『地図だけが知っている日本100年の変貌』竹内正浩を読書。
各都道府県から1つ取り上げ、国土の変化を解説しています。
主に干拓、鉄道などを取り上げています。知らない事も幾つかあった。
お勧め度:☆☆
キーワード:有珠山/昭和新山、青函連絡船、防潮堤、北上川、八郎潟、板谷峠/スイッチバック駅、磐梯山/堰き止め湖、つくば、足尾銅山、清水トンネル、武甲山/セメント、安浦、明治神宮、横須賀、武家町/町人町、放生津潟/富山新港、加賀三湖、北陸本線、富士山、軽井沢、御母衣ダム、名古屋、木曾三川/七里の渡し、琵琶湖/内湖、巨椋池、大坂城、六甲山地/ポートアイランド/六甲アイランド、丹波市/天理教、和歌浦、中海、瀬戸大橋、原子爆弾、関釜連絡船/関門トンネル、吉野川/大鳴門橋、別子銅山、高知、洞海湾、有明海、端島(軍艦島)/高島、鹿児島本線、由布院、県庁所在地、桜島、嘉手納
○はじめに
・明治以降日本は埋め立て/干拓/河川改修/ダム建設/鉄道などの土木工事を行い、また都市を発展させてきた。かつての日本の基幹産業は鉱業であった。
○北海道/東北
・「有珠山」は20~30年周期で噴火している。昭和18年土地の隆起が始まり、標高400m近い「昭和新山」ができる。
・「青函連絡船」は明治41年に始まるが、三菱財閥の日本郵船はそれ以前から運航していた。日露戦争後の明治39年に制定された「鉄道国有法」により東北本線/青函連絡船が国有化される。昭和63年「青函トンネル」開通により「青函連絡船」は廃止される。
・田老は明治29年/昭和8年と津波に襲われる。これにより高さ10mの防潮堤を築く。昭和35年チリ地震では人的被害はなかった。
・かつては「北上川」も氾濫した。明治43年大洪水を起こす。政府は放水路の開削と追波川の利用で、「北上川」の流路を変える。
・「八郎潟」は日本で2番目の湖であったが、昭和32年より干拓が始まり、昭和40年に完了する。
・「奥羽本線」には難所の「板谷峠」がある。開通は明治33年で、スイッチバック駅があった。平成4年「山形新幹線」の開通により、軌間も拡幅され、スイッチバック駅も廃止された。
・明治21年「磐梯山」が大噴火し、山体崩壊する。これにより檜原湖/秋元湖/小野川湖などの「堰き止め湖」ができる。※ブラタモリでやった。
○関東
・昭和60年「つくば科学万博」が開かれる。今は国土地理院/筑波大学などが移転している。平成17年「つくばエクスプレス」が開業し、ベッドタウンとして脚光を浴びている。
・銅は高価で、江戸城/名古屋城/東照宮の屋根は銅板ぶきだった。「足尾銅山」は江戸後期に衰退するが、明治14年古河財閥が新たに鉱脈を発見する。
・川端康成『雪国』で有名な「清水トンネル」だが、その線路は今は上り専用のトンネルである。今の上越国境には鉄道3本/道路2本のトンネルがある。
・秩父「武甲山」は石灰岩の産地で、高度成長期のセメント需要で山頂も削られた。
・安浦は40年前までは千葉県で最も面積が小さな町だったが、埋め立てにより面積が4倍になった。
・「明治神宮」は大正9年に創建された新しい神社である。ここは明治時代は「南豊島御料地」で、大半は畑であった。大正15年「神宮外苑」も完成すし、今は国立競技場/神宮球場/秩父宮ラグビー場になっている。
・江戸時代横須賀は一漁村であったが、明治時代海軍「鎮守府」になり発展する。明治22年中央の箱崎半島は人工水路により島になる。大正元年北にあった夏島は埋め立てられ、「追浜飛行場」になる。大正7年「第5船渠」昭和15年「第6船渠」が完成し、戦艦「陸奥」空母「信濃」などを建造する。横須賀は空襲を受けず、今は米軍基地として利用されている。「追浜飛行場」は日産の工場などになった。
