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『世界を見た幕臣たち』榎本秋を読書。

幕末の開国により、幕府は欧米に7度使節を送っています。その概要を解説しています。
使節の目的は開港開市延期/産業支援/領土交渉など様々です。
使節には勝海舟/福沢諭吉/渋沢栄一など有名な人が多く参加しています。

お勧め度:☆☆

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○はじめに
・使節と云えば明治政府による岩倉遣欧米使節(1871年)が有名ですが、幕府も7度に亘って使節を送っています。

○漂流者
・豊臣秀吉/徳川家康らは貿易/技術を求め、最初はキリスト教を容認していたが、侵略を警戒し鎖国する。
・幕府は鎖国していましたが、四口(長崎、対馬、薩摩、松前)は開かれていました。よって幾らかは海外の情報を入手していました。
・洋学は当初、中国語に翻訳された漢書から学んでいたが、蘭語の研究が進み、前野良沢/杉田玄白らは直接蘭書から学ぶ。

・大黒屋光太夫(1751~1828年)は伊勢の船乗りであったが、1782年遭難に合い、アリューシャン列島に流れ着く。1792年ロシアの開国交渉のため根室に送られる。彼は帰国が叶い、江戸に住むが、幕府から役目をもらう事はなかった。

・ジョン万次郎(1827~98年)は土佐の漁師で、1841年鳥島に漂着し、米国の捕鯨船に救われる。3人はハワイに住むが、彼は米国に向かう。バーモント州で教育を受け、カリフォルニアの金山で働き、600ドル(数千万円)を稼ぐ。
・1851年彼はハワイに寄り、仲間と琉球に上陸する。薩摩/長崎を経由して土佐に戻る。薩摩では斉彬と懇意になり、土佐では英語教師になる。更に幕臣になり韮山代官江川太郎左衛門の下で翻訳などに従事する。万延遣米使節(1860年)では通訳として参加している。
※子供の頃、本で読んだ。

・浜田彦蔵(1837~97年)は船乗りで、1851年漂流し米国船に救われる。彼は帰化し、米国人となる。1859年日本の米国領事館に通訳として勤務する。彼は明治政府の「国立銀行条例」に関わったり、日本最初の新聞『海外新聞』を発行し、「新聞の父」と云われる。※この人は知らなかった。

○万延遣米使節(1860年2月~11月)
・1860年米軍艦ポーハタン号/幕府軍艦咸臨丸が出港します。目的は「日米修好通商条約」の批准書の交換です。
・鎖国を振り返ると、1825年「異国船打払令」(外国船を追い払う)、1842年「薪水給与令」(必要な物資のみ与える)、1853年「ペリー来航」となり、翌年「日米和親条約」を結びます。1858年大老井伊直弼の決断で、「日米修好通商条約」を結び、同様の条約を英国/仏国/オランダ/ロシアと結んでいます。

・正使/副使は外国奉行新見正興/村垣範正、監察は小栗忠順、その他の諸役17人、従者51人、賄い方6人、総勢77人となり、幕臣以外が14人含まれていた。
・荷物が増えたため咸臨丸が追加された。咸臨丸には軍艦奉行木村喜毅、艦長の勝義邦(海舟)など96人が乗船する。中津藩士の福沢諭吉(従者)も乗船した。日本人だけでは心配なので、米国海軍大尉ジョン・マーサー・ブルックなど11人も乗船する。

・ポーハタン号と咸臨丸は別ルートを取る。ポーハタン号は独立国であったハワイを経由しサンフランシスコに入港する。咸臨丸は直接サンフランシスコに向かうが、大変な難航海であった。

・使節はサンフランシスコでカルチャーショックを受ける。福沢諭吉『福翁自伝』には「ワシントンの子孫はどうなっている」と尋ねた/氷を知らないため吐いたりガリガリ噛んだ/火事の消火に驚いたなど枚挙に暇がない。
・サンフランシスコ滞在後、咸臨丸一行は帰国する。使節はパナマを経由し(まだ運河はなく、列車で横断)、首都ワシントンに向かう。

