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『古都トレド 異教徒・異民族共存の街』芝修身を読書。

中世スペインではキリスト教国がレコンキスタ(国土回復運動)でイスラムをイベリア半島から追い出します。
レコンキスタの最前線となったカスティーリャ王国(後のスペイン王国)の首都トレドを解説しています。

トレドでは高度の文化を持つイスラム教徒、有能なユダヤ教徒、新勢力のキリスト教徒が共存しました。

スペイン/ポルトガルと云えば、大航海しか興味がなかったが、この話は大変惹かれる内容でした。

お勧め度:☆☆☆

キーワード:トレド、タイファ、カスティーリャ王国/アルフォンソ6世、イスラム教徒/ムデハル、クリュニー僧、ユダヤ教徒、キリスト教徒/モサラベ、入植/フエロ、アルモラビデ(マラービト朝)/アルモアーデ(ムワッヒド朝)、翻訳、アルフォンソ7世、ゲラルド、ペドロ・アルフォンソ/アデラート、アラビア語、ムデハル様式、カスティーリャ語(スペイン語)、名前/あだ名、絨毯/マットレス、服装、公衆浴場、レコンキスタ、トレド大司教ロドリゴ、アルフォンソ10世/賢王/七部法典、共存、コンベルソ

<はじめに>
・欧州ではローマ帝国が多神教を捨てキリスト教に移行して以来、他宗教(ユダヤ教、イスラム教)への差別が始まった。この傾向は特にフランスで強かった。
・本書はイベリア半島の中央に位置し、イスラムから奪還後、宮廷/大司教座が置かれたトレドの12~13世紀を解説します。

<11世紀のイベリア半島>
・イベリア半島はコルドバを首都とする後ウマイヤ朝(756~1031年)が支配していた。1031年後ウマイヤ朝は小国(タイファ)に分裂する(タイファ時代、1031~90年)。
・文化面では劣るが軍事力に勝るカスティーリャ王国(以下カスティーリャ)は、タイファ諸国への遠征を始める。

<トレドの奪還>
○重要性と奪還の意味
・トレドはイスラム侵入以前は西ゴート王国(415~711年)の首都であった。
・1085年カスティーリャ国王アルフォンソ6世(位1072~1109年)がトレドを奪還する。カスティーリャはスペイン王国の祖となる。

○奪還時の状況
・奪還は籠城戦でなされ、その条件は寛容であった。税制は維持され、イスラム教のメスキータ(モスク)も維持され、イスラム教徒の市街への移住も自由であった。
※その後を考えると、無血開城で良かった。

・トレドに居住していた多くのイスラム教徒は、奪還前に脱出した。キリスト教の支配地に留まったイスラム教徒を「ムデハル」と云う。彼らの中にはキリスト教に改宗し、国王に仕える者もいた。
・フランスから来た「クリュニー僧」は国王の融和政策に反対し、イスラム教の大メスキータをカテドラル(大聖堂)に変えた。

・イスラム時代はユダヤ教徒は「啓典の民」として自由が保障されていた。トレド奪還時ユダヤ教徒は4千人いたとされ、そのままユダヤ人街に留まった。

・イスラム時代でもキリスト教を信仰し続けた人を「モサラベ」と云う。トレド奪還時「モサラベ」は5千人いた。「クリュニー僧」ベルナールが初代トレド大司教に就いた。彼らはローマ式典礼を行ったため、西ゴート式典礼を行う「モサラベ」と対立した。
・フランク人のキリスト教徒、さらに北アフリカのアルモアーデ(ムワッヒド朝、後述)から逃れてきたキリスト教徒(新モサラベ)がトレドに入植した。

<国王の政策>
○対キリスト教徒
・国王アルフォンソ6世は入植者に「フエロ」(入植特権)を与えて統治した。入植者には2種類あり、家族を同伴する者は「市民」、同伴しない者は「滞在者」となった。「市民」には納税義務があるが、諸権利を認められ、トレド社会の中核になった。

・「モサラベ」には西ゴート時代の権利を保障する「フエロ」を与えた。納税はイスラム時代の1/10税を維持した。国王が「モサラベ」を丁重に扱ったのは、人口も多く、農業技術に長けていたからである。
・「クリュニー僧」などのフランク人も入植する。入植した「クリュニー僧」はトレド宗教界を支配する。

○対異教徒
・国王は「2宗教の皇帝」を宣言する。国王の他宗教への寛容は400年前にイスラムが取ったと政策と同じです。これは国王がイスラム文化のレベルが高い事を知っており、かつ自分のイベリア半島での政治的正当性を示すためであった。
・国王はトレド周辺の荒廃した「ムデハル」農民に10万ディナールを与えた。

