『スロヴェニア』ジョルジュ・カステラン/アントニア・ベルナール(2000年)を読書。
スロヴェニアの歴史/文化を解説。
第1次世界大戦末(1918年)ユーゴスラヴィア王国が独立し、スロヴェニアはその一部になります。
第2次世界大戦後(1945年)社会主義のユーゴスラヴィア連邦人民共和国が建国されます。
1991年ユーゴスラヴィアからスロヴェニア共和国が独立します。
スロヴェニアの独立はスロヴェニア語が源泉になっています。
スロヴェニアは「スラヴ」を、ユーゴスラヴィアは「南スラヴ」を意味します。
地域名/都市名が時々出るので、適切な地図が欲しい。
お勧め度:☆(中東欧に興味のある方)
キーワード:スロヴェニア/リュブリャナ、スラヴ/カランタニア公国、カルニオラ/カリンティア/スティリア、ハプスブルク家/プロテスタント、スロヴェニア語、トルーバル/ヴォドニク/コピタル/プレシェーレン、詩/新聞、統一スロヴェニア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(ユーゴスラヴィア王国)、共産党/チトー、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国、スロヴェニア共和国、スロヴェニア文学/近代文学/現実主義/社会主義リアリズム/モダニズム、演劇、造形美術/バロック様式
<国土と人間>
○国土
・スロヴェニアは5つの地域に分かれます。①プリモーリェ地方(アドリア海沿岸)②カルスト地方(※プリモーリェに含まれるみたいだが)③アルプス山岳地方(※上カルニオラ、中カルニオラかな)④準アルプス地方(ドレンスカ地方、※下カルニオラかな)⑤パンノニア平原。
・プリモーリェ地方-アドリア海には40Kmしか接していない。カルスト地方には6千を越える洞窟がある。
・アルプス山岳地方-最高峰はトリグラウ峰(2864m)で、国章になっている。サヴァ川はスロヴェニアで最大の河川で、中央部を東流している。首都リュブリャナはサヴァ川が流れる盆地にある。
・準アルプス地方-丘陵地帯でブドウ栽培が盛ん。
・パンノニア平原-東流するトラヴァ川に、スロヴェニア第2の都市マリボールがある。パンノニア平原の北部にムーラ川が流れ、ムーラ川以北はプレクムーリェ地方で、ハンガリー人が多数を占める。
・スロヴェニアの気候はアルプスやアドリア海があり、変化に富む。
○民族
・スロヴェニアの人口は約200万人で安定状態にあり、その内88%がスロヴェニア人です。※日本で云えば中都市だな。面積は四国程度で、人口密度は日本の約1/4。
<近代以前の歴史(~1918年)>
○スロヴェニア人の起源(6世紀~1278年)
・ローマ帝国はスロヴェニア/クロアチア地域を「ノリクム」「イリリクム」として支配していたが、6世紀南スラヴ人/アヴァール人が北から侵入する。南スラヴ人は「カランタニア公国」を建国する。
・7世紀カランタニア人とアヴァール人の抗争が始まり、カランタニア人はバイエルンの支援を受ける。バイエルンがフランク王国(カロリング朝)に併合されると、「カランタニア公国」もフランク王国の辺境伯になり、封建制が導入される。
・神聖ローマ帝国はスロヴェニアを「カリンティア公国(ケルンテン、コロシュカ。オーストリア南部)」「スティリア公国(シュタイエルスカ。スロヴェニア北部)」「カルニオラ公国(クラインスカ。スロヴェニア中部)」の3公国で支配する。
○ハプスブルク家の支配(1278年~1791年)
・1278年神聖ローマ皇帝ルドルフ1世は(ハプスブルク家)は3公国「カリンティア公国」「スティリア公国」「カルニオラ公国」などを息子に任せる。以降1918年までスロヴェニアはハプスブルク家の支配になる。
・13世紀以降もスロヴェニア語は認められるが、支配層はドイツ語を用い、スロヴェニア語は農民の言葉であった。
・スロヴェニアでもキリスト教が信仰され、ザルツブルク総司教座は広大な領地を有した。
