『琉球王国がわかる!』吉成直樹を読書。
琉球王国の文化、信仰、歴史を解説しています。琉球王国は日本と中国の影響を強く受けた国です。
グスクは神聖な場所ですね。
お勧め度:☆☆(写真/系譜/年表があり、分かり易い)
キーワード:琉球王国、漆器/沈金/螺鈿、壺屋焼、紅型(びんがた)、絣/芭蕉布/八重山上布/久米島紬、紋織/首里織/読谷山花織/知花花織、琉装、御冠船踊/冊封使、民謡/古典音楽、組踊、自了/山口宗季/座間味庸晶、クスイムン/東道盆、泡盛、穴屋/貫木屋、おもろさうし、すうちゅうま、オナリ信仰/神女、御嶽信仰/御嶽(うたき)/斎場御嶽、門中/今帰仁上り/東御廻り、仏教/神道、シーサー、ユタ、開闢七御嶽、貝塚時代、グスク時代、舜天、英祖/浦添グスク、察度/冊封・朝貢体制、三山時代、第1尚氏王統、第2尚氏王統/尚真、首里城、島津侵攻、江戸上り、琉球処分
<はじめに>
・「首里城」は明治12年(1879年)最後の王が出るまで、琉球王国(以下琉球)の中心であった。
・「ヤンバル」(山原)は沖縄本島の北部を指す。ヤンバルクイナ/ノグチゲラ/ヤンバルテナガコガネなどが生息する。西表島にはイリオモテヤマネコ/セマルハコガメなどが生息する。
<伝統文化>
○工芸
・琉球の工芸品で最高傑作は「漆器」です。「漆器」には高い湿度/温度/紫外線が必要で、琉球はそれに適した場所です。「漆器」には「沈金」「螺鈿」などの装飾がされます。
・琉球では焼物を「やちむん」と云います。中国の白磁/南方の南蛮焼/朝鮮の焼物の影響を受け、琉球の焼物も発展する。琉球王府が窯場を壺屋に集めたため、「壺屋焼」が有名。
・琉球を代表する染物に「紅型」(びんがた)がある。技法には型紙と手書きがある。模様は中国風または日本風である。
・琉球の織物は多彩である。「絣」(かすり)は幾何学模様で、芭蕉布/八重山上布/久米島紬がある。「紋織」は糸を浮かせ模様を作り、首里織/読谷山花織/知花花織がある。
・琉球には身分によって服装の規定があった(琉装)。
○芸術
・琉球の舞踊の源流は「御冠船踊」とされる。「御冠船踊」は中国から王冠を携えて来る「冊封使」をもてなす舞踊で、老人踊/若衆踊/女踊/組踊があった。琉球王府は「踊奉行」で準備した。
・琉球の「冊封・朝貢貿易」は1372年中山王察度から始まる。「冊封使」は約400人が半年以上滞在した。もてなす宴は7回開かれた(冊封七宴)。
・1719年琉球を訪れた冊封副使が書いた『中山伝言録』は、当時に琉球を知る貴重な資料になっている。
・琉球の音楽には民衆に親しまれた「民謡」と宮廷音楽の「古典音楽」がある。「民謡」は五音音階である。一方の「古典音楽」は歌と三線が必ずセットになる。
・「組踊」は琉球芸能の集大成で、「踊奉行」玉城朝薫が作った『二童敵討』『執心鐘入』などが有名。
・美術/工芸は琉球王府の「貝摺奉行所」が担当した。
・城間清豊(自了)(1614~44)の絵は冊封使や狩野派からも称賛された。山口宗季(1672~1743)は福建省福州で学び、近衛家の『花鳥図』を描いた。山口宗季の弟子座間味庸晶(1718~67)も花鳥画/山水画を描いた。
○食文化
・琉球料理は豚肉を使った料理やゴーヤーの炒め物が有名である。
・「クスイムン」は”薬になる食べ物”の意味で、ウミヘビ料理/山羊料理などがある。冊封使をもてなした「東道盆」もある。
・「泡盛」は福建省福州から伝わったとされる。「泡盛」と呼ばれるのは明治以降で、それまでは「サキ」であった。
○住居
・庶民は「穴屋」と呼ばれる掘立小屋形式の住居に住んでいた。明治22年(1889年)「建築制限令」が解除され、自由になる。
・士族は瓦葺きの「貫木屋」に住んだ。「貫木屋」には玄関がなく、門の正面に「ヒンプン」を置いた。庭には家畜小屋/豚小屋を置いた。
○文学
・『おもろさうし』は400年前に編纂され、創世神話/勇者/戦争/風景などが収められている。
・「琉歌」は8-8-8-6形式で詠まれる。代表する女流歌人に恩納ナビー/吉屋チルーがいる。
・琉球には数字を表す独自の文字「すうちゅうま」があった。
・琉球語は日本語と体系は同じだが、「あいういう」の3音であった。琉球語は沖縄本島以北の「北琉球方言」と宮古島以南の「南琉球方言」に大別される。
<信仰>
○要約
・琉球信仰は「異界信仰」「太陽信仰」「御嶽信仰」「オナリ信仰」が中心である。
