『終戦後史 1945-1955』井上寿一を読書。
戦後10年間の混乱期を政治・外交/経済/社会の各方面から解説。この10年間で戦後体制が決まったと云えます。
個人の伝記などは読んだ事はあったけど、多方面から解説する本は少ないと思う。
各所に引用があり、その文章は難しい。また多少、時が前後する。
お勧め度:☆☆
キーワード:幣原内閣、憲法改正/天皇退位、統制経済/計画経済、戦後問題研究会、格差、アジア地域主義、食糧危機、経済安定本部、傾斜生産方式、米国便乗、映画/ジャズ、人間宣言/全国巡幸、日本国憲法、日本社会党/片山哲、民主党/芦田均、吉田内閣/自由経済、ドッジ・ライン、食糧問題、地位逆転、メイド、平和国家/通商国家、朝鮮戦争/特需、安全保障、サンフランシスコ講和条約/日米安保条約/日米行政協定、GATT、日本民主党/鳩山一郎/日ソ国交回復、55年体制/自由民主党、国連加盟、外交三原則、高度経済成長/労使の相互信頼、新生活運動
○はじめに
・本書は政治/外交/経済/社会/文化の視点から観察する。
・戦後体制として国連/米国/アジアを均衡に自主外交する可能性もあった。
<敗戦の風景>
○政治-崩壊と再生
・45年9月27日天皇とマッカーサーが会見する。マッカーサーは作業服の様な服装であった。10月4日東久邇宮内閣はGHQの指令に対応できず総辞職する。10月9日間に合わせ的な幣原内閣が成立する。10月23日次期首相有力候補の近衛文麿が憲法改正/天皇退位に言及する。その後も「退位論」は収まらなかった。
・45年10月鳩山一郎は旧政友会系の日本自由党を結成し、総裁に就く。46年4月10日戦後最初の総選挙で日本自由党が第一党となる。4月23日幣原首相は内閣を存続させるため、旧民政党系の日本進歩党総裁に就く。5月3日鳩山は公職追放となる。
※公職追放により第1次吉田内閣が成立したのは有名な話だ。
○外交-外交官の憂鬱
・日本は終戦前年よりソ連と和平交渉するが進展しなかった。
・戦時中の物資動員計画は「国家社会主義」であり、戦後も同様な「社会民主主義」であった。戦時中の統制経済は、戦後の計画経済として復活した。ソ連「5ヵ年計画」米国「ニューディール政策」英国「戦後復興計画」何れも計画経済である。
・終戦直後から毎週、外務省「戦後問題研究会」が開かれる。当研究会には当時の経済ブレーンが揃っていた(大来佐武郎、都留重人などが委員)。中間報告書『日本経済再建の基本問題』は「社会民主主義」を否定しなかった。計画経済により格差(財閥大企業/中小企業、大都市/農村、富裕者/一般国民)を解消できるとした。また税負担の公平化/社会保障制度の確立などの国家構想を記した。
・第1次世界大戦後の米国の台頭で「自由主義市場経済」が世界化する。その行き過ぎが「世界恐慌」を起こし、「国際協調体制」は「ブロック経済体制」(アジア地域主義)に移行する。「戦後問題研究会」の中間報告書は対米依存経済とアジア地域主義を構想した。
・戦後外交権を失ったため外交官は全国各地に散らばり、占領軍との折衝と雑用に当たった。
○経済-自由と統制
・戦後の食糧危機は深刻で、エンゲル係数は戦前35%に達していたが、戦後はさらに65%に上昇した。統制経済に対しては撤廃/強化の両方の意見があった。食糧危機は「ララ物資」により緩和された。
・46年8月統制経済の総本山として「経済安定本部」が発足する。「経済安定本部」と「戦後問題研究会」は混合経済で一致していた。
・「国家総動員法」に相当する「臨時物資需給調整法」が成立し、マッチ/石鹸/足袋/障子紙/バケツ/弁当箱など、あらゆる物資が統制される。
・47年4月25日総選挙で日本社会党が第一党となり、5月24日片山内閣が成立する。「経済安定本部」は統制経済を強化する。「経済安定本部」は「傾斜生産方式」を推進する。GHQもこれに賛同した。
※終戦直後は社会主義を否定されていなかった。
・片山内閣も次の芦田内閣も短命に終わり、48年10月15日第2次吉田内閣が成立する。吉田首相は統制経済を自由経済に転ずる。日本はその後、通商国家として国家再建の道を歩む。GHQもこれに賛同した。
