『フランス・レジスタンス史』J=F・ミュラシオルを読書。
第2次世界大戦時のドイツ占領下でのレジスタンスを解説。
4地域(南北仏国、北アフリカ、英国)で行われたレジスタンスを、軍事面/政治面から解説(主に政治面)。
集団/人物が多出し、精読しないと十分理解できない。
お勧め度:☆(詳し過ぎる)☆☆☆(フランス・レジスタンスの全容を理解できる)
キーワード:ヴィシー政府/ペタン、レジスタンス(抵抗運動)、自由フランス/ド・ゴール、共産党/国民戦線、コンバ(闘争)/秘密部隊/フルネ/ド・マントン、南部解放/ダスティエ、義勇兵、抵抗者、解放者、軍民統一戦線、北部解放、国民戦線、5人組、ダルラン、ジロー、フランス解放評議会/臨時政府、統一レジスタンス運動/ムーラン、調整委員会、全国抵抗評議会、共産党、社会主義者闘争委員会/社会党/マイエール、キリスト教民主系/フランス人民共和派/ビドー、労働組合、地下出版物、地下組織/中央情報行動局/ノートルダム信徒会/レミー、フランス国内軍、マキ、専門委員会(総合研究委員会)、第2フランス革命、国有化/政教分離/国家再編、解放、労働党
<初期>
○抵抗の組織化
・1940年6月ドイツへの敗戦で、「休戦派」ペタン元帥が国民の圧倒的支持でヴィシー政府を立てる。ジャン・ムーラン/アンリ・フルネなどの抵抗は散発的であった。
・1940年後半南仏国でキリスト教民主系が『新時代』『自由』を発行する。アンリ・フルネは「秘密部隊」を結成する。占領地域(北仏国)でも「義勇軍」「国民革命行動隊」「解放者」「軍民統一戦線」などが結成される。社会党市長ジャン・ルバは『自由人』を発行する。
・軍人/キリスト教民主系/右翼/社会党員などがそれぞれ組織し、地下出版物を発行したが「抵抗運動(レジスタンス)」と呼ばれるものではなく、単に「抵抗活動」であった。
○自由フランス
・ド・ゴール将軍は英国に亡命し、共和国の継続を主張し「自由フランス」を結成するが、同調したのは僅かな軍人/人士であった。しかし1941年1月には経済(ルネ・プルヴァン)/外務/海軍/陸軍/空軍/法務・教育/内務・情報の委員会ができる。
・各国は「自由フランス」に冷たかったが、情報委員会ジャック・スーステルにより「代表団」(大使館に相当)を設置する。情報関連では「パシ機関」が情報活動を行った。
・「自由フランス」は反動的/親英で批判され、1942年7月ド・ゴールは国内レジスタンスに沿うため「自由フランス」を「戦うフランス」に改称する。
○共産党
・1939年8月「独ソ不可侵条約」締結でフランス共産党員は激減する。9月ポーランド分割により、共産党は解散され、「労働総同盟」も反共産党に転じる。
・1940年6月ドイツへの敗戦で、共産党の再建が進む。中央委員会は「階級闘争」を掲げるが、ドイツとの関係は曖昧であった。しかし1941年6月ドイツのソ連侵攻で反ファシズム/反ドイツが鮮明になり、「国民戦線」を結成する。※今の「国民戦線」とは無関係。
<1942年末まで>
○南部地域
・ヴィシー政府が治めた南部地域には「コンバ(闘争)」「南部解放」「義勇兵」の運動体が存在した。
・アンリ・フルネは「国民解放運動」を結成する。この組織は「秘密部隊」/情報部/宣伝部からなった。宣伝部は『真実』を発行した。一方フランソワ・ド・マントンは『自由』を発行する。
・1941年11月アンリ・フルネとド・マントンは組織を合併し、『コンバ』(闘争)を発行する。後にジョルジュ・ビドーなども加わる。組織は実働部(情報、秘密部隊、遊撃班)と宣伝組織部からなった。宣伝組織部は『コンバ』を発行し、42年末には8万部に及んだ。