・「異界信仰」では、全てのものは「ニライカナイ」から来るとされた。王は「太陽の子」とされた(太陽信仰)。神が降臨する場所が「御嶽」で、「グスク」は「御嶽」を囲むように作られた。「聞得大君」が筆頭の「神女」が祭事を行った。女性は霊力を持ち、姉妹(おなり)が兄弟を守るとされた(オナリ信仰)。※日本のヒメヒコ制みたい。
○オナリ信仰
・男性が航海に出る時、女性はお守り(手拭、髪の毛)を持たせた(オナリ信仰)。琉球王国の祭事も「オナリ信仰」が基本になっている。「第2尚氏王統」第3代尚真王が「神女組織」を確立した。
・久高島は聖域とされた。「神女」は聞得大君/君々(三十三君)/大阿母/ノロのピラミッド型である。
○御嶽信仰
・普通集落の一番高い場所に”祖先神がいます所”「御嶽」(うたき)が作られ、そこを中心に集落が形成された。
・「斎場御嶽」は琉球で最高の聖地。国王は「斎場御嶽」に行幸し、「聞得大君」の就任式もそこで行われた。「斎場御嶽」には大庫理/三庫理/三角岩がある。
・琉球には祖先崇拝があり父系親族「門中」で様々な行事を行う。墓は「亀甲墓」である。
・「今帰仁上り」は北山の拝所(御嶽、ノロ殿内、墓など)17か所を巡拝する門中行事である。
・「東御廻り」は大里/佐敷/知念/玉城の拝所(御嶽、グスクなど)20か所を巡拝する門中行事である。
○その他の信仰
・マブイ/すで水/訪れ神/媽祖信仰などの信仰がある。
・琉球に仏教が伝わったのは13世紀半ばとされる。その後15世紀半ば、「第1尚氏王統」第6代尚泰久王の時、各地に寺院が建てられる。当時は「権現信仰」で神社が併設された。仏教/神道を信仰したのは王族/士族で、庶民は「御嶽信仰」であった。
・「シーサー」は対で、口を開けた雌シーサーが福を招き、口を閉じた雄シーサーが災厄を祓う。
・「ノロ」は公的な祭祀を司るが、「ユタ」は霊媒師(シャーマン)として私的な問題に対処した。
<歴史>
○創世神話
・琉球は女神「アマミキヨ」と男神「シネリキヨ」が造ったとされ、女神「アマミキヨ」は「開闢七御嶽」を造った。
・「貝塚時代」(7千年前~12世紀中)は採集/狩猟を営み、イモガイ/ゴホウラ/ヤコガイなどの「貝貿易」をしていた。
○グスク時代
・農耕が始まると、聖域が城塞化し「グスク」となり、「グスク時代」になる。鉄器は農具ではなく、武器として使用された。
・1187年浦添按司の「舜天」が王位に就く。しかし「舜天王統」は飢饉/疫病から3代で滅びる。
・1260年伊祖グスクの「英祖」が王位に就き、浦添グスクを居城とする。「英祖」は飢饉/疫病を鎮め、法を整備した。
・「英祖王統」第4代玉城王の時、琉球は北山/中山/南山の3国(実際は4国)に分かれる(三山時代、1322~1429年)。
・1350年「英祖王統」が5代で滅びると、「察度」が中山王に就く(察度王統、1350~1406年)。1372年明洪武帝の命令で「冊封・朝貢体制」が始まる。大交易時代になり、那覇は中国/東南アジアとの貿易で栄える。
○琉球王国
・1406年佐敷上グスクの思紹/尚巴志親子は「察度王統」を滅ぼし中山王に就く(第1尚氏王統、1406~69年)。尚巴志は1416年北山王、1429年南山王を滅ぼし、琉球を初めて統一する。
・「第1尚氏王統」は各地の按司が勢力を持ち、1458年護佐丸/阿麻和利が乱を起こした。
・1470年クーデターにより尚円が王位に就く(第2尚氏王統、1470~1879年)。第3代尚真王は「神女組織」を確立するなど統治体制を整備した。また1500年八重山、1506年久米島と領土を拡大した。
・「首里城」には3つの顔がある。①琉球国王の居城②琉球王府があった③神女による祭事の場。
・1609年薩摩軍が琉球に侵攻し、奄美黄島/徳之島/沖縄本島を制圧する(島津侵攻)。これにより奄美諸島は薩摩藩が直接支配、沖縄本島以南は薩摩藩が間接支配する。
・薩摩藩は琉球から年貢を徴収したが、その後銀納になる。徳川将軍の代替わりや琉球国王の代替わりに江戸に使節を送った(江戸上り)。明との「冊封・朝貢貿易」は、2年1回が10年1回に減じられる。
・1872年(明治5年)琉球王国は琉球藩になり、1879年(明治12年)沖縄県となる(琉球処分)。「琉球処分」は日本と清で問題となったが、1894年「日清戦争」により日本領になる。