○社会-社会秩序の崩壊
・吉村昭/山田誠也(山田風太郎)/秋本安雄(春風亭柳昇)/古川ロッパ/高見順は米国便乗となった社会を実感する。
○文化-異文化体験
・45年8月28日マッカーサー元帥は厚木基地に飛来する。山田誠也/古川ロッパは敗戦を実感し、彼らに警戒する。一方子供たちは米兵に食料をせがんだ。
・日本の映画はGHQにより民主化促進から「封建的・軍事的」なものは排除され、「平和・明るい・楽しい」映画になった。この時期「接吻映画」が多く作られた。
・笠置シヅ子/灰田勝彦が歌うジャズ音楽は復活する。
<占領下の戦後構想>
○政治-象徴天皇の成立
・46年元旦「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)は発布される。これに続き2月より「全国巡幸」が始まる。巡幸先には復員兵や引揚者の施設が含まれていた。
・天皇制廃止を求める極東委員会とGHQの対立から、憲法改正が急がれる。47年5月3日日米合作の「日本国憲法」が施行される。
※憲法改正が急がれたのは天皇制存続のためだったのか。
・45年11月日本社会党(以下社会党)が結成され、片山哲が書記長に就く。社会党は翌年の戦後最初の総選挙に向けて①社会主義/統制経済②国家法人説(天皇機関説)を掲げる。選挙では93議席を獲得し、第三党になる。
・47年4月25日総選挙で社会党は143議席を獲得し、第一党になる。5月24日社会党は民主党/国民協同党と連立し、片山内閣が成立する。
・芦田均は外交官から政友会議員になる。戦後47年3月31日芦田は民主党を結成し、総裁に就く。48年3月片山内閣総辞職後、民主党/社会党/国民協同党が連立する芦田内閣が成立する。
・48年になると地方への負担から「全国巡幸」が批判され、憲法改正で宮内府となり、さらに総理府宮内庁になり独立性を失う。
○外交-外務省の対外構想
・外交権を失った外務省は、北米の政治・経済を調査・分析する調査局第二課を設置する。当課の調査結果は重要なデータになった。当課は米国の対アジア外交は対欧州外交(マーシャル・プラン)に比べ消極的であるとした。
・外務省も「経済安定本部」もアジア地域主義を共有していた。アジアにおける経済面での相互依存は不可避で、日本が「アジア復興」に役立つ構想をした。
・外務省には①永世中立国と②国連加盟の2つの路線があったが、大勢の②国連加盟路線で進む。
○経済-自由経済の展開
・第2次吉田内閣は民主自由党(日本自由党に民主党の一部が合流)の後押しで、統制経済から自由経済に転換する。
・49年1月23日総選挙を前に吉田首相は自由経済への転換による①官公吏の人員整理②企業の合理化③輸出産業の復興などについて言及する。一方社会党は独占資本優遇として吉田内閣を批判し、平等を訴える。選挙結果は民主自由党が264議席を獲得し圧勝する。
・49年2月GHQの経済顧問としてジョセフ・ドッジが来日する。ドッジの経済政策(ドッジ・ライン)は厳格な財政緊縮政策(予算均衡、復興融資の停止など)だった。吉田首相は選挙公約よりも「ドッジ・ライン」を優先する。しかしこの結果、財政収支は均衡し、日銀券発行額は減少し、物価は低下した(インフレ収束)。これにより価格統制/配給統制は不要となり、経済復興が急速に進む。
・49年10月中華人民共和国が成立する。これは巨大な中国市場の喪失を意味した(戦前は中国が輸出入の6割を占めていた)。また自由経済により格差拡大(失業者の増大、生活費の増大など)も懸念された。
○社会-社会階層の逆転
・46年都市の焼け跡で人々は空腹を抱え、掘立小屋で暮らした。配給米だけでは不足で、空襲による死者は無くなったが、餓死者が出た。5月19日食糧メーデーが起こる。5月23日には食糧問題に関する終戦以来の玉音放送が行われる。