・その後「コンバ」に社会・経済部/行政機関工作部(クロード・ブールデ)/ゲリラ組織/証明書偽造部/外部交渉部/労働対策部(マクセル・デグリアム)/鉄道破壊活動部が追加される。また地区の指導者にはモーリス・シュヴァンス(マルセイユ)などが就いた。
・エマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリは、「労働総同盟」(ロベール・ラコスト)/キリスト教労働者同盟/社会主義者活動委員会と共に「南部解放」を結成し、『解放』を発行する。「南部解放」は順軍隊組織/政治活動部門からなり、『解放』の発行に重点を置いた。1942年には3万5千部を発行。
・他に『義勇兵』を発行する「義勇兵」など多くの組織が結成され、発行を中心とする抵抗活動を行った。
○北部地域
・各地で運動体(パリ-「フランス防衛隊」、ナンシー-「ロレーヌ」など)が結成されるが、最終的に「抵抗者」「解放者」「軍民統一戦線」「北部解放」「国民戦線」が中心となる。
・「抵抗者」はジャック・ルコント=ボワネ/ジャン・ド・ヴォギュエなどか結成する。この組織は遊撃班と情報グループからなった。「抵抗者」「解放者」は北部地域での抵抗運動の代表となる。
・「軍民統一戦線」は保守系で、実業家/高級官僚/自由業などへの影響が大きく、「自由フランス」にも影響を与えた。この組織は軍事部門だけでなく政治・経済問題を検討する部門もあった。
・「北部解放」は社会党系で、アルベール・ガジエ/ロベール・ラコスト/アンリ・リビエールなどの社会主義者が組織を統制した。
・「国民戦線」は共産党のピエール・ヴィヨンなどが主体だが、別の運動体の指導者イブ・ファルジュやキリスト教民主系ジョルジュ・ビドーなども参加した。この組織は熱烈で、共産党大躍進の下地となった。
○初期レジスタンス
・副主席ピエール・ラヴァル/副首相フランソワ・ダルランなどを批判する者はいたが、ペタンを批判する者はいなかった。しかし民族的な「義勇兵」はヴィシー政府を批判し、また共産党も資本主義的反動とヴィシー政府を批判した。しかし民族派と共産党は、対ドイツでは正反対であった。
・1941年6月ドイツのソ連侵攻で『真実』『自由』を発行する運動体は反共産党の修正を迫られる。またヴィシー政府の頑迷な対独協力と抑圧政策から、全ての運動体はヴィシー政府が傀儡政権である事を理解した。「南部解放」/共産党/「コンバ」は武力闘争を明確にする。ここにおいて国粋主義者/キリスト教徒/社会主義者/共産党主義者はレジスタンスで統一される。
<北アフリカ>
○連合国上陸まで
・1940年10月北アフリカの代表にヴェイガン将軍が就く。彼は対内的には親ヴィシー政府だったが、対外的には米国と経済協力するなどヴィシー政府一辺倒でもなかった。
・1941年中頃ルネ・カピタンは「コンバ」の北アフリカ支部を設立し、宣伝活動を始める。
・1941年中頃反ドイツのみで一致した愛国者/極右(アンリ・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリ:エマニュエルの兄)/実業家/王党派/外交官/ヴィシー政府派が「5人組」を結成する。この組織は反英/反ド・ゴールで米国と接触した。
・1942年11月米軍は北アフリカに上陸し占領する。偶然北アフリカにいた副首相フランソワ・ダルランが北アフリカの代表となる。
○ジロー派
・1942年12月ダルランが暗殺され、アンリ・ジロー将軍が代表となる。北アフリカはジャン・モネなどにより民主化され、43年3月ヴィシー政府と決別する。
・①臨時政府の創設②軍事力の一体化③ヴィシー政府の破棄④共和制の再建を掲げるド・ゴールは、ジロー派を批判した。
○首都アルジェ
