『神社が語る古代12氏族の正体』関祐二を読書。
神道は、持統天皇による①藤原氏独裁②道教の取り込みで改変された。それ以前のヤマト政権は有力氏族による連合政権であった。
ヤマト政権の様々な氏族の概要を知る事ができる。大著である。
お勧め度:☆☆(大変詳しいが、推理が多い)
キーワード:神道/道教、日本書紀、ヤマト/前方後円墳/纏向遺跡、ヒメヒコ制/卑弥呼、大宝律令、天武天皇/持統天皇、藤原不比等、アイヌ/カムイ/タマ、出雲国造/出雲大社/出雲の国譲り、物部氏/ニギハヤヒ/石上神社/仏教伝来/舒明天皇、蘇我馬子・蝦夷・入鹿/蘇我悪人説、三輪氏/大神神社/オオモノヌシ/オオタタネコ、尾張氏/熱田神宮/継体天皇、ヤマトタケル/草薙剣、神功皇后/応神天皇/魏志倭人伝、倭氏/大和神社/ヤマトノオオクニタマ、中臣氏/枚岡神社/アメノコヤネ/中臣鎌足、藤原氏/春日大社/藤原不比等/律令制度、伊勢神宮/アマテラス、大伴金村・旅人・家持、阿倍氏/オオビコ/蝦夷、秦氏/稲荷神社/秦河勝
○はじめに
・8世紀前半の律令制度の完成で国の形は大きく変わった。政権は藤原氏の独裁になり、「神道」も改変された。
○神道
・中国の「神道」は「道教」を指し、呪術的である。
・『日本書紀』『古事記』に記された日本の「神道」も「道教」の影響が強い。天皇を北極星に神格化するのは中国の影響。※古墳に星座が描かれていた。
・天武13年「八色の姓」で「臣・連」は「真人」に変わった。これも道教の影響。伊勢神宮祭祀と大嘗祭は類似し、共に道教的である。
・ヤマト政権は建国から7世紀初頭まで、前方後円墳を造り続けた。3世紀初頭には都市を造営していた(纏向遺跡)。
・古代神道は「ヒメヒコ制」であった。「ヒメヒコ制」は女性が祭祀を行い、共同して国を治めた(卑弥呼も該当)。600年遣隋使で「ヒメヒコ制」を隋に報告している。
・6世紀末から日本は大変身する。推古10年(602年)百済から歴本/天文・地理/遁甲・方術の書を取得する。蘇我氏主導で法興寺(飛鳥寺)/法隆寺などの大寺院が建立される。天武・持統朝では宗教改革が起こる。701年「大宝律令」で律令制度が完成する。
・40代天武天皇は「親蘇我」、41代持統天皇は「反蘇我」で大きな隔たりがある。持統天皇は藤原不比等を重用した。
・律令制度が完成すると藤原氏が太政官、中臣氏が神祇官を独占する。祭祀を行っていた斎部氏は『古語拾遺』で不満を訴える。
・アイヌは太陽/星/海/山/木/動物など、あらゆるものにカムイ(神)が宿るとした(アニミズム)。また霊・魂をタマと云った。
・縄文文化から弥生文化への移行は平和裏に行われた。※日本は自然が豊かなので。
・古代神道は多神教で、「祟る神」であった。神道の象徴は「伊勢神宮」であるが、これは道教的に改変されている。
<ヤマト建国の立役者>
○出雲国造家-出雲大社
・ヤマト政権は出雲から「葦原中国」を譲り受ける(出雲の国譲り)。その後ヤマト政権はアメノホヒ(出雲国造家の祖)の子孫を「出雲国造」として丁重に扱っている。
・2000年出雲大社(杵築大社)境内から巨大な宇豆柱が出土し、中古における本殿の高さ18丈(48m)の現実性が高まった。※これは見に行った。
・しかし出雲国造は出雲大社より、東の意宇にある「熊野大社」を大切に祀り、実際に「熊野大社」の方が格上であった。
・出雲大社の祭神は元々はスサノオだったが、18世紀半ばにオオクニヌシ(大国主)に変わった。※理由は何だろう。
・1984年「荒神谷遺跡」から大量の青銅器(銅剣358本など)が発見され、巨大勢力の存在が証明された。
・ヤマト建国は東の勢力(纏向/尾張/近江/丹波)が、出雲/吉備/九州北部を平定し成された。