・軍人の威信は地に落ちた。その代表が東条英機だった。財閥は解体され、相対的に労働者の地位が上がった。農村における地主と農民の関係も同様に変わった。女性の地位も戦前戦後を通して向上する。また5月5日は「こどもの日」になる。
・地理的にも逆転が生じる。都市の人々は食糧を求め、宝石・時計・貴金属を持って農村に向かった。復員兵/引揚者に対する視線も冷たかった。
○文化-押し寄せるアメリカの大衆消費文化
・49年バヤリースのオレンジジュース/コカ・コーラ/ペプシコーラが販売される。米プロ野球チームも来日する。
・日本にも「メイド」が導入される。「メイド」は尊重され、レディ・ファーストに驚く。
・米国を批判する知識人はいたが、大衆は「アメリカ的生活様式」を模倣し始める。
<新しい国家像の模索>
○政治-さまざまな国家像
・戦後の日本はアジアに無関心で、平和な農業国を目指す雰囲気があった。
・49年10月中華人民共和国が成立する。吉田首相は中国貿易の重要性を認識し、通商国家路線を思考していた。
・50年6月「朝鮮戦争」が勃発する。デフレが深刻であった日本は「特需」により物価は上昇し、輸出も増大する。日本は通商国家の道を歩み始める。
※朝鮮戦争が日本、特に日本経済に与えた影響は大きいな。
○外交-平和国家の現実主義化
・「朝鮮戦争」が続く中で、日本の安全保障が問題となる。外務省は米国と協定を結び米軍を駐留させる事で国連/平和憲法/非武装国家のバランスを保持した。
・世論は非武装中立ではなく、自由主義陣営での日米安保を支持した。
・51年9月8日吉田首相は社会主義国を除く48ヵ国と「サンフランシスコ講和条約」(発効は52年4月28日)及び「日米安保条約/日米行政協定(後の日米地位協定)」を結ぶ。しかし保守勢力内にも「日米安保条約/日米行政協定」を不平等条約と批判する声があった。
○経済-通商国家の試練
・50年鉱工業生産は戦前レベルまで回復する。吉田首相は自立経済のため「資本の蓄積」が重要とし、冷戦を好機と捕え、通商国家路線を推進する。
・52年7月日本は通商国家路線から「関税と貿易に関する一般協定(GATT)」の加入申請をするが、日本を警戒する欧州各国の反対で難航する。経済官僚の宮崎勇はGATT加入を進めるが、支援していたはずの米国や農林省/通産省からも抵抗される。53年仮加入に踏み切るが、日本に不利な関税で、その後の関税交渉でも改善されなかった。
・自由党議員の長島銀蔵は頻繁に中国を訪れる。中国とは貿易問題/戦犯問題/漁業問題/港湾開放問題/学術・文化交流問題が存在したが、国交回復して中国市場が開放される事を望んだ。
○社会-アジアの模範国の喪失
・53年7月「朝鮮戦争」は休戦する。中国は社会党議員を招いたり、引揚者によって「平和攻勢」に出る。中国はファシズム国家であったが、平等な社会であった。
・台湾からの引揚者も多くいた(軍人16万人、一般32万人)。引揚者は台湾を賞賛し、帰還した日本に悲観した。また台湾に落ち延びた蒋介石を批判した(※現に蒋介石は台湾で悲惨な事をしている)。冷戦下の講和後でも、台湾からの引揚者の請求権問題は解決されなかった。
・講和により日本は無関心でいたアジアと再度向き合うことになる。そこでインドや東南アジアの「ナショナリズム」を認識する。
○文化-親米「平和国家」
・53年3月皇太子は外遊に出る。皇太子は英国を訪れるが、貿易摩擦などから暖かい訪英とならなかった。一方訪米では、家庭教師であったエリザベス・ヴァイニング婦人に合ったり、フォードの自動車工場を訪れるなど、大量生産/大量消費の「アメリカ的生活様式」に接する機会となった。
・「サンフランシスコ講和条約」発効後の52年9月、日本は国連加盟を申請をするが、ソ連の拒否権行使で阻まれる。53年9月皇太子は訪米時に国連を訪問し、国連加盟の意思を表明する。
<戦後日本の確立>
○政治-1955年体制の成立
・54年「造船疑獄事件」が発覚する。自由党幹事長の佐藤栄作は、法務大臣の指揮権発動で逮捕を免れる。
・54年3月ビキニ環礁で第五福竜丸が被曝し、対米批判が強まる。