・ワシントンで大統領に謁見する。国務大臣と批准書を交換する。国賓のため公使の訪問を受けたり、造船所などを見学する。更にボルチモア/フィラデルフィア/ニューヨークを訪れ、造幣局などを見学する。
・帰路はナイアガラ号で喜望峰回りで帰国する。帰路に随伴した米国使節は、日本での粗末な対応に失望している。

・派遣中に「桜田門外の変」があり、井伊直弼が殺害される。彼は将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を次期将軍に定めたり、「修好通商条約」の反対者を処罰(安政の大獄)するなど強権を振るっていた。

・小栗忠順は日本初の株式会社の設立/ホテルの開設/郵便制度の提案/横須賀製鉄所の設立など多くの業績を残すが、「鳥羽伏見の戦い」後に非業の死を遂げる。
・勝海舟は「神戸海軍操練所」の開設/江戸無血開城などで活躍します。
・福沢諭吉はこの後、2度使節に参加します。明治政府には出仕せず、教育に努めます。

○コラム-上海派遣使節
・幕府は欧米だけでなく上海に4度使節を送っています。1862年貿易目的で商人などを同行させるが、利益は出せなかった。しかし上海の租界などの状況を確認できた。この使節に高杉晋作(長州)/五代友厚(薩摩)が潜り込んでいた。
・1864年第2次上海派遣使節が送られ、貿易は成功する。

・1865年第3次上海派遣使節は長州の調査/探索が目的となる。大村益次郎(村田蔵六)の武器購入が確認され、第2次長州征伐に繋がる。
・1867年第4次上海派遣使節の目的は不明である。

○文久遣欧使節(1862年1月~63年1月)
・開国により攘夷が吹き荒れ(1860年ヒュースケン殺害、1861年東禅寺襲撃など)、物価上昇で幕府への不信は高まっていた。幕府は「公武合体」し、朝廷の権威を利用するため、兵庫/大阪の開港開市延期などを目的とする使節を送ります。
・正使は勘定奉行竹内保徳、副使は松平康直となる。万延遣米使節(1860年)から6人が参加してます。この使節には福地源一郎(通詞)/福沢諭吉(通詞)/松木弘安(寺島宗則、医者)/市川渡(従者)なども参加しています。

・英国軍艦オーディン号に乗りスエズに着きます。当時はスエズ運河は工事中で、その後の幕府の使節は、いずれもスエズ運河を通航していない。英国に向かうか、仏国に向かうかで悶着があったが、マルセイユに向かう。
・当時は「第2帝政期」で、パリでナポレオン3世に謁見する。日本の評価が高まり、「ジャポニスム」(日本趣味)の萌芽となる。しかし外交交渉は進展しなかった。

・次にロンドンでヴィクトリア女王に謁見する。丁度「万国博覧会」が開かれており、使節はアームストロング砲/紡織機などに関心を持つ。万博には英国公使オールコックが手配した日本コーナー(623点展示)があった。外交交渉は仏国同様に進展しなかったが、オールコックが英国に帰国し、5年の開港開市延期が認められる。
・使節はロンドンの大英博物館/電信局やリヴァプール/バーミンガムなど各地を見学する。

・次にオランダを訪れるが、外交交渉は進展しなかった。次にプロイセンを訪れる。ウィルヘルム1世はその後宰相ビスマルクとドイツ帝国を建国する。

・次にロシアを訪れる。ロシアはクリミア戦争敗戦後で、アレクサンドル2世が大改革を行っていた。
・ロシアには日露辞書があり日本食が用意されていた。これは日本を密出国した橘耕斎(ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマト)による。橘は晩年、日本に帰国し余生を送る。※これは知らなかった。
・使節には開港開市延期と「ロシアとの領土交渉」の目的があった。千島については択捉島以南が日本領で確定するが、樺太については北緯50度での分割を提案するが合意に至らなかった。