・ユダヤ教徒は知性が高く、アラビア語を話し、アンダルス(イベリア半島のイスラム支配地)を熟知していたため、国王は彼らを要職に就けた。ローマ教皇はこれに反対したが、国王は登用し続けた。
・ユダヤ教徒の多くは農業に従事したが、入植においては国王もトレド大司教もキリスト教徒/ユダヤ教徒を平等に扱った。
・ユダヤ教徒は商業や手工業にも携わった。ユダヤ教徒が多方面で活動できたのは、その教養の高さにあった。

<国際都市トレド(12世紀)>
○国境の状況(アンダルス)
・1090年北アフリカのアルモラビデ(マラービト朝、1040~1147年)がアンダルス(イベリア半島のイスラム支配地)のタイファ諸国を併合し、カスティーリャを脅かします。
・1147年アルモラビデはアルモアーデ(ムワッヒド朝、1130~1269年)に滅ぼされ、アンダルスは再びタイファに分裂します(第2次タイファ時代、1147~70年?)。
・1172年アルモアーデはタイファ諸国を併合し、矛先をカスティーリャに向けます。

・宗教上厳格なアルモアーデはアンダルスに居住する「モサラベ」/ユダヤ教徒を迫害したため、彼らはキリスト教国に移住します。
・アンダルスでは戦闘もありましたが、経済/文化の交流は続きました。

○異教徒間の交流
・トレドは西のコルドバ(アルモラビデの副都)/セビーリャ(アルモアーデの副都)、東のサラゴサ(アラゴン王国の首都)に通じる大動脈の結節点で、商業の中心でした。トレドではイスラムの金貨/銀貨が流入し、貨幣経済が発展しました。

・13世紀まではイスラム軍が軍事的に有利で、イスラムは多くのキリスト教騎士を雇った。14世紀以降は形勢が逆転し、キリスト教国がイスラム騎士を雇った。この様にイベリア半島では宗教の壁はなかった。イスラムとの協力にローマ教皇やトレド大司教は破門の脅しを掛けたが、効果はなかった。
・アンダルスでは貴重品/人/家畜などあらゆる物資が掠奪され、市場で流通した。

・トレドではイスラム時代の制度/組織/慣習が維持されていた。住居はユダヤ教徒を除いて混住していた。スーク(市場)ではアラビア語が話された。結婚式/葬儀への出席でも宗教の壁はなかった。
・トレド以南は軍事上重要で、入植条件が好条件のため騎士修道会や「ムデハル」が入植した。

○翻訳活動
・トレドではアラビア/ペルシャ/ギリシャの自然科学/哲学の諸作品が翻訳された。
・イスラムは7世紀から征服活動を行ったが、彼らの立派な点は、掠奪だけでなく征服地の高度な文化/文明を吸収した点である。後ウマイヤ朝(756~1031年)でも学術が重んじられ、ギリシャ/イスラムの原典が蓄積されていた。

・キリスト教国のカタルーニャ(フランスのイスパニア辺境伯)/サラゴサなどで天文学/クルアーンなどが翻訳された。クリューニー修道院長ピエールはイスラム百科『トレド集成』を完成させた。※カタルーニャが出て来た。

・タイファ時代のトレドには天文学者ザルカーリーがいて、世界で一番正確な天文表『トレド表』を作っていた。
・トレドでは1130年代から国王アルフォンソ7世(位1126~57年)/大司教ライムンド(位1125~52年)が翻訳活動を始める。

・イタリア人「ゲラルド」はトレドに来て、古代天文学の大成者プトレマイオスの『アルマゲスト』をラテン語に翻訳する。さらにギリシャ原典(ユークリッド、アリストテレス、アルキメデスなど)や哲学/科学/数学/医学に関するアラビア文献(ファリズミ、キンディー、ファーラービーなど)を100冊近くをラテン語に翻訳した。これにより西欧に古代ギリシャ/アラビア学術の門戸が開かれた。

・英国人ペドロ・アルフォンソは英国王にアラビア科学の水準の高さを説明した。弟子のアデラートはファリズミ『天文表』/ユークリッド『幾何学原論』などを翻訳し、英国科学の起源になった。
・英国人ダニエル・モーリーはトレドに来て、「ゲラルド」の下で医学/天文学/錬金術/数学/哲学/倫理学のアラビア文献をラテン語に翻訳した。帰国に際し、多数の文献を英国に持帰った。

