思われます。
・天守/武家屋敷も一部描かれていますが、主眼は西国街道沿い(猿猴橋から天満橋まで)の「町の様子」です。また「四季絵」に成っています。
・337人が描かれていますが、『江戸図屏風』は4,983人、『洛中洛外図』は1,426人が描かれています。
○にぎわう広島城下町
・広島は大坂より西で最も繁栄していた(儒学者・香川南浜、医者・橘南谿)。
・毛利時代-西国街道は城外を通り、広島は侍町でした(※知らなかった)。
・福島時代-西国街道が城下に通され、町人町が発達した。城の直ぐ北を流れていた城北川は外堀にされた(※これが改易の原因かな)。
・浅野時代-五組の制度(中島組、白神組、中通組、新町組、広瀬組)が整い、西国有数の都市になる。
・広島城の堀は、内堀/中堀/外堀の3重でした。東の外堀は「八丁堀」で京口御門があった。南の外堀には立町御門/真鍋御門/一丁目御門があった。内堀は全て石垣だが、中堀/外堀は櫓間は土塁であった。ちなみに櫓は88基で多かった。
※江戸城の千鳥ヶ淵も土塁だな。
・上級/中級の藩士は城郭内に屋敷を持った。下級武士は城郭外の貸家/長屋/多門に住んだ。武家の人口は約2万人で、町人の人口は約5万人だった。
・寺は寺町に12坊、南側に16坊あった。初代浅野長晟の妻は徳川家康の娘で、絵屏風には東照宮がシッカリ描かれている。
・絵屏風には町門/うだつ/橋・渡し舟/雁木/制札場などが描かれている。
○337人
・広島藩士には上士(千石以上)/中士(百石以上)/下士(歩行、足軽)/従者(又者、中間、小人)の身分があった。上士/中士が侍である。
・武士は帯刀(打刀と脇差)を許されるが、町人に脇差を差せる人がいた。三国屋栄次郎は帯刀を許された(知新集)。
・300石以上の侍の一行は、馬と従者(槍)を伴った(一疋一本)。幕末には体面を維持できず、夜逃げする侍がいた。
・絵屏風には様々な服装(裃/小袖/小袖と袴/小袖と羽織など)の武士が描かれている。御米蔵(今の原爆ドーム辺り)で働く役人が描かれている。
・薬種店/人形屋/小間物屋/醤油・味噌屋など多くの商店が描かれている。
・江戸時代は物資が限られ、リサイクルが盛んで、提灯屋(張替)/瀬戸物屋(焼継)/羽釜屋(鋳掛)/古着屋/古傘屋/辻雪隠(肥料)があった。
・背負子/天秤棒/馬/船による運搬が描かれている。広島城下は荷車が禁止されていたため、描かれていない。
・歩く人/駕籠に乗る人/馬に乗る人/渡し舟に乗る人が描かれている。杖をついて歩く人が、何故か多い。
・野菜を持ち込む人/下肥を船に積んで戻る人/魚介を届ける人/不思議な人(六部/読売/鹿島の事触れ/すたすた坊主)が描かれている。
・水辺には洗濯する女性/釣りをしている人/煙管を吹かす人が描かれている。
・流行の帯を締めた女性/街頭で遊ぶ子供/猿回しを見てはしゃぐ子供/獅子舞を見る子供/僧侶が描かれている。ちなみに広島には僧が458人、虚無僧が2人いた(芸藩通志)。
○18匹
・絵屏風には馬14匹、牛1匹、犬3匹が描かれている。『芸藩通志』では、馬は城下に100匹、新開に84匹、牛は新開に12匹いた(城下で農耕しないので牛はいない)。
・他に猿回しの猿が1匹、魚屋にタコや魚が描かれている。
・広島には豚が多かったが、描かれていない。1685年野良豚103匹を捕まえ、島に放した記録がある。