・次にポルトガルを訪れ外交交渉する。その後スエズに向かい、往路と同じルートで帰国する。

・帰国すると送り出した老中安藤信正/久世広周は追放されており、政治総裁職松平慶永は使節に関心を示さなかった。
・使節の派遣中の文久2年1月「坂下門外の変」、4月「文久の改革」、8月「生麦事件」が起こる。帰国後には、文久3年5月「下関事件」、7月「薩英戦争」が起き、激動の時期であった。

・松木弘安(寺島宗則)は、1875年明治政府で「樺太千島交換条約」を締結する。福地源一郎は慶応遣英仏使節(1865年)/岩倉遣欧米使節(1871年)などにも参加している。後に『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の主筆になる。

○コラム-幕府による留学生の派遣
・最初の派遣はオランダで、造船/操船の習得を目的に14人を送った。オランダに注文した開陽丸を操船して帰国した。
・この派遣に榎本武揚も参加し、「長崎海軍伝習所」で頭角を表し、開陽丸の艦長になる。戊辰戦争では箱館戦争で戦う。明治政府に出仕し、外交/海軍で活躍する。

・他に1865年ロシアに6人、1866年英国に14人、1867年仏国に9人(後19人)が派遣されている。英国に留学した人は静岡学問所/東京大学などで教えている。仏国に留学した人は慶応遣欧使節(1867年)で解説する。

・幕府だけでなく諸藩も留学生(総勢約150人)を派遣していた。有名な人に井上馨(長州)/伊藤博文(長州)/高橋是清(仙台)がいる。
・高橋是清は滞在した家で小間使いとして扱われるようになる。これに反発し別の家に移るが、奴隷として売られていた。幕府が倒れると奴隷契約を破棄してもらい帰国する。※これは知らなかった。

○文久遣仏使節(1864年2月~8月)
・目的は攘夷を実証するための「横浜鎖港」であった。正使は攘夷主義で外国奉行池田長発、副使は外国奉行河津祐邦、総勢36人であった。この中に遣外使節の経験者はいなかった。
・使節はスエズを経由しマルセイユに上陸する。この頃には池田は開国主義に転じていた。パリでナポレオン3世に謁見し、動物園などを見学する。

・交渉は横浜鎖港どころか、逆に横浜港などの関税撤廃を要求される。交渉に日本を追放されたシーボルトが加わる事もあった。最終的には、「下関事件」の賠償/関税の減税などを約定する。これは使節が開国主義に転じていた事にもよる。

・帰国すると、将軍家茂は鎖国をアピールするため上洛していた。幕府は使節の上陸を許さず、蟄居/謹慎/閉門などに処す。関係国には約定破棄を通告する。これにより「四カ国艦隊砲撃事件」が起こる。事件後、仏国は英国との協調を止め、幕府に接近する。

・田辺太一は慶応遣欧使節(1867年)にも参加し、幕府消滅後は「沼津兵学校」で教え、岩倉遣欧米使節(1871年)にも参加している。益田孝は三井物産の初代社長になる。この使節には明治政府で活躍する人が多い。

○コラム-慶応遣英仏使節(1865~66年)
・小栗忠順が主導し、横須賀製鉄所の建設が目的で、正使は外国奉行の柴田剛中がなる。
・日本の課題は海軍の育成で、1855年「長崎海軍伝習所」、1864年「神戸海軍操練所」を設置する。この使節もその一貫であった。陸軍は歩兵/砲兵/騎兵の西洋式軍隊を整備する。

・フランスのツーロン/オルレアン/ブレストなどの造船所を見学する。
・購入した設備を積んで、帰国する。横須賀製鉄所はその年に起工され、その後ドックの開削も始まる。横須賀製鉄所は横須賀造船所になり、横須賀海軍工廠になった。

○慶応遣露使節(1866年11月~67年6月)
・文久遣欧使節(1862年)で双方が樺太に使節を送る覚書に調印していたが、日本は送らず、ロシアが樺太の実効支配を進めていた。
・正使に外国奉行/箱館奉行の小出秀美、監察に石川利政が就き、総勢16人となる。長崎の庄屋に生まれ、ロシア語を覚え、話すだけでなく書く事もできる志賀親朋も参加する。

