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『英傑60人に学ぶ先見力』加来耕三を読書。

英傑60人を簡潔に紹介しています。様々な人生が分かります。
知らない人も多くいたが、女性は一人もいない。
簡潔ではあるが、ページ数は多い。

お勧め度:☆☆

キーワード:聖徳太子/対等外交、藤原鎌足/大化の改新、空海/探求心/真言密教、足利尊氏/無欲/倒幕、豊臣秀吉/人たらし、徳川家康/寛容、島津斉彬/名君、勝海舟/英傑、上杉謙信/基礎、細川藤孝/第3の道、安国寺恵瓊/外交僧、藤堂高虎/出世術、立花宗茂/返り咲く、佐竹義宣/名門の生き残り、坂本龍馬/人脈/亀山社中/薩長同盟、石田梅岩/心学、江川太郎左衛門/救国、緒方洪庵/名医・教育者/適塾、小林虎三郎/米百表、松平春嶽/調停者、吉田松陰/人材育成、北条時頼/名執権、小早川隆景/三本の矢、保科正之/会津藩家訓、島本仲道/司法の確立、小松帯刀/維新の立役者、島村速雄/日本海海戦、織田信長/危機管理、浅井長政/義と孝、大久保彦左衛門/三河物語、小栗忠順/徹底抗戦、江藤新平/維新の功労者、井上成美/海軍良識派、本田正信/謀臣、竹中半兵衛/軍師、黒田官兵衛/軍師、蒲生氏郷/勇者、村田新八/西郷隆盛、高島秋帆/天才、北条時宗/蒙古来襲、島津義弘/敵中突破、山田方谷/財政再建、岩崎弥之助/陸の三菱、川崎正蔵/川崎造船所、宇都宮三郎/化学、淀屋常安/ヘッジファンドの先駆け、紀伊国屋文左衛門/先見力の限界、岩崎弥太郎/三菱、五代友厚/大阪、岩谷松平/煙草、福沢桃介/電気産業、関一/大阪、平清盛/武士、木曾義仲/上洛・討死、太田道灌/上杉家滅亡、明智光秀/過労、徳川宗春/反倹約、蜂須賀重喜/隠居、水野忠邦/急速な改革、佐久間象山/先覚者

<成功の条件>
○聖徳太子
・彼は歴史から不意に消えた。「冠位十二階」「十七条の憲法」は蘇我馬子の業績とされる。
・彼は外交担当で、小野妹子を遣隋使として派遣した。国書の「日出る所の天子」に隋皇帝が憤る。当時は高句麗が強大で、この対等外交も許された。
・彼は蘇我馬子と対立し、皇位に就けなかった。

○藤原鎌足
・彼は飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討つ。このクーデターの首謀者は軽皇子(孝徳天皇)と蘇我倉山田石川麻呂であった。「大化の改新」で「公地公民制」「冠位制」を推進する。
・649年蘇我倉山田石川麻呂は自殺し、654年孝徳天皇は退位。668年天智天皇が即位。彼は死に際し、藤原性を授かる。

○空海
・彼は讃岐の地方豪族に生まれる。官僚になるための「大学寮」に入るが「私度僧」になる。「真言」に対する疑問から遣唐使となる。
・入唐後サンスクリット語を取得し、「恵果」から密教を学び、経典/書籍/法具などを持って帰国する。
・「釈迦」を教祖とせず、宇宙の原理「大日」を教祖とした。

○足利尊氏
・1331年彼は後醍醐天皇に対する鎌倉幕府側の一武将として登場する。1332年隠岐を脱出した後醍醐天皇は再度倒幕に出る。彼は弟直義/執事高師直に担がれ倒幕側に転じる。彼が天皇側に付かなければ、鎌倉幕府は長期化した可能性が高い。
・室町幕府が弱体なのは、諸大名に領地を惜しげもなく与えた彼の性格による。

○豊臣秀吉
・彼は継父と合わず、寺に預けられる。しかし寺でも打ち解けず脱出し、諸国を流離う。彼の洞察力/人心収攬力などは、この時期に身に付いたと思われる。

○徳川家康
・彼は人質生活や織田信長/豊臣秀吉に仕えたが、二重人格だったと思われる。彼の長子は酒井忠次により切腹させられる。しかし忠次を”驚嘆すべき寛容”で許した。これは組織としての生き残りを重視したためと思われる。
※彼は祖父も父も家臣に暗殺されている。

