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『社会主義と個人』笠原清志を読書。

1980年代頃のユーゴスラヴィアとポーランドの政治を解説。章によりますが、主に人物を中心として解説しているユニークな本です。
ユーゴスラヴィアは民族主義から内戦が起きます。ポーランドはワレサにより社会主義国家が崩壊します。
社会主義は専制政治の最後の形態なのかも。

ユーゴスラヴィアに関する本は何冊か読んでいたので、理解し易かった。一方ポーランドは初めてなので、まだ理解が不十分と思います。
多少時系列が前後するので注意。

お勧め度:☆☆(両国の理解が深まった)

キーワード:<ユーゴスラヴィア>パルチザン、チトー派/ソ連派、イソップ物語、近代化、出稼ぎ、チトー大統領、バルカンの狂気、自主管理、民族問題/ユーゴスラヴィア紛争/介入/コソボ、ミロシェビッチ大統領/民族主義、<ポーランド>共産党、ヤルゼルスキ将軍、レフ・ワレサ/グダンスク協定/連帯、専従者、社会民主主義/民主左派連合、過去の清算/秘密警察/協力者、円卓会議/ヤツェク・クーロン/アダム・ミフニク/普遍的価値、カソリック、半民主主義、隷属

○はじめに
・著者は日本人を「市民」と呼ぶのに違和感を感じ、日本は「庶民」が社会を形成していると感じている。

・社会主義国家の中でもユーゴスラヴィア(以下ユーゴ)とポーランドは特異な歴史を歩んでいる。
・ユーゴはソ連と対立し、1948年コミンフォルムを除名され、「自主管理」社会主義の道を進む。
・一方ポーランドは、1989年「円卓会議」により民主国家になる。これがソ連/東欧の社会主義国家の崩壊の引き金になる。

・著者はユーゴのベオグラード大学の留学経験(1978年~)もあり、また調査研究のためポーランドを初め東欧を何度も訪れている。

<ユーゴスラヴィア>
○ベオグラードの夕焼け
・ベオグラードは「白い街」を意味し、交通の要衝である。
・著者は留学直後の旅行で”イダ・サビッチ”と出会う。彼女はナチス占領時に「パルチザン」として戦った闘士であった。戦後富・権力を得られたのに、図書館員として質素な生活を送っていた。それは自身がカソリックで、母はイタリア人であった事が原因かもしれない。
※ユーゴでは各地で「パルチザン」がナチスと戦った。

○ニナリッチはスーツケースの右隅にある
・留学後に”エミニア”と云う女性の下宿を借りる事になる。彼女には”ヨツァ”と云う夫がいたが、寡黙であった。

・戦後彼は専門学校の教員で、地区の党の幹部でもあった。ユーゴの共産党はチトー派とソ連派で分裂する。専門学校の校長がソ連派で、彼は連行され拷問され、片目の視力と両耳の聴力を失う。※共産党内部の抗争か。
・彼の親戚が家を訪ねる事はなかった。また一人息子はユーゴでの将来を諦め、英国で世帯を持ち、暮らしていた。

・ある日彼女の親戚が訪れ、土産に著者の「スーツケースの右隅にあるニナリッチ」を持って行った(※彼女はそこまで詮索していた)。これで下宿を出る決意をする。

○ユーゴスラヴィア版『イソップ物語』
・最初の下宿を出て、新しく”マリア・ビダック”さんの豪華な部屋を借りる。ここでは食事が付いていないので、時間的に解放された。

・ソ連/中国では社会主義国になると旧勢力(貴族、地主、資本家)は消滅し、文化/芸術/宗教は切断されたが、東欧ではカソリックなどがあり、それらは存続した。彼女はその旧勢力の人であった。

・『イソップ物語』に「蟻とキリギリス」の話があるが、ユーゴでは「冬に困ったキリギリスが蟻を訪れると、蟻は過労死しており、キリギリスは楽しく冬を過ごした」となっている。『イソップ物語』には子供用と大人用があり、「これがユーゴスラヴィアだ」そうだ。

・ユーゴでは「ゆっくり」「明日」と云う言葉を頻繁に使う。先延ばし傾向が強い様である。
・近代化には勤勉/禁欲のエートスが必要である。この差が近代化した西欧とアジア/アフリカとの差である。また後進国の場合、その対応が2つに分かれる。①先進国を目標として、がむしゃらに努力し、追い着こうとする②諦める。日本は前者で、ユーゴは後者であろう。

○身分証明書を見せろ
・1979年12月末、著者は知人とミュンヘンに買い物に行く。帰りの列車は帰国する「出稼ぎ労働者」で大混雑していた。西欧先進国の経済は、彼らにより支えられていた。
・ユーゴの工業化で溢れた労働者は、共和国間の文化/歴史の相違から国内では吸収されず、国外に出稼ぎに行った。※ユーゴは多民族国家である。