・10代崇神天皇はオオモノヌシ(大物主)に怯え、彼を大神神社に祀った(詳細後述)。
○物部氏-石上神社、磐船神社
・物部氏は軍事リーダーで守旧的なイメージが強いが、ヤマト政権の最大の功労者である。その功績は『日本書紀』で書き換えられた。
・初代神武天皇が東征する以前から、ニギハヤヒ(物部氏の祖)が河内を治めていた。ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶っていた。ニギハヤヒはナガスネヒコを殺害し、神武天皇を迎い入れた。
・用明2年(587年)「物部守屋事件」で物部氏は衰退するが、その盛衰は前方後円墳と共にあった。
・物部氏は河内(大阪府八尾市)を本拠地とした。当地は大和川で大和と繋がり重要地点であった。また吉備は瀬戸内海の中間にあり、潮の関係で重要地点であった。物部氏は吉備と密接に関係した。
・瀬戸内海を支配した物部氏は百済とも交流があり、百済にも多くの前方後円墳がある。
・石上神社は「韴霊」「十握剣」などを納めていたが、祀っていたのは物部氏ではなく「和珥氏」である。
・欽明13年(552年)百済から仏像がもたらされ、物部尾輿/中臣鎌子は反対するが、蘇我稲目が仏像を祀る。その後疫病が流行り、仏像は破棄された。
・34代舒明天皇は百済宮/百済大寺を造り、物部系の天皇と思われる。
・710年平城遷都に際し、石上麻呂は旧城の留守居に命じられ、物部氏は歴史から消える。
○蘇我氏-宗我坐宗我都比古神社
・「乙巳の変」での蘇我入鹿暗殺の大義名分は「上宮王家滅亡事件」とされるが、この事件は『日本書紀』の編者による舞文である。蘇我入鹿暗殺後の人事は蘇我寄りで、首謀者の中大兄皇子/中臣鎌足は重用されていない。
※中大兄皇子は過激急進派だったのか。
・宗我坐宗我都比古神社(奈良県橿原市)は武内宿禰/石川宿禰(蘇我氏の祖)を祀り、近くに蘇我川が流れる。奈良盆地南部には入鹿神社/甲神社など、蘇我入鹿を祀る神社が多い。蘇我氏は水運に紀ノ川を利用し、大和川を牛耳る物部氏に対抗した。
・『日本書紀』の編者により「蘇我悪人説」が徹底され、蘇我馬子の墓は暴かれ石舞台になった。
・蘇我氏のカバネは「臣」で皇別氏族である。出雲のスサノオを祀る祠は素鵞社(そがのやしろ)であり、また蘇我氏は出雲と同じ方墳を多く造った。
<ヤマト建国の秘密を知る氏族>
○三輪氏-大神神社
・10代崇神天皇(実在した最初の天皇)はオオモノヌシ(三輪山)の祟りを恐れた。オオタタネコ(オオモノヌシの息子)は崇神天皇に呼ばれ、大神神社でオオモノヌシ(三輪山)を祀った。このオオタタネコの子孫が三輪氏である。
・著者は崇神天皇はニギハヤヒ、オオタタネコは初代神武天皇(15代応神天皇)と推理している。
・初代神武天皇は熊野からヤマトに入るが、その時尾張系タカクラジが助けた。「出雲の国譲り」もフツヌシ(物部系)とタケミカヅチ(尾張系)が出雲から政権を奪っており、天皇家/物部氏/尾張氏は関係が深い。
※「神武東征」と「出雲の国譲り」は全く同じ構図だな。
・三輪氏は目立たないが、記録には頻繁に登場する。14代仲哀天皇が崩御した時、大三輪大友主は神功皇后を護衛した。用明元年(586年)三輪逆は物部守屋に殺されている。
・持統3年(689年)大三輪安麻呂は判事に任命されている。持統6年(692年)三輪高市麻呂は41代持統天皇の伊勢行幸を諫言するが、聞き入れられず。これが「神道」の転機と考えられる。
○尾張氏-熱田神宮
・尾張氏はヤマト政権に多大に貢献したが、『日本書紀』から抹殺されている。
・纏向遺跡から出土する土器は、近江/東海産が過半数を占める。伊勢遺跡(滋賀県守山市)は弥生時代後期の巨大集落で、伊勢遺跡が衰退すると、纏向遺跡が繫栄している。