○中部
・明治19年村上は武家町「村上本町」と町人町「村上町」になる。明治中頃で武家町と町人町に分かれていたのは、村上/花巻/加納(岐阜)くらいである。両町は昭和21年に合併する。※そんな町があったのか、知らなかった。
・昭和36年富山湾「放生津潟」は富山新港として開削が始まる。富山地方鉄道「射水線」は東西に分裂する。海側も埋め立てられ、「海王丸パーク」がある。※習ったと思うが、忘れてた。
・「加賀三湖」(木場潟、今江潟、柴山潟)はそれぞれ別の道を辿る。昭和27年「加賀三湖」の干拓事業が始まる。木場潟は公園として残るが、今江潟は完全に干拓され、柴山潟は北半分が干拓される。片山津温泉は柴山潟から涌いた温泉である。
・鉄道の開業当初は都市と港を結ぶものだった(東京~横浜、大阪~神戸、名古屋~武豊など)。明治15年日本海側で最初の敦賀~長浜間が開業する(長浜からは琵琶湖の水運を利用した)。「北陸本線」は敦賀より南の区間は深坂トンネル、北の区間は北陸トンネルにより、大幅にルートを変えた。
・富士山には富士宮口/須走口/河口湖口/吉田口/御殿場口などの登山口がある。昭和39年「富士スバルライン」昭和45年「富士スカイライン」が開通し、登山客が急増する。
・軽井沢は一旦廃れるが、明治19年英国宣教師により別荘地として見直される。明治26年軽井沢~横川間(中山道線、後の信越本線)が開通するが、平成9年長野新幹線開通により廃線になる。
・庄川は北流し富山湾に注ぐ河川である。昭和35年庄川に貯水量第4位の「御母衣ダム」が完成する。これにより秋町/尾神/海上/中野/赤谷などの集落が水没する。ダムは治水/利水/発電のメリットがあるが、住民の移転問題も生じる。
・名古屋は戦後速やかに復興計画を立案する。これにより「久屋大通」などの100m道路が建設される。
○近畿
・濃尾平野には「木曾三川」(木曽川、長良川、揖斐川)が流れ、しばしば洪水を起こし、江戸時代より河川改修が行われた。薩摩藩による宝暦治水は有名で、これが倒幕の要因とされる。熱田~桑名は東海道の「七里の渡し」だが、旅人の多くは佐屋(愛西市)から桑名に渡る「三里の渡し」を利用した。
・琵琶湖の面積は第2位「霞ヶ浦」の4倍もある。琵琶湖には多くの内湖があったが干拓された。安土城は「小中の湖」「大中の湖」「西の湖」に囲まれていたが、「小中の湖」「大中の湖」は干拓される。※安土城は水運に便利な場所にあった。
・京都の南に「巨椋池」があったが、昭和8年~16年干拓により農地になる。
・昭和6年鉄筋鉄骨コンクリート製の「大坂城」天守閣が完成する。戦時中天守閣は通信隊が使用し、三の丸は城東練兵場/大阪砲兵工廠などになった。
・神戸は開港により発展するが、昭和初期神戸の東側は芦屋/魚崎/御影などが点在するだけだった。「六甲山地」を削り「ポートアイランド」を埋め立て、昭和56年地方博覧会「ポートピア'81」を開催する。さらに「六甲アイランド」を埋め立てる。しかし平成7年阪神淡路大震災で液状化し、ライフラインは寸断される。
・「丹波市」(たんばいち)は「上ツ道」の宿場で、桜井線に「丹波市駅」があった。「丹波市駅」は近鉄と統合され「天理駅」になる。昭和28年以降「天理教」の施設(本部、大学、相談所、詰所など)は拡大している。