○島津斉彬
・彼は存命中から「三百諸侯中の名君」と云われ、松平春嶽/勝海舟も激賞している。彼は和漢蘭に優れた。西郷隆盛/大久保利通は彼の薫陶を受けた。
・ペリー来航で挙国一致を唱え、「将軍継嗣問題」で一橋慶喜を14代将軍に就けるべく画策した。

○勝海舟
・卓越した先見力を持ち、成功した数少ない人物である。剣術で師範代となるが、彼の関心は西洋式兵学に向けられる。ペリー来航により長崎海軍伝習所に入門する。自説を曲げないため、左遷と返り咲きを繰り返すが、瓦解期には幕府の全権になる。

<智謀を尽くして世を切り拓け>
○上杉謙信
・彼には他の戦国大名にない3つの信念があった。①神仏に敬虔②領土欲がない③朝廷/幕府への思慕。これらは7歳から仏門に入った事による。
・後奈良天皇から綸旨を受け、これを名分に武田/北条/今川と戦う。

○細川藤孝
・彼は足利義輝/足利義昭/織田信長/豊臣秀吉/徳川家康に仕えた稀有な人物である。彼は幾多の難関を第3の道で乗り切る。
難関①-足利義輝が松永久秀に弑逆された時、義輝の弟(義昭)を仏門から還俗させ、一緒に諸国を流浪する。
難関②-義昭が織田信長打倒を企てると、これを明智光秀に密告し、信長側に転じる。
難関③-本能寺で光秀が信長を討つと、仏門に入り中立を取る。
難関④-「関ヶ原の戦い」では息子忠興は東軍に付き、彼は丹後田辺城に籠る。西軍1万5千が城を攻めるが、朝廷が「彼が死すと、古今伝授を失う」と調停に乗り出し、無事開城される(戦国期で朝廷が武家を救った唯一の事例)。

○安国寺恵瓊
・彼は安芸武田氏の嫡流に生まれるが、武田氏は毛利氏に滅亡され、安芸安国寺に入る。安国寺の住持となるが、京都東福寺/南禅寺の住持も兼ねる。
・毛利家の外交僧となる。豊臣秀吉の「中国大返し」では、毛利家の追撃を抑えた。秀吉の四国征伐で6万石の大名になる(還俗せず大名になった唯一の事例)。
・「関ヶ原の戦い」では石田三成を援け、毛利輝元を総大将に就けるが、毛利軍は動かなかった。

○藤堂高虎
・巨漢の彼は「姉川の合戦」で浅井方に「陣借り」で参戦している。その後も仕官に5度失敗する。豊臣秀吉の弟秀長に仕え、1万石の大名になる。その後豊臣秀吉の直臣になり、7万石の大名になる。
・1586年秀吉が徳川家康を聚楽第に招いた時、家康と懇意になる。1598年秀吉の死後、家康の行動から4大老5奉行が「家康問責事件」を起こすが、彼はこの事を家康に密告している。「関ヶ原の戦い」では西軍の切り崩しを行う。その後も順調に出世し、32万石の大名になる。

○立花宗茂
・彼は無敗の武将である。大友宗麟の重臣に生まれる。大友氏は島津氏と戦うが、彼は37戦無敗であった。宗麟は豊臣秀吉の臣下となり、彼は秀吉から直接、柳河13万石を与えられる。
・「文禄の役」では明軍にも勝利する。「関ヶ原の戦い」では敗れ、牢人となるが、1604年徳川秀忠に取り立てられ、1620年柳河11万石の領主に復帰する。

○佐竹義宣
・武田勝頼が滅んだ時点で、源氏の正統は佐竹氏と島津氏のみである。彼は幕府より30年早く、「殉死」を禁止した。
・「小田原の役」では直ぐに豊臣方に参陣し、54万石を安堵される。「関ヶ原の戦い」では上杉景勝と共に西軍に与し、出羽久保田(秋田藩)に移封される。