・1943年6月妥協の産物「フランス解放評議会」(以下解放評議会)が結成される。この評議会の議長にド・ゴールとジローが就いた。
・1943年11月ジローが議長を退き、ド・ゴール派が勝利する。評議会委員には自由フランス(アンリ・フルネ、ルネ・カピタン、エマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリ)/急進社会党(ピエール・マンデス=フランス)/社会党(アンドレ・フィリップ)/キリスト教民主系(フランソワ・ド・マントン)/共産党(フェルナン・グルニエ)などが就いた。
・1944年6月「解放評議会」は「フランス共和国臨時政府」(以下臨時政府)に改組される。
※やっと一本化したか。ここからド・ゴール主導で進むのかな。
・各政党は臨時政府の首都アルジェに代表を派遣した。1943年11月社会党フェリックス・グアンが議長の「諮問会議」が開かれる。この会議は第3共和制の国民議会の規則を引継いでいた。
<レジスタンスの統一>
○第一歩
・1942年1月ジャン・ムーランは南部地域に「自由フランス代表部」を設置するため、パラシュート降下する。彼は運動体「コンバ」「南部解放」「義勇兵」の統一を進める。
・1943年1月ジャン・ムーランを議長とする「統一レジスタンス運動」が結成される。アンリ・フルネが軍事部門(秘密部隊、遊撃班、マキ)、エマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィジュリが政治部門を担当する。この組織は全国制/地方制、政治部門/軍事部門の二重構造であった。
・武装勢力は「秘密部隊」(シャルル・ドレストラン将軍)に統一された。運動体間の対立はあったが、ド・ゴールの旗の下で統一が進む。
・北部地域ではピエール・ブロソレットが統一のための「調整委員会」を設立する。この委員会も南部地域と同様に軍事委員会/政治委員会で構成された。
○全国抵抗評議会
・1943年5月パリで「全国抵抗評議会」が開かれる。議長はムーラン(逮捕後ジョルジュ・ビドー)で、評議員は南部運動体(コンバ、南部解放、義勇兵)/北部運動体(抵抗者、解放者、国民戦線、北部解放、軍民統一戦線)/党派(社会主義者、共産党、民主同盟、共和連合、キリスト教民主系、急進党)/労働組合(総同盟、キリスト教労働者組合)であった。
・ド・ゴールは「全国抵抗評議会」を「解放評議会」の下部組織と考えていたが、「統一レジスタンス運動」や共産党は、「全国抵抗評議会」を後の政府と考えていた。
○統一レジスタンスの機構
・「解放評議会・自由フランス代表部」は徐々に政府機関となり、財政委員会/中央軍事委員/南部代表/北部代表などを設置する。
・「全国抵抗評議会」もこれに合わせ、社会事業委員会/医療委員会/強制移送反対闘争委員会/軍事活動委員会(ピエール・ヴィヨン、ジャン・ド・ヴォギュエ)などを設置する。軍事活動を統括する「軍事活動委員会」は、共産党の指揮下となる。
・やがて「解放評議会」と「全国抵抗評議会」が軍事問題や解放後の県知事/各省次官の指名で対立する。
・ド・ゴールは連合軍がイタリアで軍制を敷いた事を懸念し、「全国抵抗評議会」の下に「県別解放委員会」を設置させる。一方共産党は各都市に設置される「解放地方委員会」を、そのまま市議会に移行させる予定であった。
※ド・ゴール/共産党/運動体の3極対立になったみたい。
<政党と労働組合>
○政党の消滅と再建
・1940年6月ペタンへの全権委任で政党は消滅し、多くの活動家も政党を忌避した(共産党/社会党/キリスト教民主系は生き延びた)。ところが43年5月「全国抵抗評議会」への「党派」参加で、政党の再建が求められる状況なった。