・672年「壬申の乱」で40代天武天皇を支援したのは尾張大隅/稲置親子である。尾張稲置は熱田神宮宮司の祖となる。
・26代継体天皇は「越」からヤマトに婿入りするが、婿入りする前の尾張系妻との間に2人の息子がいた。2人の息子は皇位に就くが、何れも短命で終わる(安閑天皇、宣化天皇)。
・12代景行天皇の息子ヤマトタケルは熊襲(クマソタケル)/出雲(イヅモタケル)/東国を平定している。これはヤマト建国の経緯と一致する。ヤマトタケルは伊勢に住む叔母ヤマトヒメから「草薙剣」を受け取り、熱田神宮に納めた。
・神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)は15代応神天皇を生み、九州北部を平定し、ヤマトに戻る。
・著者は『魏志倭人伝』の台与(トヨ)は神功皇后で、邪馬台国の卑弥呼は山門(福岡県久留米市)の女首長と推理している。また神功皇后は九州北部を平定するが、その後九州南部に逃れ、10代崇神天皇に呼ばれたオオタタネコが応神天皇(初代神武天皇)と推理している。
※卑弥呼と台与が登場した。少し嬉しい。
○倭氏-大和神社
・倭氏には15代応神天皇から21代雄略天皇まで仕えた吾子籠がいる。
・大和神社はヤマトノオオクニタマ(大和大国魂神)を祀っている。10代崇神天皇はオオモノヌシ/アマテラスを祀った様に、長尾市(倭直の祖)にヤマトノオオクニタマを祀らせた。※重要ポイント。
・吾子籠は雄略天皇に2人の「ヒメ」を献じており、「ヒメヒコ制の崩壊」(=祭祀権の一元化)を示している。
・11代垂仁天皇の皇后狭穂姫とその兄狭穂彦王が謀反を企て、失敗した記録もある。
・丹波の籠神社(京都府宮津市)に残る「海部氏」の系図に、「彦火明命」(ホアカリ、尾張氏の祖)が記され、その3世孫が「倭宿禰命」と成っている。「倭宿禰命」は初代神武天皇に息津鏡(前漢鏡)/辺津鏡(後漢鏡)を献上したとあり、その鏡が今も残っている。
・また物部氏の歴史書『先代旧事本紀』では、「倭宿禰命」はニギハヤヒ(物部氏の祖)の曾孫と記している。また『播磨国風土記』では、ホアカリはオオクニヌシの子となっている。丹波/尾張/倭/河内(物部)/吉備は一大閨閥であったと考えられる。
<勝ち残った氏族>
○中臣氏-枚岡神社
・中臣氏/藤原氏の神社と云えば春日大社を思い浮かべるが、これは平城遷都後に造られた神社で新しい。中臣氏の本拠地も河内で、枚岡神社(東大阪市)があり、アメノコヤネと姫神を祀っている。
・「天の岩屋」に籠ったアマテラスを引き出したのが、アメノコヤネらである(天の岩屋戸神話)。しかし中臣氏は中臣鎌足まで殆ど記録に登場しない、中臣鎌足の父母が明確でないなど、不思議な事が多い。
・さらに祖神は最初アメノコヤネであったが、タケミカヅチ(尾張系、鹿島神宮祭神)とフツヌシ(物部系、香取神宮祭神)に乗り換えている。これは没落した古代氏族の名声が欲しかったためと思われる。※共に「出雲の国譲り」の主役。
・著者は中臣鎌足を百済王子・豊璋と推理している。660年百済は唐・新羅により滅亡する。663年中大兄皇子(38代天智天皇)は豊璋を百済王位につけて唐・新羅と戦うが敗れる(白村江の戦い)。その後豊璋は中臣鎌足となった。
○藤原氏-春日大社
・「神道」は藤原氏/中臣氏により改変された。律令制度を完成させ、藤原氏が太政官、中臣氏が神祇官を独占した。
・春日大社は春日にあるが、この地は「和珥氏」の土地であった。平城京遷都の時、藤原氏が春日を占拠し、春日大社を建立し、祭神にタケミカヅチ/フツヌシを加えた(前述)。
・奈良時代は「藤原独裁」の助走期間である。藤原氏は百済系渡来人なので、名門氏族を打ち負かし、「神話」を改変した。
