『徳川将軍家と広島藩浅野家-大奥から大名家へのお輿入れ』森本幾子を受講。
天保4年(1833年)広島藩9代藩主浅野斉粛に将軍徳川家斉の娘「末姫」がお輿入れしました。その詳細を聞きました。
藩はお輿入れに多大な費用を使っています。天保4年は天保飢饉が始まった年で、財政的には大変だったと思います。
森本幾子氏は尾道市立大学の講師をされています。
キーワード:広島藩/浅野家、浅野斉粛、末姫、お輿入れ、入用、贈答品、二葉山御社(饒津神社)
<はじめに>
・浅野長政-長政の正室「やや」は豊臣秀吉の正室「ねね」の妹で、長政は五奉行首座になっています。
・浅野幸長(長政の長男)-1600年幸長は「関ケ原合戦」の軍功で紀州藩37万石に加増移封されます。
・浅野長晟(長政の次男、広島藩初代藩主)-1619年長晟は広島藩42万石に加増移封されます。以降廃藩置県(1871年)まで浅野家が広島藩を治めます。
・浅野光晟(長晟の次男、広島藩2代藩主)-長晟の正室は徳川家康の3女「振姫」で、光晟以降は松平性を名乗ります。1648年光晟は広島に「東照宮」を造営します。
・浅野家の上屋敷は桜田門の隣(霞ヶ関)にあり、徳川家と親密でした。※毛利家への警戒かな。
<末姫と浅野斉粛の婚礼>
○浅野斉粛
・浅野斉粛(なりたか)は広島藩9代藩主で、江戸時代後期(文化文政~天保)の藩主です。実権は執政年寄の関蔵人/今中大学が握っていました。両名は婚礼全般も取り仕切りました。
・藩の借財は過去最高額に達し、天保8年(1837年)大阪両替商の鴻池善右衛門から「用談慣行」を破棄されます。※「もう貸しません」だと思う。
○「末姫」のお輿入れ
・天保4年(1833年)「末姫(すえひめ)」は浅野斉粛にお輿入れします。「末姫」は11代将軍徳川家斉の24女です。
・正式な婚礼は「御輿入御婚礼」ですが、「末姫」の場合、経費節減のため「御引移御婚礼」としましたが、実際は異なりました。
・家斉の21女「溶姫(やすひめ)」は前田家にお輿入れしています。前田家の御門(東大の赤門)が赤いのは将軍の娘「溶姫」がお輿入れしたためです。
○婚礼に関わる入用
・藩は11万両を出費しました。その内「御住居御作事所普請」(末姫の住居の増築)に3.3万両を使っています(1両=12~13万円)。当時の藩の収入(年貢)は約42万両です。
・藩は将軍家に「お礼」(太刀、銀、巻物、綿など)をしています。「お礼」の献上先は公方(将軍家斉)/内府(次期将軍家慶)/大納言(前将軍家治)/御台(将軍正室)/御簾中(次期将軍正室)などです。
・藩から「末姫」に付けた藩士(用達、医師など)は38名で、708両/年の出費です。
・大奥から来た「幕府女中衆」(上臈年寄、年寄、中臈、小姓、祐筆など)は49名で、例えば上臈年寄/年寄には毎年、米20石/合力金30両/薪10束/炭6俵/湯之木10束/五菜銀124匁などを「宛行」しています。
○諸大名からの贈答品(嫁入り道具)
・57大名より「贈答品」を受けています。仙台藩-膳、岡山藩-膳、萩藩-膳/御行器具、鹿児島藩-縮緬幕、福岡藩-台子/屏風、鳥取藩-膳、和歌山藩-膳/貝桶/紅白綸子、尾張藩-厨子棚/屏風、水戸藩-書棚/台子、加賀藩-膳/貝桶、彦根藩-膳などです。
<末姫と斉粛の関係>
○「御早道」による情報交換
・上屋敷と広島間で月2回情報交換していました。「姫君様益御機嫌能」の常套句です。
○「御住居」(末姫)の権力
・「末姫」は武州穏田村の所領安堵を将軍(?)にお願いしています。
・12代藩主浅野長勲の回想録には、「斉粛が末姫を訪れる時は、待合で待たされた」「末姫に幕府女中衆が作った食事と、藩が作った食事を出していたが、藩が作った食事は口にしなかった」などが記されています。
<広島藩の文化事業>
・天保6年(1835年)浅野斉粛は明星院(浅野家の菩提寺)の敷地に二葉山御社(饒津神社)を造営します。二葉山御社の祭神は長政/やや/幸長/長晟/長勲です。二葉山御社の造営は斉粛の正当性をアピールするためと思われます。