・1980年はチトー大統領の危篤とソ連のアフガニスタン侵攻で始まり、ソ連の脅威が高まっていた。2月著者が深夜に帰宅すると、軍人から身分証明書の掲示を求められた。「そろそろ日本に帰国しよう」。

○「さよなら」を言う間もなく
・1980年日本帰国後、在日ユーゴ大使館に勤務する”ネナド”君と知り合う。彼のユーゴ帰国後も交流を続けていた。1989年彼に呼ばれ、ベオグラードをアパートを訪ねると不在であった。電話すると知らない人が出て、「彼はいない」だった。
・同じく彼の知人である鐸木さんから「彼はミロシェビッチ大統領の娘の結婚式の立会人だった」「殺害される(1990年)半年前、精神病院に入院していた」などを知る。

・ミロシェビッチ大統領は「セルビア民族主義」を煽り、1991年からの「ユーゴスラヴィア紛争」を起こした張本人である。
・バルカンでは平和は戦争と戦争の合間でしかない。この地域では民族が生き残るため、暴力は正当化されている。それゆえ、この地は「バルカンの狂気」と呼ばれている。

○理念の崩壊と民族主義の台頭
・戦後チトー大統領はソ連と決別し、「自主管理」社会主義の道を歩む。これは「真の主人公は労働者で、工場や社会が意思決定の中心でなければならない」とする考え。※以前「自主管理」の本を読んだ。「自主管理」は直接民主主義でもある。

・1980年代オイルショックを受け、資本主義国以上に国営企業を持つユーゴの経済は深刻であった。
・ユーゴには6つの民族的な共和国が存在したが、各共和国には少数の他民族が存在し、民族問題は複雑であった(要するにモザイク)。

・大戦中でもセルビア人とクロアチア人との間で「ヤセノヴァツ収容所」「ブライブルクの虐殺」などの大虐殺が起きている。※大戦中からあったのか。知らなかった。
・セルビア人にもクロアチア人にも資本家と労働者がいる。戦後のユーゴは社会主義の下で労働者が横断的に団結する事で、民族問題を政治的に和解させようとした。

・「ユーゴスラヴィア紛争」の要因はいくつかある。①社会主義の崩壊②ミロシェビッチ大統領が「セルビア民族主義」を煽った。他に③スロヴェニア/クロアチアの独立(1991年)をオーストリア/ドイツが時期尚早に承認した事も大きい。

・1991年ロンドン・サミットで「人道目的での内政干渉」が容認される。国連や大国が世界各地で介入しているが、必ずしも成功していない。
・コソボの独立で「ユーゴスラヴィア紛争」は終結に向かっているが、今後はコソボ領内のセルビア人保護が問題になるであろう。

○時が流れて
・ミロシェビッチ大統領は「セルビア民族主義」を煽り続けた。彼はそうするしかなかった。諦める事は自身の死を意味した。
・1990年彼はセルビア大統領に就任する。そこには民族主義の主張/権力志向/ポピュリズム以外は存在しなかった。それは他の共和国大統領も同様であった。

・民族紛争の初期は少数民族に対する「嫌がらせ」程度だったが、次第に暴力行為は正当化されエスカレートした。
・1990年クロアチア共和国の選挙で「クロアチア民主共同派」が勝利すると、クロアチア共和国はクロアチア人の国家で、公用語はクロアチア語である事を宣言する。これに対しクロアチア共和国内のセルビア人は武装蜂起する。
・クロアチア警察はクロアチア共和国軍となり、連邦軍はセルビア軍となり、戦闘が始まる。セルビア共和国ではクロアチア人が狩られ、クロアチア共和国ではセルビア人が狩られた。

・2006年ミロシェビッチ大統領は「国際戦犯法廷」の裁判中に死亡するが、セルビア共和国は国際的には正常化されていない。

<ポーランド>
○非共産党政権の誕生
・1988年著者はワルシャワのマラノフスキ教授を訪れる。彼は著作で労働者の賃金/学歴/欲望/政治意識が同質でない事を明らかにする。
・その後も著者は彼を何度も訪れ、1991年夏は彼の別荘で一緒に過ごした。彼は「連帯」の分裂と、共産党の再結集を予想し、事実そのようになった。また彼には党の専従者/「連帯」の知識人を紹介してもらった。

・終戦直後は多数の党派が存在したが、1948年統一労働者党(共産党)の一党支配となる。「カチンの森」などによるソ連に対する怒りから、国民は共産党支配を喜んでいなかった。
・その後も暴動は周期的に起こった。1970年食料品の大幅値上げで暴動が起き、ゴムルカ政権が退陣し、ギエレク政権(1970年12月~80年9月)が始まる。ギエレク政権は西側諸国から借款し、経済は活性化する。