○坂本龍馬
・彼の話の多くは、『土陽新聞』の創作である。
・西洋式砲術を学ぶため、江戸で佐久間象山に入門する。幕府高官の勝海舟から開国を学び、人脈を広げる。海舟に繋がる薩摩藩(西郷隆盛、大久保利通)に庇護され、長崎で「亀山社中」を起こす。1866年「薩長同盟」に助力する。

<次代を見据えた教育者の慧眼>
○石田梅岩
・彼は今の日本人のバックボーンである「心学」を開いた。「心学」は儒学/仏教/神道/道教を複合し、実践的にしたものである。
・彼は丹波の中農に生まれ、京都の呉服屋の丁稚に出る。商人の徳目は勤勉/節約とされたが、彼は「抜け目のなさ」の必要性を実感する。45歳の時独立し、塾を開く。「勤勉」は人生修行で、その生産性は問わないとした。

○江川太郎左衛門 ※この人は記憶になかった。
・彼は伊豆韮山の代官に生まれる。江川家は幕府直轄領の26万石を支配していた。彼は「共和制民主主義」を目標とした。1849年疱瘡(天然痘)が流行ると、領民に種痘を施した。
・1842年江戸で「高島流西洋式砲術教授」を開く。ここで佐久間象山/川路聖謨/橋本佐内/桂小五郎/黒田清隆/大山巌などが学び、幕府の兵制の基本となる。
・彼は「異国船打払令」を「薪水給与令」に改めさせる。また韮山に反射炉を設けている。

○緒方洪庵
・幕府には昌平黌、諸藩には藩校があったが入学制限が厳しかった。そこで彼は「適塾」(適々斎塾)を開き、蘭学を教える。門下生には福沢諭吉/大村益次郎などがいる。
・備中足守藩の藩士に生まれる。大坂/江戸/長崎で蘭学を学び、1838年「適塾」を開く。疱瘡(天然痘)/コレラの対策で名医となる。

○小林虎三郎 ※「米百表」は彼の言葉か。
・越後長岡藩は佐幕派になり、官軍に攻められ降伏する。長岡藩は減封され、彼は再起を託され、大参事に就く。窮状した藩に支藩から「米百表」が送られるが、「これで学校を建てる」と宣言する。この学校は山本五十六などが輩出している。

○松平春嶽
・彼は田安家に生まれるが、1838年越前福井藩の藩主になる。
・1853年ペリーが来航した頃「将軍継嗣問題」があり、彼(一橋派)は一橋慶喜を推すが、徳川慶福(家茂)推す譜代大名/大奥(南紀派)に敗北する。これを機に隠居する。
・大老井伊直弼の横死後、幕府は弱体化し、1862年「政事総裁職」に就く。しかし9ヶ月後には「将軍後見職」一橋慶喜と対立し、「政事総裁職」を辞する。

○吉田松陰
・彼は長州藩士に生まれる。秀才であったが、行動力も卓越していた。ロシア船やアメリカ船への密航を試みるが失敗する。実家幽閉となり、「松下村塾」を引き継ぐ。ここで高杉晋作/久坂玄瑞/伊藤博文/山縣有朋などを教える。門人を差別せず、平等に扱った。偉業を後輩に託し、「安政の大獄」で刑死する。

<先見性を兼ね備えた、卓越した実務者>
○北条時頼
・彼は元寇で戦った北条時宗の父であり、「名執権」とされる。将軍九条頼経/頼嗣を廃したり、名越光時や三浦一族を討っている。それゆえ弱者救済的な善政を行ったと思われる。

○小早川隆景
・彼は毛利元就の三男に生まれる。小早川家を継ぐが、毛利家の事実上の指導者であった。豊臣秀吉の「中国大返し」では、追撃に反対している。※安国寺恵瓊と同意だな。
・「四国攻め」後は伊予を与えられ、「九州征伐」後は筑前/筑後を与えられる。「朝鮮出兵」後は5大老に就く。
・毛利家の存続を第一に考え、小早川秀秋を養子にする。
・「三本の矢」は1557年元就が3人に送った「御家誡」が基とされる。

○保科正之
・彼は徳川秀忠の庶子として生まれ、7歳の時、保科家の養子となる(父とは生涯面会できず)。実兄である将軍家光に信任され、出羽山形20万石から会津23万石に移封される。
・将軍家光/家綱に仕え、殉死の禁止/人質の廃止は「寛文の二大美事」と云われる。
・徳川将軍への忠勤を『会津藩家訓』に記した。幕末に松平容保が「京都守護職」に就いたのは、これによる。