・藤原不比等は41代持統天皇に近づき、42代文武天皇を皇位に就かせる。文武天皇と藤原不比等の娘宮子の子が最初の「藤原腹の天皇」(45代聖武天皇)になる。
・藤原不比等は土地/民を持たずとも、「律令制度」の導入で権力を握った。
・持統天皇は「反蘇我」(38代天智天皇)で、「親蘇我」(豊受大神(伊勢神宮外宮の祭神)、神功皇后(トヨ)、40代天武天皇)から権力を奪った。
※天武天皇には多くの子供がいたのに、誰も皇位に就いていない。これも持統/不比等の圧力だろうな。
・持統天皇は自身の正当性のため、男性であった太陽神アマテラスを女神にすり替えた。
○天皇家-伊勢神宮
・伊勢神宮には不可解な事が多い。①アマテラスは何故女神なのか。②10代崇神天皇は、何故宮中に祀られていたアマテラスを遠ざけたのか。
・③41代持統天皇の伊勢神宮参拝を最後に、歴代天皇は誰も参拝していない。歌人西行も『更級日記』の菅原孝標女も伊勢神宮の祭神を知らなかった。「お伊勢参り」は江戸時代に突然始まった。
・④大神神社には「アマテラスとオオモノヌシは一体」の伝承がある。※天皇家の「新嘗祭」と出雲大社の「古伝新嘗祭」は酷似していた様な。
・伊勢神宮の「斎王」「心の御柱/大物忌」などから、祭神は男神だったと思われる。著者は祭神はナガスネヒコかヤマトタケルと推理している。
・40代天武天皇は大田皇女との子である大津皇子を皇位に就けたかったが、持統天皇/藤原不比等により妨げられた。
<切り捨てられた氏族>
○大伴氏-伴林氏神社、降幡神社
・大伴氏の祖はアメノオシヒで、アメノオシヒは「天孫降臨」でニニギを先導している。また初代神武天皇が日向にいた頃から仕え、カバネは「連」である。
・大伴氏は河内南部を本拠地としたが、大伴氏を祀る神社は少ない。この辺りは蘇我氏が支配した土地(蘇賀石河宿禰が居住)で、敏達/用明/推古/孝徳/聖徳太子の古墳がある。
・ヤマト建国時の神社(大神神社、石上神社など)は、御神体山/御神木/磐座などが御神体で、本殿がなかった。本殿を建てる様になったのは、仏教の影響である。
・11代垂仁天皇朝では、阿倍/和珥/中臣/物部/大伴が5大氏族であった。大伴金村は26代継体天皇の擁立に尽力する。
・大伴旅人/家持親子は長屋王を天皇に推すが、藤原4兄弟の抵抗で成らず。
○阿倍氏-敢国神社
・阿倍氏の本拠地は伊賀である。伊賀は木津川を利用すれば平城京/平安京に、東に行けば東海に出られる交通の要衝である。
・敢国神社は8代孝元天皇の子オオビコ(阿倍氏、膳氏、筑紫国造家、越国造家などの祖)を祀っている。※まさに大彦だな。
・伊賀にはオオビコ陵と比定される御墓山古墳(前方後円墳、全長180m)がある。
・26代継体天皇が皇位に就くと、阿倍氏/蘇我氏が頭角を表す。両士族は東国と関係が深く、蘇我蝦夷の名前もそれに由来すると思われる。東北に阿倍氏が多いのは、そのブランドによる。720年頃から蝦夷で反乱が続発するのは、藤原独裁への抵抗と思われる。
○秦氏-伏見稲荷大社
・秦氏は新羅系渡来人である。稲荷神社は3万社あり、同じく秦氏が関係する八幡神社(宇佐神宮)を合わせると、神社の過半数になる。
・秦氏は身分は低いが、全国にネットワークがあり、稲荷神/八幡神は全国に広まり、権力者から頼りにされた。
・秦造酒(※変わった名前)が21代雄略天皇に麻布/絹を大量に献上し、「太秦」の姓を下賜される。秦氏は土木/養蚕などの先進技術を日本に持ち込んだ。「始皇帝の末裔」を名乗る集団もあった。
※養蚕は秘伝とされ、中国国外には出なかったはずだが。
・秦氏には29代欽明天皇から33代推古天皇に仕え、広隆寺(京都市)を建立した秦河勝がいる。