・15世紀末スロヴェニアには2つの問題(宗教改革、オスマン帝国)があった。ハプスブルク家に反発する農民一揆は、その後2世紀半も続く。
・16世紀プロテスタントに改宗したプリモジュ・トルーバル(1508~86年、後述)はスロヴェニア語の文法書などを出版する。この書物は19世紀、スロヴェニア人の自覚の拠り所になる。ユーリー・ダルマティン(1547~89年)は聖書をスロヴェニア語などに翻訳する。ハプスブルク家に反発する地方権力はプロテスタントを支持した。ハプスブルク家はプロテスタントへの弾圧/神学校の開設/バロック芸術の導入で、16世紀末には勝利する。
・17世紀は比較的安定し、バロック様式の教会が多く建設された。
・マリア・テレジア(位1740~80年)は国内関税の廃止/地方政府の廃止/交通網の整備/義務教育令などで中央集権化を進める。
・ユーゼフ2世(位1780~90年)は「寛容令」で農奴を解放する。これによりスロヴェニア人の民族運動が始まる。
○民族意識の目覚め(1791~1860年)
・1808年言語学者イェルネイ・コピタル(1780~1844年、後述)はスロヴェニア語の文法書を出版する。
・1809年ナポレオンはハプスブルク帝国の「カルニオラ」「カリンティア西部」などを「イリリア諸州」としてフランス帝国領とする。彼はスロヴェニア語の使用を奨励し、行政機関にもスロヴェニア人が登用された。
・1815年ナポレオンが敗北すると、「イリリア諸州」は「イリリア王国」(~1848年)になり、ハプスブルク帝国の支配下に戻る。ハプスブルク帝国はスロヴェニア人作家を監視する。この頃スロヴェニア人作家は「保守派」(イェルネイ・コピタル、スロムシェク、コセスキ)と「リベラル派」(フランツェ・プレシェーレン、スモレ)に分かれていた。
・この時期、蒸気機関が繊維業/製糖業に導入され、1857年ウィーンからリュブリャナを経由し、アドリア海の都市トリエステに至る鉄道が開通する。
・1848年ウィーンで3月革命が起る。スロヴェニア人は政治綱領「統一スロヴェニア」を作成する。
○統一運動(1860~1918年)
・1867年選挙法の改正で「保守派」「リベラル派」が結集し、政治綱領「統一スロヴェニア」を宣言する。農民の支持を得る「保守派」は1892年カトリック民族党、1894年進歩民族党を結成する。一方「リベラル派」は都市市民/中産階級から支持される。
・スロヴェニア人の人口は「カルニオラ州」では93%あったが、「カリンティア州」「スティリア州」などでは30%を切っていた。そのためスロヴェニア人はクロアチア人と協力し、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の三重帝国化を構想する。この構想は「ユーゴスラヴィア構想」に発展する。
<スロヴェニア文化とスロヴェニア民族の形成>
○啓蒙時代の変化
・マリア・テレジア(位1740~80年)ユーゼフ2世(位1780~90年)は中央集権化/合理化を進める。ラテン語を使用するスロヴェニア系知識人も活躍する。教会では厳格で実践的な「ヤンセン主義」が広まる(※ヤンセン主義?)。ヤンセン主義者は聖書や様々な文献を翻訳した(※何語か書かれていない。スロヴェニア語だろうな?)。
○言語
・聖職者プリモジュ・トルーバル(1508~86年、下カルニオラ生まれ)はスロヴェニア語で『スロヴェニア語版教理問答集』『初歩読本』『聖マタイによる福音書』を出版する。さらに1582年新約聖書をスロヴェニア語に翻訳する。1584年彼の弟子は旧約聖書をスロヴェニア語に翻訳し出版する。同年聖職者アダム・ボホリッチ(1520~1600年)はスロヴェニア語の文法書『冬の余暇』を出版する。本書は19世紀半ばまで使用された。
・1774年識字普及/義務教育により、スロヴェニア語の標準語を使える人が拡大する。この頃多くの文法書が出版される(※詳細省略)。