○島本仲道 ※この人は知らなかった。
・彼は司法(警察、検察、弁護)の確立に半生を賭ける。事実上の初代警視総監である。
・土佐藩士に生まれる。「土佐勤王党」に参加し、終身禁固となる。「御一新」となり官軍に従軍する。その後司法省に入省し、司法大丞(ナンバー4)に就き、司法改革を行う。「愛宕事件」では西郷隆盛にも嫌疑を掛ける。1873年司法卿江藤新平(後述)と共に司法省を辞す。
・1874年彼は大阪で代言人(弁護士)事務所を設立する。1887年民権運動に参加し、保安条例で東京退去処分を受ける。

○小松帯刀 ※彼には注目したい。
・西郷隆盛/大久保利通を部下として使い、「明治維新」は彼の功績である。
・喜入領主に生まれるが、吉利領主小松家の養子となる。「国父」島津久光の側近となり出世し、1862年事実上の宰相になり、「御一新」まで軍備/財政/教育を担当する。久光の武装上洛/寺田屋事件/生麦事件/薩英戦争に対処する。また坂本龍馬(前述)を始めとする土佐藩脱藩浪士を支援し、「亀山社中」を誕生させる。1866年京都の私邸で「薩長同盟」を締結させる。彼がいなければ「明治維新」はなかったと思われる。

○島村速雄 ※この人も知らなかった。
・彼は土佐下級藩士に生まれる。彼は海軍兵学校を卒業する。日本海軍の戦術書となる『海軍戦術一斑』を作成する。
・日清戦争では作戦参謀に就く。日露戦争では第2艦隊司令官に就き、「日本海海戦」で自身が考案した「T字戦法」で勝利する。

<愚直を貫き、時代に対峙>
○織田信長
・彼は「天下布武」を掲げる。
・情報を重視し、それを家臣に徹底させた。当時の「鷹狩り」にはルールがあったが、彼は全く無視し、事前に斥候を放ち、効率的に「鷹狩り」を行った。この姿勢は実戦でも見られ、少数部隊を「威力偵察」(強行侵入)させ、正確な情報を得た。「桶狭間の戦い」の勝利もこれによる。※彼の合理性が伺われる。

○浅井長政
・1567年北近江を領する彼は織田信長と同盟を結ぶ。1570年織田連合軍(徳川家康など)は越前朝倉家を攻める。しかし彼は寝返り(正確には彼の父が主導した)、織田連合軍は挟撃される。
・1573年信長は浅井朝倉連合軍を「姉川合戦」で破る。浅井長政の妻お市と娘3人は城を脱出する。

○大久保彦左衛門 ※詳しく知らない人だ。
・彼が著した『三河物語』は有名である。大久保一族は徳川家康が「三河一向一揆」に遭遇する頃から仕えていた。
・彼は長兄の嫡子忠隣に仕えるが、忠隣は本田正信との政争に敗れ、彼は一介の旗本になる。「大坂夏の陣」で「槍奉行」として活躍するが、時代は「元和偃武」に移る。

○小栗忠順
・幕末には事なかれ主義で「気骨ある侍」はいなくなり、幕府で活躍する人は身分制度を超えた人(勝海舟、榎本武揚など)のみとなったが、彼は例外で名門に生まれる。
・33歳の時、大老井伊直弼に抜擢される。遣米使節団には「目付」として加わり、「日米修好通商条約」を批准する。井伊直弼は暗殺されるが、その後も順調に出世し、1866年幕閣最高実力者(勘定奉行兼海軍奉行)になる。
・1868年幕府は「鳥羽伏見の戦い」で敗れる。彼は徹底抗戦を主張するが受け入れられず。上野権田村に帰農するが、官軍に捕らわれ斬首される。