・彼らは大司教ライムンド/大司教ファン(位1152~66年)の参事会員として活動したと思われる。翻訳には知性が高く、アラビア語を理解したユダヤ教徒が携わった。

<アラビア文化の横溢>
○アラビア語
・トレドでは日常はアラビア語で話され、公的書類もアラビア語で書かれた。
・「モサラベ」のイジャーン・ペレスは重要職に就き、その子孫は伯爵/公爵になる。聖界でも1280年からは3代に亘って「モサラベ」が大司教に就く。
・ユダヤ教徒も入植してきたカスティーリャ人/フランク人もアラビア語を使用した。13世紀になり使用言語がアラビア語からカスティーリャ語(スペイン語)に変わった。

○ムデハル様式
・11~12世紀欧州の建築/美術様式は「ロマネスク様式」であった。フランスの辺境伯であったカタルーニャは「ロマネスク様式」を受け入れたが、カスティーリャはイスラム様式の「ムデハル様式」であった。

・「ムデハル様式」と云われるが、それを普及させたのは「モサラベ」であった。「モサラベ」はイスラム様式の建造物をキリスト教会に改修した。※写真と共に解説しているが、詳細省略。
・トレドのユダヤ教徒も11のシナゴーグを持っていたが、これらも「ムデハル様式」である。

○習慣と制度
・カスティーリャ語はラテン語とアラビア語の影響を強く受けた。カスティーリャ語にはアラビア語が起源の言葉(地名を含む)が4千語以上ある。
・カスティーリャ語の多くの分野(軍事用語、農業用語、手工業用語、通商関係、度量衡、貨幣、制度、住居、科学など)にアラビア語が取り込まれた。「アルカリ」「アルコール」などもアラビア語である。※分野別に多くの言葉を紹介しているが省略。
・これはイスラムが軍事/農業/商業/制度/科学などで優位だった事を示している。

・イベリア半島の地名の起源は、大半がローマ時代だが、イスラム時代の地名もある。「マドリー」(マドリード、スペイン首都)は後ウマイヤ朝ムハンマド1世が建設した。カスティーリャ北部には「メディーナ」で始まる地名が多いが、これはアラビア語の要塞(マディーナ)を意味する。「アルガルベ」はアラビア語で西風を意味する。※他にも沢山紹介しているが省略。

・「モサラベ」の名前を調べると、トレド奪還後の第1世代(1091年~)では59%、第2世代(1111年~)では45%、第3世代(1131年~)では25%、第4世代(1151年~)では5%がアラブ名を持ち、次第にカスティーリャ名に変わる。中にはアラブ名とカスティーリャ名を使用する人もいた。
・一方「モサラベ」のあだ名を調べると、カスティーリャ名:アラブ名は1151~70年では1:1.9であったが、1191~1250年では1:0.8、1251~70年では1:0.53と緩やかではあるがアラブ名が減少する。

・イスラムでは文章の冒頭を「神の名において」で始め、文末を「神に栄光を」で締めるが、トレドの文章でもこの表現形式が見られた。

・トレド奪還後も「モサラベ」/ユダヤ教徒はイスラム時代の生活様式を続けた。西欧ではテーブル/椅子/ベッドの生活をしていたが、イスラムでは木材が貴重なため絨毯/マットレスの生活をしていた。
・イスラムでは服装はステータスシンボルで、衣服を扱う職業は高貴とされた。イスラムでは身体の輪郭を隠すのが基本で、地位の高い人ほどそうした。※そうなんだ。
・イスラムでは公衆浴場は重要で、イベリア半島でもその習慣が残った。

<レコンキスタ(13世紀)>
○レコンキスタ
・12世紀はキリスト教国とイスラムは均衡していたが、1212年アルフォンソ8世(位1158~1214年)は、ナバス戦でアルモアーデ(ムワッヒド朝、1030~1269年)に初めて勝利する。

・フェルナンド3世(位1217~52年)が王位に就くと、1236年コルドバ、1248年セビーリャを陥落させる。これにより臣下となったグラナダ王国を除き、「レコンキスタ」は事実上終了する。
・フェルナンド3世の統治も宗教に寛容で、「レコンキスタ」はイスラムの駆逐でない事が分かる。トレドには軍隊が集結し、補給基地になるが、翻訳などの文化活動は続けられた。

○トレド大司教
・トレド大司教ロドリゴ(位1209~47年)は1215年第4回ラテラノ公会議に出席する。1226年「ゴシック様式」のカテドラールの建設に着手する。彼は幼少のフェルナンド3世を補佐するなど、政治にも深く関わった。

・大司教ロドリゴは『ゴート史』『アラビア史』を著した。また参事会員マルコス・デ・トレドにクルアーンと『マフディ』(善導された者、新アリストテレス主義)の翻訳を要請する。新アリストテレス主義はラテン世界とユダヤ教徒に多大な影響を与えた。※新アリストテレス主義?
・スコットランド人のミゲール・スコットは『動物の身体』『霊魂について』をラテン語に翻訳した。