・しかしギエレク政権はこの返済に困り、70年代末食料品を大幅値上げする。これに対し労働者(ワレサの「労組連帯」など)はストライキで対抗する。1981年ヤルゼルスキ将軍(第一書記、1981年10月~89年7月)は戒厳令により、この混乱を制圧する。

・1989年8月ヤルゼルスキ将軍は賃金/物価の凍結を解除する。これによりインフレは加速される。ヤルゼルスキ将軍は「連帯」顧問のマゾビエツキを首相に指名する。これにより非共産党政権が誕生する。

○ワレサと連帯運動の軌跡
・”レフ・ワレサ”はポーランドの地方都市に生まれる。彼は人気者で腕利きの電気工であったが、都市グダンスクに逃れ、レーニン造船所に勤める。1970年食料品値上げ反対ストライキでは主要なリーダーになる。

・1980年8月彼が指導者となりレーニン造船所1万7千人のストライキを起こす。彼は政府に自由労組(共産党以外の労組)/ストライキの権利/メディアの利用を認めさせる(グダンスク協定)。

・ポーランドでは当初は労働運動と反体制知識人(ヤツェク・クーロン、アダム・ミフニクなど)の連携はなかったが、1970年代半ばより知識人は労働運動を支える様になり、その後両氏は「連帯」の顧問になる。また国民の1/4が連帯運動に参加したとされる。

・1990年末の大統領選で彼は勝利し大統領(1990年12月~95年12月)になる。しかし知識人の中には「労働運動のリーダーが大統領になるのは無理がある」との意見もあった。
・「連帯」は、彼の「労組連帯」/伝統的なグループ(クーロン、ミフニクなど)/カソリック系(マゾビエツキ)/伝統的な右派ナショナリスト/「農民連帯」などの多様なグループで構成されていた。
・「連帯」は共産党と云う敵を失った時に役目を終え、分裂が始まる。

・1990年早々彼は労働者階級をバックに、知識人批判を始める。また市場経済移行による社会不安を、旧体制派(90年1月統一労働者党解党)とヤルゼルスキ大統領の責任と批判し、自身の大統領選への出馬を表明する。
・これに対し知識人は「旧体制派の一方的な追放は独裁であり、私達が求める民主主義と異なる」と彼を批判した。
※ワレサって、こんな人だったのか。詳しくないけど時代が逆行し、レーニンっぽい。

○明日を生きる追放者達
・1989年8月マゾビエツキが首相になり、非共産党政権が誕生すると、ルーマニア・チャウシェスク大統領の逮捕/ドイツ統一/ソ連解体など社会主義国の崩壊が始まる。
・著者は1992年から旧体制派の人達の状況を調査する。対象者はマラノフスキ教授(前述)や労働・社会政策省のグジャンコスキ氏(旧共産党幹部)から、党の中間層を紹介された。

・マーベック・チホニュ(以下彼)はワルシャワの党統制委員会の副委員長だった。彼がこの役に就いた頃は、党と連帯運動の力関係が接近し始めた頃で、扱うケースは職権濫用や道徳問題であった。
・解党により失業するが、銀行の調査員に再就職する。彼は社会主義を信じ、再結成された「社会民主主義」に所属している。

・F氏はワルシャワ・ヴォラ地区の専従者であった。解党後に求職活動したが就職できず、違法の化粧品/衣服の行商を始める。その後事故死する(もしかしたらマフィアに)。

・G氏はトラクター工場の職場党委員会の書記だった。1986年頃から連帯運動が盛んになるが、工場の門でビラを配っている活動家は、G氏が散々注意した不良労働者だった。この頃より党と連帯運動の力関係が逆転し、党の専従者は嫌がらせを受ける様になる。また優秀な労働者も連帯運動に参加し始める。なおG氏は就職できず失業中である。

・旧党員は「労組連帯」から吊し上げられるが、特権を享受していたのは上層部の人で、多くの党員は自分の役割に生きがい/誇りを感じていた。
・調査していて「語らない」「語ろうとしない」元党員が多くいた。※日本の終戦と同じかも。
・解党により生活に困窮したのは党の専従者であった。

・ワルシャワ・オホタ地区では旧共産党員が終結し、「社会民主主義」を結成する。
・1991年総選挙では旧共産党系の「民主左派連合」が第二党に躍進する。1995年大統領選ではクワシニエフスキがワレサに勝利する。
※結局は「連帯」と旧共産党系の権力争いであって、イデオロギーは重要でないのでは。