○江藤新平
・真の「明治維新」は、1871年「廃藩置県」以降であり、彼は司法制度の確立/民法の制定/国民皆兵/四民平等など、最大の功労者である。
・肥前佐賀藩の下級武士に生まれる。非現実的な攘夷論に失望し、永蟄居処分を受ける。
・1867年佐賀藩は他藩との交流が禁止されていたため、彼が抜擢され、永蟄居を解除される。江戸開城後、太政官会計官(大蔵省)などを務める。
・1872年初代「司法卿」となり、藩閥の贈賄収賄事件を摘発する。これに危機感を持った大久保利通は彼を政府から追い出す。さらに1884年「佐賀の乱」を起こさせ、彼を処刑する。

○井上成美 ※この人も知らなかった。
・1906年海軍兵学校に合格する。その後海軍兵学校校長/海軍次官などを歴任する。1945年日本海軍最後の大将となる。
・1932年「軍令部条例」などの改定に反対する。この改定がなされると、人事/予算の権限が海軍省から軍令部に移り、軍令部が独走する危険が生じる。しかしこれにより左遷される。彼は「日独伊三国同盟」にも反対している。

<主君を支え続けた名脇役/名参謀>
○本田正信
・1563年「三河一向一揆」で彼は一揆側で活躍する。その後諸国を流浪し、大久保忠世の執り成しで徳川家に帰参する。
・彼が表舞台に出るのは「本能寺の変」で、徳川家康を堺から三河に脱出させてからである。
・石田三成が武断派に糾弾された時、三成を助けている。片桐且元に大坂城で混乱を起こさせたり、大坂城の内堀を埋めたり、謀略が多い。

○竹中半兵衛
・彼は織田信長の近江進攻で浅井家の部将を寝返らせた。彼は黒田官兵衛などの軍師を育てた。

○黒田官兵衛
・播州の小大名小寺氏の家臣に生まれる。彼は心底正直者だったと思われる。また家臣/領民への慈しみが深かった。
・主君小寺政職/荒木村重は織田方に付くが、村重が謀叛する。彼は村重を説得するため有岡城に向かうが、幽閉される。11ヶ月後に有岡城が落城し、骨と皮になった彼が救出される。
・「本能寺の変」の時、豊臣秀吉連合軍2万7千(秀吉6千)は明智軍1万6千と毛利軍3万に挟まれる。彼は毛利家と急遽和睦し、「中国大返し」を成し遂げる。

○蒲生氏郷
・彼は近江の旧家に生まれ、織田信長に仕える。戦場では先頭に立って戦う勇者であった。その後豊臣秀吉に仕え、1590年会津42万石を拝領し、徳川家康/伊達政宗/上杉景勝を牽制する。

○村田新八 ※彼も定かでない。村田銃を開発した人とは別だな。今年の大河ドラマは西郷が主役です。
・彼は鹿児島城下に生まれ、西郷隆盛と行動を共にする。1862年西郷が徳之島に流された際、彼は喜界島に流される。
・「明治維新」で西郷が最大権力者の時、彼は宮内大丞(ナンバー4)に就く。彼は伊藤博文を抑え、初代内閣総理大臣に就いたであろう人物である。岩倉使節団にも参加し、外交にも優れていた。
・「征韓論」で西郷と共に下野し、「西南戦争」で共に自決する。

○高島秋帆 ※この人も知らない。
・長崎の町年寄に生まれる。和式砲術と西洋式砲術の格差を知り、オランダ人から西洋式砲術を学ぶ。懐中時計/望遠鏡/火器などを購入し、転売もした。
・彼の西洋式砲術は幕府にケチを付けられ、入獄される。ペリー来航の頃、江川太郎左衛門(前述)の嘆願で赦免される。軍備強化/開国の『嘉永上書』を幕府に提出する。

<絶体絶命を機転と胆力で脱出>
○北条時宗
・1274年蒙古軍3万数千が北九州に上陸する。しかし夜の暴風雨で軍船は姿を消した。これを機に彼に非御家人/寺社勢力の動員権が与えられ、幕府が東国政権から全国政権に変わる。1281年蒙古軍が再来するが退ける。

○島津義弘
・1587年島津氏は豊臣秀吉に降参する。当主義久は薩摩、弟義弘は大隅/日向を安堵される。彼は「朝鮮出兵」で活躍する。
・1600年「関ヶ原の戦い」で彼は東軍に付こうと伏見城を訪れるが拒否される(当時島津氏は兄義久と分裂していた)。西軍は小早川秀秋の裏切りで敗色となり、彼は敵中突破を試み、兵1,500が200に減じる。しかしこれにより島津氏は所領を維持した。