○諸政党
・1941年6月ドイツのソ連侵攻で、共産党は反独闘争に突入するが、大量検挙で壊滅状態になる。しかし42年4月ヴィシー政府のピエール・ラヴァル復帰で「国民戦線」が復活する。43年2月「対独協力強制徴用」でレジスタンスはさらに増員される。
・1943年中頃からは「統一レジスタンス運動」「全国抵抗評議会・軍事活動委員会」「フランス国内軍」「南部解放」などの運動体の幹部に共産党員が就く。
・1941年3月ダニエル・マイエールなどは「社会主義者闘争委員会」(後の社会党)を設立する。ダニエル・マイエールが南部地域を、アンリ・リビエールが北部を担当した。社会党の抵抗派は「北部解放」(クリスティアン・ピノー)「ノートルダム信徒会」(ピエール・ブロソレット)などの運動体に参加した。
・社会党はド・ゴールと連携し、「臨時政府」の労働委員/内務委員(アンドレ・フィリップ)、軍事委員(アンドレ・ル・トロケ)、諮問会議議長(フェリックス・グアン)などの要職に就いた。
・共産党は社会党と合併し、労働党を結成する事を望んだが、ダニエル・マイエールは拒んだ。
・1943年2月「対独協力強制徴用」により、キリスト教民主系においても反ドイツが高まる。44年9月「全国抵抗評議会」議長ジョルジュ・ビドーは多くのキリスト教民主系運動体を説得し、「フランス人民共和派」を結成する。
○労働組合 ※この章複雑・難解。
・1939年9月共産党が解散された時、「労働総同盟」も解体する。40年6月敗戦により「労働総同盟」は①同業組合主義者②改革主義者③共産主義者に3分裂する。
・1941年10月ヴィシー政府は「労働憲章」を発布する。レオン・ジュオー/アルベール・ガジエ/クリスティアン・ピノー/ロベール・ラコスト/ガストン・テシエらは、これに反対し「経営・組合研究委員会」を結成する。彼らは「南部解放」などの運動体と同盟を結んだ。
・「労働憲章」/抑圧政策/「対独協力強制徴用」により改革主義者のレジスタンス参加が促進され、1942年5月ジャン・ムーラン/イヴォン・モランダは「フランス労働者運動」を結成する。
・ブノワ・フラションは共産党系「人民委員会」でストライキ/怠業/破壊活動で成功を収める。
・1943年4月改革主義者と共産党は「労働総同盟」の再統一で合意する。しかしキリスト教組合活動家は距離を置いた。
<闘争の形態>
○地下出版物
・1940年6月敗戦以降、ビラや定期刊行物など、様々な地下出版物が発行される。主なものは以下。
運動体-『コンバ』『義勇兵』『解放』『OCM手帖』『抵抗』『フランス防衛隊』
政党-『ユマニテ』(共産党)『民衆』(社会党)
知識階級・芸術家-『自由思想』『フランス文芸』『ユーパリノス41』『フランス映画』『フランス演劇』『深夜叢書』『海の沈黙』『グレヴァン博物館』『黒い手帖』
教員-『自由大学』『非宗教大学』『解放学校』『非宗教活動』
・情報収集では自由フランス『情報通信』情報報道局『戦うフランス広報』『一般広報』統一レジスタンス運動『MUR内部広報』が発行された。
・『ユマニテ』は500万部、『フランス防衛隊』は40万部発行され、印刷・配布は困難を極めた。
○地下組織
・1940年夏、英国は「特別作戦本部」を設立し、「アリアンス」「カルト」「オートジロ」「サヴァンナ」などの地下組織を作る。米国は遅れて、43年「戦略事務局」を設置する。その後英米の地下組織は統合され、「解放評議会・フランス国内軍」の指揮下に置かれる。
・自由フランスの「解放評議会・中央情報行動局」は「ノートルダム信徒会」(レミー)「コオール」(ジャン・カヴァイエス)「ファランクス」(クリスティアン・ピノー)などの地下組織を作る。