○過去を支配する者が・・・・
・東ドイツの「秘密警察」には18万人の「協力者」(国民180人に1人)がいた。「協力者」は反体制運動を妨害した。また妻の行動を逐次「秘密警察」に報告していたケースもあった。
・ポーランドも同様であった。カソリック教会は「連帯」を支援したが、その10%は「秘密警察」の「協力者」であった。

・体制変換すると「過去の清算」が必要になる、しかし現在の基準で過去を裁くのは危険である。「協力者」には金銭や女性の誘惑で罠に落ちた人/家族を救うために協力した人など様々である。また大使館員/ジャーナリストなどは、それが業務になっている。ワレサ自身も逮捕された時、ストライキなどの内部情報を密告している。

・1981年ヤルゼルスキ将軍による戒厳令から8年後に共産党は解党する。よって解党は予期されたもので、「秘密警察」の「協力者リスト」は意図的に改竄されたと思われる。

○「労組連帯」のジレンマ
・1990年著者はワルシャワのテレビ工場で調査した。当時は経済の移行期で政府の上層部は「連帯」が占め、工場では経験のある旧共産党員が排斥され「労組連帯」が権力を握っていた。そのため工場長は困惑し、「資金のある日本企業に買収して欲しい」と願う状況であった。
・著者はこの工場で「労組連帯」の地域組織「マゾフシャ連帯」のヤンコスキと出会い、その後5年間懇意にする。

・ワレサは民主化の混乱を、旧共産党の排斥で誤魔化そうとした。しかしこれに「連帯」の知識人は反対していた。「労組連帯」は強硬姿勢から組織率/影響力を弱める。※「敵を作る」よくある政治手法だ。

・1989年2月「円卓会議」が開かれ、党政府(ヤルゼルスキ将軍)と「連帯」の知識人(ヤツェク・クーロン、アダム・ミフニク)は権力移譲について協議した。
・「円卓会議」の解釈はワレサ/「労組連帯」と「連帯」の知識人で違っていた。ワレサ達は政治的権力を強める機会と考えていたが、知識人は普遍的価値(民主主義、人権)を理解しており、民主化/市場経済への移行の始まりと考えていた。

・「連帯」政権が誕生すると、ミフニクはワレサを批判し始め、逆にヤルゼルスキとは和解し接近する。
・「連帯」政権誕生後の民主化で雇用は不安定になり、「マゾフシャ連帯」の指導者ヤンコスキは労働運動に苦労する。

・2006年ワレサは「労組連帯」を脱退する。日本では彼は「世界の寵児」として評価するが、ポーランドでは野心的なポピュリストとして評価は低い。、

○民主化のリーダーと半民主主義
・ポーランドは国民の90%がカソリックであり、東はロシア正教、西はプロテスタントの国である。よって権力は共産党とカソリックの二重構造であった。ワレサが熱狂的に支持されたのは、カソリック的権威主義による。
・プロテスタントでは神-個人の関係だが、カソリックでは神-教会-個人の関係になる。したがってカソリックではプロテスタントの個人主義/市民社会が成立せず、英雄主義/権威主義となる。※この観点で見た事はなかった。

・連帯運動のイデオロギーは多様であったが、ミフニクは①民主主義を求める運動②国家アイデンティティを求める運動③労働者の権利/解放を求める運動と考えていた。
・ワレサは権力奪取後「宗教的保守主義」に陥り、知識人と対立した。「革命のリーダーは、革命後の建設のリーダーに適任」とは云えない。

・ソ連/東欧の民主化/市場経済の導入で西欧諸国が見落としていた事がある。①市場経済の導入に時間を要する②新たに政権を握った「連帯」は政治的に無能である。
・ソ連/東欧の民主化は英雄主義/権威主義となったため、「半民主主義」と呼ぶ識者もいた。
・ポーランドの共産党は自己改革により「社会民主主義」として復活する。

※これから先は難解。
・民主化時には必ず旧体制の責任を問うプロセスが起こる。過去を自省すると、被害者でもあり加害者ともなりうる。
・全体主義は独裁者(ヒトラー、ムッソリーニ)や一部の支配者によって維持されていたのではなく、中間組織や一般国民にも支えられていた。

・ミフニクは「暴力により権力を得た者は、権力を維持するために暴力を行使し続け、これを放棄する事はない」とする。
・1981年戒厳令により連帯運動は抑圧されたが、逆にこれにより社会的自立が国民に浸透したと云える。
・ポーランドでは連帯運動が暴力を自制した事、及び共産党が民主的プロセスで復活した事は評価できる。

・ミフニクの偉大さは、攻撃の矛先を共産主義だけでなく、「隷属の社会学」「隷属の地理学」に向け、これを拒否した事にある。
・旧体制が反体制知識人(クーロン、ミフニク)を抹殺する可能性はあった、しかしポーランドにはそれを躊躇させる何かがあった。

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