○山田方谷 ※この人も知らない。
・彼は江戸期で最高の財政再建者である。備中松山藩の農民に生まれる。藩主板倉勝職から苗字帯刀を許され、藩校の教頭/校長を務める。
・次の藩主板倉勝静から藩財政を任される。驚いた事に、借財は10万両あり、また表高は5万石だが、実高は2万石しかなかった。彼は大坂蔵屋敷の廃止/砂鉄の藩営で利益を得て、借財10万両を蓄財10万両に変えた。

○岩崎弥之助
・1878年大久保利通が暗殺され、伊藤博文/渋沢栄一/大倉喜八郎/三井らが「共同運輸会社」を創設し、「三菱」は苦境に立つ。
・1885年岩崎弥太郎(後述)が死去し、弟弥之助が社長に就く。彼は「三菱」と「共同運輸会社」を合併させ、「日本郵船会社」を設立する。残った吉岡鉱山/千川水道会社/高島炭鉱/第百十九銀行/長崎造船所で「三菱財閥」を形成する。また丸の内を市街化する。

○川崎正蔵
・彼は幼い頃から父の行商を援ける。1853年豪商「山木屋」に奉公に上がる。1869年砂糖会社に就職する。その後年6回の「琉球航路」を就航させる。1877年独立し、1878年「川崎築地造船所」、1881年「川崎神戸造船所」を設立する。

○宇都宮三郎(神谷銀次郎) ※この人も知らない人。
・彼は尾張藩士に生まれる。彼は西洋の兵学に興味を持ち、火薬の製法である「離合学」に行き付く。江戸に出るが、1857年脱藩し、江川太郎左衛門(前述)などと交流する。「洋書調所」が「開成所」と改称される際、「離合学」の精錬所を「化学所」と改称するよう建議する。
・「岩倉使節団」に参加し、セメント技術を日本に持ち帰る。

<時代を読み切った経済人の独創性>
○淀屋常安
・「商品先物取引」はシカゴ商品取引所で発展したが、その先駆けは大坂堂島であった。
・彼は武士であったが「淀屋」を営み、豊臣秀吉に当て込んで材木で莫大な利益を得る。「大坂の陣」では徳川家康を支援し、さらに巨額の富を得る。彼はこの富で米相場を建てる。彼を継いだ三郎衛門は魚市場/青果市場を開く。
・5代目辰五郎は庭に珍木/名木を植え、障子/天井/縁にビイドロを使い金魚を泳がせた。1705年淀屋は幕府により闕所となり、財産を没収される。この「淀屋闕所事件」は誇張され、商家の誡めとなった。

○紀伊国屋文左衛門
・彼は「紀州みかん」で財を成したとされるが、当時「紀州みかん」は紀州藩により統制されており、この話は創作である。事実は彼は材木の取引で財を成した。しかし将軍徳川綱吉の死去で緊縮財政となり、紀伊国屋も没落する。

○岩崎弥太郎
・土佐の地下浪人(身分を売った郷士)に生まれる。彼は寺小屋を営み、郷士に復帰する。土佐藩の商館「開成館」「土佐商会」を担当する。その後坂本龍馬(前述)が「亀山社中」を再編した「土佐海援隊」の会計係に就く。その後大坂の「土佐商会」に移る。
・1870年「土佐商会」は「九十九商会」(三菱の前身)になる。彼は船数を着実に増やし、1877年「西南戦争」では政府の輸送を一手に引き受ける。

○五代友厚
・彼は薩摩藩の儒者に生まれるが、大阪で金銀分析所/大阪商法会議所(大阪商工会議所)/大阪株式取引所/紡績会社/住友製銅会社/増田製銅会社/神戸桟橋会社/大阪商業講習所(大阪市立大学)などを設立する。
・1863年藩論を開国に転換させようと、「薩英戦争」で寺島宗則と共に意図的に捕虜になる。藩から許されず、英国商人トーマス・グラバーに匿われる。1864年帰参し、翌年藩命により英国に留学する。1868年大阪府判事に就く。
・彼は100万円を超える負債を遺し、極めて清潔な人であった。