・19世紀に入るとジーガ・ツォイス男爵(1747~1819年)がスロヴェニア文化のパトロンになる。彼は劇作家A・T・リンハルト(1756~1835年)などを支援した。
・聖職者V・ヴォドニク(1758~1819年)は「イリリア諸州」でスロヴェニア語による民族語教育を行う。1817年リュブリャナの高等学校でスロヴェニア語による教育が始まる。
・夥しい数のスロヴェニア語の文法書が作られる。1808年言語学者J・コピタル(1780~1844年)は文法書『カルニオラ、カリンティアおよびスティリア地方のスラヴ語の文法』を出版する。
○文学
・スロヴェニア国歌は、1844年フランツェ・プレシェーレン(1800~49年)が作詞したものである。ヴォドニクは様々なジャンルの詩を書き、『イリリア州の再生』『試みのための詩』などを出版している。
○フランツェ・プレシェーレン
・プレシェーレンはカルニオラ西部の農家に生まれる。彼は『サヴィツァの滝の洗礼』『ポエジエ(詩集)』などを出版する。これらの作品はスロヴェニア人の拠り所になる。
○新聞、雑誌
・19世紀前半の新聞はドイツ語/イタリア語で発行されたが、スロヴェニア語の『リュブリャナ新聞』(1797~1800年)も発行される。ヴォドニクは農村向けの新聞『大年鑑』『年鑑』を発行している。
・教育の発達により、1843年皇帝の弟ヨハン公の後援で『農民/職人新聞』が発行される。本紙の記載範囲は広く、法律や政治にも及び、19世紀後半まで政治的な影響力を持た。
○イリリズム(イリリア運動)
・スタンコ・ヴラーズ(1810~51年)は汎スラヴ主義からスロヴェニア語/クロアチア語などを統一する「イリリア運動」を起こすが、失敗に終わる。
○実践的活動
・19世紀半ばにプレシェーレンなどのスロヴェニア文学は最高潮に達するが、知識人に限られていた。しかし徐々に草の根に広がる。
・聖職者A・M・スロムシェク(1800~62年、スティリアの農家に生まれる)はラヴァントにあった司教座をマリボールに移す。彼はスロヴェニア語の普及に力を注ぎ、新聞『ドロブティニツェ』は人気を博する。
・これらの活動には2つの潮流があった。一つはコピタルなどのカトリック主義/実利主義の活動で、もう一方はマティヤ・チョップ(1797~1835年)やプレシェーレンなどの知識人による世俗的な活動であった。※保守派とリベラル派かな。詳細は良く分からない。
○1848年
・この年の革命は欧州全域を揺り動かした。半世紀に及ぶ言語/文化の活動で、スロヴェニア民族が形成され、彼らの要求は政治的権利に発展する。1867年ウィーン大学の学生が要求を集大成し、政治綱領「統一スロヴェニア」を作成する。
・「統一スロヴェニア」は①ヴェネツィア/ハンガリーを含めた全スロヴェニア人の自治権②スロヴェニア語をドイツ語などと同等に扱う③オーストリアのドイツからの独立を要求していた。※当時は既にプロイセン王国とオーストリア帝国は分裂していたような。
<ユーゴスラヴィアによる統治(1918~80年)>
○第1次世界大戦(1914~18年)
・1918年12月「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の敗戦で「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」(後のユーゴスラヴィア王国)が建国される。
○最初のユーゴスラヴィア(1918~41年)
・ユーゴスラヴィアの建国当初、国境問題が起こり、オーストリアとの国境は住民投票で、イタリアとの国境は「ラパロ協定」で解決する。
・ユーゴスラヴィアの人口1200万人に対し、スロヴェニア人は100万人であった。
・ユーゴスラヴィアは中央集権制度になるが、憲法制定議会での投票でスロヴェニア人議員の11人(知識人中心の自由党)は賛成したが、26人(農民が支持するスロヴェニア人民党)は棄権した。
・スロヴェニア人民党の党首はアントン・コロシェツ神父(1872~1940年)で、内相や首相を務める。