・ソ連は「平和攻勢」を仕掛ける。54年4月ジュネーブ会議が開かれ、7月ジュネーブ協定が成立し、インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)に休戦が訪れる。
・54年11月24日公職追放を解除された鳩山一郎は日本民主党(自由党の一部と改進党が合流)を結成する。12月10日吉田内閣は総辞職し鳩山内閣が成立する。鳩山首相は憲法改正/再軍備/自主外交(日ソ国交回復)を掲げる。
・55年6月「日ソ国交回復」の交渉が始まる。ソ連は2島返還を提案するが、重光外相は4島返還を主張し退ける(※何で日本が強気でソ連が弱気なんだ)。8月重光外相は安保条約改定のため訪米するが、物別れに終わる。
・55年2月総選挙で左派社会党は議席を増やし、10月左右社会党は統一する。社会党の自由党の綱領は近似していた。これに危機感を感じた日本民主党の芦田均は保守合同に踏み切る。11月15日日本民主党と自由党は保守合同し、自由民主党(以下自民党)を結成する(55年体制)。これにより政権交代を伴う二大政党制の可能性が生まれる。
○外交-外交三原則
・国連加盟に関し外務省国際協力局には①ソ連圏諸国との一括加盟②準加盟(米国提案)③国連の諸機関に協力する国連浸透策の選択肢があった。
・外務省は①一括加盟②準加盟を諦め③国連浸透策を進める。54年10月国連事務総長に日本がUNESCO/WHO/ECAFE/国際司法裁判所に参加し、国連加盟の能力/意思がある事を伝える。
※国連加盟に関し経済社会理事会/アジア極東経済員会(ECAFE)との関係が記されているが理解できず。
・55年バンドン会議(アジア・アフリカ会議)が開かれ、中国/インドが主導する。「平和宣言」も重要だが「経済協力」も重要である。
・55年12月カナダ案「18ヵ国一括加盟」は安保理事会で台湾(米国)に否決される。これにより日本外交はアジア・アフリカ重視に転換する。
・56年10月「日ソ共同宣言」の調印により、56年12月「日本の単独加盟」が国連総会で可決される。
・57年日本は①国連中心②自由主義諸国との協調③アジアの一員の「外交三原則」を掲げる。
○経済-高度経済成長への序曲
・社会党は①原水爆実験の禁止や②第五福竜丸の補償を政府に申し入れる。その実働部隊となったのが労働組合「総評」である。これらの革新勢力は中国/ソ連に接近する。
・日本は統制経済から自由経済に転換し、石炭/鉄鋼/電力/海運を「4大重点産業」とする。住宅建築の1/4は炭鉱労働者のためであり、炭鉱労働者は1日6合の米の配給を受けた。
・しかし石炭から重油へのエネルギー転換が始まり、石炭産業の合理化が始まる。三井鉱山では人員削減に対し労働組合が労働争議(53年8月から113日間)を起こし勝利する。しかし他の石炭大手では人員削減が進む。
・50年代技術革新により企業間競争が激化し、資本家と労働者の対立から企業間の対立に変化する。これにより高度経済成長の前提条件となる日本的経営(労使の相互信頼)が確立する。
○社会-新生活運動
・鳩山内閣(54年12月~56年12月)は反吉田から①反汚職②新生活運動③自主外交を掲げる。②新生活運動とは公衆道徳の高揚である。戦前の「国民精神総動員運動」にも「新生活運動」にも「格差是正」の目的があった。「新生活運動」はヒロポン撲滅/女性の地位向上/貯蓄推奨などが目標となる。
・55年日本経済は戦前の水準に回復し、高度経済成長が始まる。大量生産/大量消費社会に転じ、格差は縮小する。
○文化ー新しい文化
・54年2月マリリン・モンローが来日する。一方で映画『ローマの休日』や「ルーブル美術展」など欧州文化に関心が向けられる。
・53年2月NHKがテレビ放送を開始する。テレビで古川ロッパなどが活躍し、大衆文化を牽引する。「三種の神器」(洗濯機/テレビ/冷蔵庫)が普及し始める。
・『太陽の季節』『エデンの東』『理由なき反抗』などの若者文化も流行する。
・この55年頃に戦後日本の政治/外交/経済/社会/文化の原型が作られた。