○岩谷松平 ※知らない人が増えてきた。
・1877年彼は「西南戦争」で鹿児島県川内の造り酒屋を焼かれ、東京に出て「薩摩屋」を営む。当時は珍しかった「紙まきたばこ」(金天狗、銀天狗、赤天狗、青天狗など)を販売し、業界トップになる。
・政府は日露戦争の軍費調達のため「岩谷商会」を買い叩き、煙草を専売制にする。

○福沢桃介 ※福沢諭吉には4男5女がいたのか。
・彼は福沢諭吉の娘に入婿する。諭吉の力で米国に留学するが、「ペンシルヴァニア鉄道」に入社する。帰国後「北海道炭礦鉄道会社」に入社する。英語を駆使し鉄/黒ビール/火災保険など、事業を拡大する。
・結核になり療養生活に入るが、株式で資産を10倍に増やす。その後「北海道炭礦鉄道会社」に復帰し、瓦斯/電気(水力発電)事業を拡大する。

○関一
・彼は大阪市長になり、近代都市大阪を築く。彼は伊豆の旧幕臣に生まれる。東京高等商業学校(一橋大学)を卒業し、大蔵省に入省するが、1年で退職する。
・都市政策などを学んだ後、1914年大阪市助役に就く。1918年「米騒動」が起こると、職業紹介所/共同宿泊所などを創設し、「大大阪開発計画」を始める。
・1923年7代大阪市長に就き、「大大阪開発計画」(中央市場の開設、御堂筋の着工、市バスの開始、大阪湾の拡張、大阪商科大学(大阪市立大学)の創設、地下鉄の開通など)を推進する。

<失敗の本質>
○平清盛
・1156年「保元の乱」は天皇と院の戦いであったが、これにより武士が覚醒する。彼は「人好き」の性格で、これが天下人となった要因である。「平治の乱」でも勝利し、平家は旭日昇天の勢いとなる。しかし平家は貴族化し、源氏を担ぐ気運が生じる。

○木曾義仲
・1183年彼は挙兵し、「俱利伽羅峠の戦い」で平氏に勝利する。彼らは上洛するが、乱暴狼藉を働く。後白河法皇は彼に平家追討を命じ、一方源頼朝に上洛を促した。彼は「宇治川の戦い」で源義経に敗れ、討ち死にする。

○太田道灌
・室町時代中頃、関東は古河公方/堀越公方/関東管領上杉氏(山内上杉家、扇谷上杉家)に分裂していた。扇谷上杉家の家宰太田道灌は才覚がずば抜けており、その勢力図が変わる。
・両上杉家の当主が病没し、彼は混乱を鎮めようとするが暗殺される。彼を失った両上杉家は滅亡する。

○明智光秀
・彼は主君織田信長に最も頼りにされるが、「本能寺の変」で主君を討つ。彼は美濃の名族の出とされるが、謎が多い。主君を討った要因に、武田氏滅亡後の打擲/徳川家康の接待/出雲石見への移封からの不信感や過労が考えられる。
※戦国大名の大半は現状維持が目標で、天下統一など考えていなかったと思う。

○徳川宗春
・彼は3代尾張藩主徳川綱誠の20男であったが、1730年7代藩主に就く。当時は徳川吉宗が「質素倹約」を旨とする「享保の改革」を行っていた。しかし彼の政策は、これと反対の積極策であった。
・彼は幕府から目を付けられ、1739年隠居謹慎となる。死後も罪人として扱われる。

○蜂須賀重喜
・1754年彼は出羽秋田藩より徳島藩に養子に入る。1766年財政難から能力主義の「役席役高の制」を導入する。しかし1769年強引な藩政改革により隠居させられる。

○水野忠邦
・彼は肥前唐津藩に生まれる。彼は老中になるため浜松藩に転封する。1834年念願の老中に就く。彼は改革派を結集し、奢侈の禁止/物価引き下げなどの「天保の改革」を行う。国防目的で印旛沼開拓/上知令も実施する。しかし幕府財政難や民衆/大名/旗本の反発で、1843年老中を罷免される。

○佐久間象山
・彼は信州松代藩に生まれ、和漢洋を極めた先覚者である。彼は読めなかったオランダ語の原書を読み、独力で硝子や大砲を製造した。1864年京都で暗殺される。

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