・通常のスエズ経由でパリに入り、ロシアの首都ペテルブルグに向かう。
・交渉では日本は妥協案の北緯48度での分割を掲示するが、ロシアは全樺太の領有を掲示する。結局今回も棚上げとなる。
・その後領土問題は、1875年外務卿寺島宗則は特命全権公使榎本武揚をロシアに送り、「樺太千島交換条約」を結ぶ。1905年「日露戦争」により、日本は南樺太を獲得する。

・志賀親朋は1875年「樺太千島交換条約」締結に活躍する。

○コラム-慶応遣米使節(1867年)
・正使は万延遣米使節(1360年)で測量方として参加した小野友五郎であった。目的は軍艦の調達であった。
・使節はアナポリスなどで海軍/陸軍/教育などの施設を見学する。軍艦「ストーンウォール号」を購入するが、明治維新により明治政府の所有になる。
・福沢諭吉は3度目で最後の遣外使節になる。小野は福沢の素行に憤慨し、仲違いしたとされる。

○慶応遣欧使節(1867年2月~68年12月)
・使節の目的はパリ万博の出展と徳川昭武の留学であった。正使は昭武で、薩摩藩/佐賀藩や商人清水卯三郎も参加する。
・出展品は使節とは別の船で送られた。使節は通常のスエズ経由でマルセイユに上陸し、パリに入り、ナポレオン3世に謁見する。昼は博物館/寺院/裁判所/下水道などを見学、夜は観劇/舞踏会など多忙であった。

・薩摩藩はモンブラン伯爵と組んで「薩摩琉球国」として別に展示する。
・幕府は漆器/衣服/陶器/日本画/和紙などを展示したが、大成功であった。特に芸者が侍る茶店が人気で、売上げは会場での5万7千フランを上回り、6万5千フランを稼いだ。※外国人は着物好きかな。
・万博では軽業/手品/こま回し/獅子舞をする「帝国日本芸人一座」が公演を行っている。

・使節の資金が尽きる。視察中止の命令書を携えた栗本錕(鋤雲)らと合流する。視察は少人数となり、スイス/オランダ/ベルギー/イタリア/英国を見学する。
・視察も終わり、昭武と3人の小姓などが留学生活を始める。彼は週23時間のフランス語、週5時間の馬術などを授かる。

・昭武の下に大政奉還/鳥羽伏見の戦いが伝わる。江戸開城は抗戦派小栗忠順と恭順派勝海舟(共に万延遣米使節に参加)が対立する。昭武は水戸藩主に就くため帰国する。
・渋沢栄一(勘定方)は明治政府に出仕するが、民間に下って500に及ぶ事業を起こし、「近代産業育成の父」と云われる。※「東の渋沢、西の五代」と称されている。

○岩倉遣欧米使節(1871~73年)
・明治4年(1871年)に出発する。目的は不平等条約の改正であった。正使は岩倉具視、副使は木戸孝允/大久保利通/伊藤博文/山口尚芳であった。これは老中/若年寄などを含まなかった幕府と対照的である。総勢46人の内13人が元幕臣で、田辺太一/福地源一郎らが参加している。

・明治政府は元幕臣を必要としていた。明治政府に旗本御家人5千人が出仕している。明治10年では政府に5,250人の役人がいたが、内1,755人は旧幕臣であった。

・静岡藩には国学/漢学/洋学を教える最先端の「静岡学問所」があった。オランダ留学の経験がある津田真一郎(真道)などが教えた。
・静岡藩にはフランス式の調練をする「沼津兵学校」があった。明治政府は陸軍をフランス式にしたため、ここの教員は多忙であった。頭取の西周はオランダ留学の経験があった。
・静岡藩から明治政府に渋沢栄一/前島密/津田真一郎/西周が出仕している。

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