・運動体も社会主義者「ブルータス」国民戦線「ファナ」抵抗者「テュルマ」などの地下組織を作る。
・これらの地下組織はスイス/スペインの国境越えを手助けしたり、ドイツ軍の内部情報(潜水艦基地の情報/「大西洋の壁」の情報など)を連合国に伝えた。多量の情報通信のため、無線通信士(通称「ピアニスト」)が配備された。
○「秘密部隊」から「フランス国内軍」へ
・1942年12月ヴィシー政府の「休戦監視軍」が解散されると、多くの将兵がレジスタンスに流れた。44年初めに彼らは「軍抵抗組織」を結成した。
・1944年2月「秘密部隊」「義勇遊撃隊」「軍抵抗組織」は「フランス国内軍」(ピエール・ケーニグ将軍)に編入される。これに応じ「全国抵抗評議会」は「フランス国内軍」を指揮する「軍事活動委員会・参謀本部」(アルフレッド・マルレ)を設置するが、8月ド・ゴールは「全国抵抗評議会」から 「フランス国内軍」の指揮権を奪うため、「軍事活動委員会・参謀本部」を解散させる。
※1944年6月ノルマンディー上陸作戦が始まる。
・「レジスタンス」には暴力的な活動だけでなく、政治的/文化的/精神的など全ての活動が含まれる。よって対独協力拒否/地下組織への直接・間接的支援/国境越えの手助けなども「レジスタンス」に含まれる。他にドイツに協力する企業の破壊/ドイツ将兵への襲撃などが行われた。
○マキ
・1943年2月「対独協力強制徴用」で「マキ(森林)」に入る青年が急増する。43年4月「統一レジスタンス運動」に「マキ担当課」が設置される。「全国抵抗評議会」は50万枚の偽造身分証明書を印刷する。44年「マキ」は「フランス国内軍」の指揮下に置かれる。
・「マキ」には2種類あり、「秘密部隊」「軍抵抗組織」に属した「マキ」は軍隊式で、「義勇遊撃隊」に属した「マキ」は少人数編成であった。「マキ」では資金/武器の調達が課題であった。
・上陸作戦に際し、総司令官アイゼンハワーは全ての「マキ」に蜂起の指令を出すが、その結果は散々であった。
<レジスタンスに参加した人々>
○多彩な参加者
・レジスタンスの参加者は普通の市民であった。アンリ・フルネ/モーリス・シュヴァンスは軍人、ジョルジュ・ビドーはジャーナリスト、フランソワ・ド・マントン/ジャン・カヴァイエスは教授、モーリス・リポシュは技師など様々であった。女性やユダヤ人の参加もあった。また公務員の協力者や地下組織の支援者なども多くいた。
・政治的には共産党/社会党/キリスト教民主系/王党/右翼/極右など様々であった。参加者は偶発的な出会いでレジスタンスに参加する事が多く、参加者の政治色を問うのは意味がない。
○地下活動
・地下活動には偽造した様々な証明書(職業証明書、身分証明書、食糧切符、国鉄割引証など)が必要であった。また匿う人/医師/弁護士/公務員(警察、鉄道員、郵便局員)などの協力も必要であった。また資金が重要な問題であった。
○摘発、脱落、死
・ドイツは親衛隊(SS)が中心となり、地下組織を弾圧した。ヴィシー政府も弾圧を強化した。
・安全を確保する方法としては活動家同士が接触しない事が重要であった。しかしこれは連合軍の上陸に際しては、逆効果になった。また「裏切り」にも注意が必要であった。
<未来に向かって>
○将来への展望
・1943年6月「解放評議会」が結成されると多くの委員会が設置され、全体委員会をアンドレ・フィリップが受け継ぐ。「自由フランス」も様々な検討委員会を設置する。
・南部地域の運動体は、政治闘争を主題とする『それから』(コンバ)『解放手帖』(南部解放)『自由雑誌』(義勇兵)を発行する。リヨンでもジャーナリスト/政治家/活動家などが地下出版物を発行した。北部地域の運動体は『未来』『OCM手帖』(軍民統一戦線)『フランス防衛隊手帖』(フランス防衛隊)を発行した。