・昭和初期、和歌山市街は海岸に達しておらず、海岸部には雑賀崎/和歌浦/片男波など景勝地があった。今は雑賀崎までの海岸は埋め立てられ、昔の面影はない。
○中国/四国
・面積5位「中海」の干拓が、昭和43年始まる。昭和55年締め切り堤防が完成するが干拓事業は中止になり、堤防の一部は撤去され、海水が流入している。
・昭和53年「児島~坂出ルート」の「瀬戸大橋」が着工され、昭和64年開通する。櫃石島/岩黒島/羽佐島/与島/三つ子島などは「瀬戸大橋」の橋脚/橋台になった。
・広島は日清戦争時大本営が置かれ、日本軍の栄光を象徴する都市であったが、原子爆弾の投下で被害を受ける。今は100m幅の「平和大通」など復興している。
・下関は「山陽本線」の終点で、大陸に渡る「関釜連絡船」が就航していた。昭和17年世界初の「関門トンネル」が開通する。今はトンネル3本(鉄道、新幹線、国道)と自動車専用道の「関門橋」がある。
・「吉野川」はかつては平野の中央部を流れていた。1672年徳島藩主は「吉野川」と南に流れる「別宮川」を水路で結ぶ。その後「別宮川」への流量が増え、こちらが「吉野川」になり、水量が減った旧路は「旧吉野川」になる。「神戸~鳴門ルート」の「大鳴門橋」は単独で着工され、道路鉄道併用橋である。一方の「明石海峡大橋」は道路単独橋である。
・「別子銅山」は1690年鉱脈が発見され、昭和48年閉山まで銅を産出した。「別子鉱山鉄道」は明治26年開通で、愛媛県で2番目に古い鉄道である。今は新居浜は住友系企業の企業城下町になっている。
・高知が鉄道で結ばれたのは昭和10年で全国で最も遅い。①国防上重視されなかった②四国山地が急峻がその理由である。
○九州/沖縄
・明治34年「洞海湾」に東洋最大の製鉄所が完成する。昭和13年には国内初の1千トン高炉が完成する。高度成長期になると戸畑の海岸を埋め立て、高炉を建設した。本来の「洞海湾」は埋め立てにより縮小し、海岸は埋め立てられ、「洞海湾」の中心はかつての海に移った。
・「有明海」は長年干拓され、その面積は260K㎡に達し、これは東京23区より広い。干拓地では稲と麦の二毛作が行われているが、「佐賀空港」も建設された。
・長崎県には端島(軍艦島)/高島があり、共に炭鉱がある。昭和40年頃に最盛期を迎える。しかし端島炭鉱は昭和49年、高島炭鉱は昭和61年に閉山になる。
・明治29年「九州鉄道」は博多~八代の路線を開通させる。昭和2年八代~川内~鹿児島が「鹿児島本線」になり、八代~人吉~鹿児島が「肥薩線」になる。平成16年九州新幹線開業により八代~川内は「肥薩おれんじ線」になる。
・「久大本線」は由布院で屈曲している。当初は南由布/北由布は通らない計画であったが、住民の誘致活動で変更になった(※やはりそうか)。「由布院町」は「湯平村」との合併で一旦「湯布院町」となるが、今は「由布院市」になっている。
・「美々津県」「都城県」が合併し宮崎県となる。しかし県庁所在地でもめ、県境の「上別府村」(後の宮崎市)が県庁所在地になる(※これは知らなかった)。その後宮崎市は新婚旅行地/リゾート地として発展する。
・「桜島」は大正3年の大噴火で陸続きとなる。この噴火により西側の横山、東側の有村/脇が溶岩で埋没する。鹿児島側の対岸には島津家別邸「仙厳園」がある。
・「嘉手納」には嘉手納/屋良/宇久田/野里の集落が存在していたが、昭和19年陸軍の飛行場が造られる。戦後米軍基地が建設され、昭和23年基地の北部が「嘉手納村」として「北谷村」から分離する。返還後37年経つが、「嘉手納町」の83%を米軍基地が占めている。