○アルフォンソ10世
・アルフォンソ10世(賢王、位1252~1284年)は『七部法典』や歴史書を作成する。彼は世界で最も重要な立法者である。※知らなかった。
・彼は自身がイベリア半島の覇者である事を正当化する年代記『第一総合年代記』を作成している。また重厚な歴史書『大世界史』(未完)も作成している。

・翻訳活動では1254年トレド/セビーリャにラテン語/アラビア語を研究する学校を設立する。またラテン語ではなくカスティーリャ語への翻訳も行った。
・彼は天文学に強い関心を持ち、プトレマイオスの文献などを多く翻訳した。天文表では『トレド表』を基に『アルフォンソ表』を作成した。これはコペルニクスが地動説を唱えるまで、天文学の権威であった。

・『サンタ・マリア賛歌』には400以上の抒情詩/物語詩が記された。本書は文学/音楽/絵画/芸術/歴史の総合芸術書である。当時はマリア信仰が盛んであった。

・翻訳には知性が高く、アラビア語を理解したユダヤ教徒が当たった。
・中世の文語体はラテン語であったが、敢えて生活用語であったカスティーリャ語に翻訳させた。それは①ユダヤ教徒がラテン語を完全に理解していない②ラテン語に訳すと聖職者の確認が必要、が理由であった。さらにカスティーリャの文化レベルが低く、カスティーリャ語を高度化/国語化する意図があったと思われる。

・カスティーリャの各地に様々な「フエロ」(入植特権)があり、王国統一の法体系を確立するため『七部法典』を作成する。しかしこれが発布されるのは彼の死後1348年であった。
・彼は近世国家の基礎を築き、また文化事業(法律、歴史、音楽、詩、科学、言語、芸術、建築など)を行った欧州でも稀な君主であり、「賢王」と呼ばれた。

・ユダヤ教徒の排斥が公式に決まったのは、1215年第4回ラテラノ公会議である。会議に出席したトレド大司教ロドリゴは帰国すると、「ユダヤ教徒を守る」と約束した。カスティーリャ国王もローマ教皇の催促を聞き流した。これはトレド大司教もカスティーリャ国王もユダヤ教徒を重用していた事による。
・一方「ムデハル」は1264年反乱を起こし、アルフォンソ10世は彼らを追放している。

<結論>
○共存
・トレドの3教徒は何れの場所(農村、手工業、取引、スーク、居住区)でも共存していた。トレド奪還後もカスティーリャ国王は異教徒に寛容であった。
・トレド大司教は初代から4代まではクリュニー僧が就き、初代トレド大司教ベルナールは大メスキータをカテドラールに転換するが、彼らは異教徒を排斥しなかった。続く「モサラベ」の大司教も異教徒に寛容であった。

・中世の国境は固定化されたものではなく、軍の力関係で移動した。国境を越えての人/物/文化/技術の移動も容易であった。
・フランク人などの欧州人は異教徒に接した事がなく、イベリア半島に来ると異教徒に蛮行を働いた。

・カスティーリャ国王とフランス国王では宗教観が異なった。カスティーリャ国王フェルナンド3世は大学に神学部を作らなかった。同様にカスティーリャ国王アルフォンソ10世は『七部法典』を作成した様に、法学には関心があったが、神学には関心がなかった。一方フランス国王ルイ9世(聖ルイ、位1226~70年)は聖遺物を珍重し、十字軍遠征にも熱心であった。

・「モサラベ」は人口も多く、トレドで重要な存在であった。1264年アンダルスで「ムデハル」の反乱が起こったが、もし「モサラベ」がアンダルスに残っていれば、この反乱は防げただろう。
・以上の様にカスティーリャでは、1085年トレド奪還から1284年アルフォンソ10世死去まで200年間も異教徒が共存した。

<エピローグ>
・14世紀になると欧州は危機に覆われる。1350年カスティーリャ国王アルフォンソ11世は黒死病で死去する。1369年次の国王ペドロ1世は弟で反ユダヤ主義のエンリケ2世と王位を争い戦死する。カスティーリャは内乱により経済が混乱する。

・1391年トレドでポグロム(大虐殺)が発生し、ユダヤ教徒は殺戮され、シナゴーグは破壊された。ユダヤ教徒の多くはキリスト教に改宗した(コンベルソ)。
・1449年キリスト教徒は新キリスト教徒(コンベルソ)に対し暴動を起こす。

・しかし今日でもフランスは反ユダヤ/反イスラムが強いが、スペインは寛容と云える。

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