・1942年7月「解放評議会・自由フランス代表部」下に「専門委員会」(後の総合研究委員会)が設置される。この委員会は運動体とロンドンの連携を取ると共に、解放/追放/国家改造/国有化/知事任命などの諸問題を検討した。しかしこの委員会はロンドン寄りで、その後運動体/共産党/社会党の批判対象になる。
○第2フランス革命
・「敗戦の責任はエリート層とブルジョアにある。活動家がエリート層に代わるべき」との考えが、活動家に生じた。「全国抵抗評議会」の「計画書」は反資本主義/社会民主主義で、基本的自由/国有化・計画化/社会保障制度/労働条件改善/教育制度/植民地の権利拡大などが記された。
○政治的対立 ※この章難解。
・「全国抵抗評議会」は「計画書」を取り纏めたが、活動家の意見はバラバラであった。これには3つの大きなテーマがあった。①国有化②政教分離③国家再編。
・①国有化-試案では公共事業/保険/炭鉱/基幹産業/金融機関が国有化の対象になっている。最終的には生産手段/エネルギー源/地下資源/保険会社/大銀行を国民に戻す妥協になった。一方「総合研究委員会」の原案では、国有化にほとんど触れていない。
・②政教分離-すべての活動家が教育改革に賛成であったが、その方法論には相違があった。アルジェのルネ・カピタン文相は「私立学校は認可するが、補助しない」としたが、宗教団体と非宗教団体/教員組合/共産党は反対した。
・③国家再編-何れの活動家も旧政党を批判した。執行権の強化から大統領制が望まれたが、その内容は様々だった。選挙制度も婦人参政権の賛否/家族単位での投票など様々であった。
<解放時のレジスタンス>
○特殊任務統合本部の計画
・1943年11月「解放評議会」の「中央情報行動局」は「特殊任務統合本部」に改組される。この本部は上陸に際しレジスタンスが実行する「緑計画」(鉄道網の麻痺)「紫計画」(通信の遮断)などを計画する。これらの計画は想定以上の成功を収める。
○フランス解放
・連合軍の上陸前にノルマンディー/ブルターニュ/サントル/リムーザン/アキテーヌ/オーベルニュなどでレジスタンス(フランス国内軍)が蜂起するが、その成果はマチマチだった。その後の連合軍の上陸でフランスは解放される(1944年6月ノルマンディー、8月プロヴァンス)。
○パリ解放
・1944年8月パリのレジスタンスが蜂起し、連合軍も入城し、ドイツ軍は降伏する。ド・ゴールは「全国抵抗評議会」が要請する「第4共和政の宣言」を拒否する。
<レジスタンス、政権を逸す> ※この章も難解。
・キリスト教民主系のジョルジュ・ビドーは労働党の結成を諦め、共産党を除く左翼で「人民共和派」を結集する。社会主義者も労働党の結成を諦め、マルクス主義/反教会/親共産党の保守路線に進む。
・共産党は①ド・ゴールによる中央・地方権力の把握②全国蜂起の失敗③スターリンの世界戦略転換(ヨーロッパ分割)により勢力を失う。
・1945年6月キリスト教徒ユージェーヌ・プティ/ド・ゴール派ルネ・カピタン/穏健派フランソワ・ミッテラン/運動体の指導者アンリ・フルネなどが「レジスタンス社会民主連合」を結成する。
・1945年政界は従来の政党によって支配され、労働組合でも「労働総同盟」が再編成された。レジスタンスを通しても社会主義者とキリスト教民主主義者の融和はならなかった。
・アンリ・フルネは「ド・ゴールはレジスタンスを理解していなかった」「ジャン・ムーランは共産党の秘密党員だった」と批判している。
※政治面での理解には社会主義/キリスト教民主主義の知識が要りそう。