・この時期、リュブリャナ大学/国立博物館/国立美術館/国立劇場/科学芸術アカデミーが設立される。スロヴェニアの非識字率は8%で、ユーゴスラヴィアの40%に対し大変低かった。
・スロヴェニアは工業化が進んでおり、基幹産業の繊維業/鉄および非鉄金属/化学製品/ビール製造などが盛んであった。
・イタリア/オーストリアに住むスロヴェニア人はそれぞれの国で迫害される。
○第2次世界大戦(1941~44年)
・1941年4月ドイツ軍がユーゴスラヴィアに侵攻し、マリボールなどを占領する。イタリア軍もリュブリャナを占領する。スロヴェニアはドイツ/イタリア/ハンガリーに3分割される。
・1941年4月占領されたリュブリャナで、キリスト教社会党(旧スロヴェニア人民党)/体育文化組織「鷹」/共産党が「反帝国主義戦線」を結成する。6月ドイツ軍がソ連侵攻を開始すると、「反帝国主義戦線」は「解放戦線」と改称され、活動綱領が発表され、レジスタンスを始める。
・1943年11月ユーゴスラヴィア共産党書記長チトー(1892~1980年)は「ユーゴスラヴィア民族解放反ファシスト会議(AVNOJ)」でユーゴスラヴィア連邦の再編/国王の帰国禁止などを発表する。1944年9月「AVNOJ」は臨時政府として国際的に承認される。
○チトーのユーゴスラヴィア(1945~80年)
・1945年11月共産党主導の総選挙が行われる。憲法が制定され、6つの共和国からなる「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」になる。
・今回も国境問題が起こり、アドリア海沿岸では、トリエステはイタリア領、コペルはユーゴスラヴィア領になる。
・ブルジョアジーは弾圧された。これに知識人は失望した。農地改革は急速に進められた。銀行/工場/運輸/流通/商業/貿易などが国有化された。
・1948年6月「コミンフォルム」はチトーとその体制を非難する。これによりユーゴスラヴィアはソ連圏から離脱する。これが転機となり、西側諸国から援助を受ける。
・自主管理制度「労働者評議会」が組織される。この制度はスロヴェニア人理論家エドワルド・カルデリ(1910~79年)が作成した。
・スロヴェニアはユーゴスラヴィアの非中央集権化の恩恵を受け、鉱業/機械/金属/繊維/化学/農業/食品が発展する。
・1959年シュタイエルスカ地方のトルボウリェ鉱山で労働争議が起こるが、ベオグラード政府とリュブリャナ政府で意見が対立した。
・1963年憲法改正で自主管理制度が強化された。国境は開かれ、出稼ぎ労働者からの仕送りは経済に好影響を与えた。
・1974年憲法改正で、さらに共和国に権限が移譲される。しかし1973年「第1次石油ショック」による経済危機から、共和国間の経済格差は広がり、インフレ/高失業率になる。スロヴェニアは人口では8.5%だが、国民総生産は18%を占めた。
<スロヴェニアの独立(1981年~)>
○独立運動の発端
・1979年「第2次石油ショック」で実質収入が減る一方、物価は上昇した。※大概、政変はインフレが起因する。
・1980年チトーが死去し、各共和国で中央集権主義と反中央集権主義の対立が激化する。1986年セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチは「大セルビア」を表明する。
・1987年スロヴェニアの知識人グループが雑誌『新評論』を創刊し、「スロヴェニア民族綱領」を発表する。それには複数主義(多党制)/民主主義/市場経済/ユーゴスラヴィア連邦の改組が要求されていた。スロヴェニア共産主義者同盟(共産党)/青年同盟もこの影響を受けるが、スロヴェニア共産主義者同盟議長ミラン・クーチャンはこれに反対しなかった。
・1989年1月「スロヴェニア民主同盟」が結成される。7月スロヴェニア共産主義者同盟は指導的立場を放棄する。9月スロヴェニア議会は「スロヴェニア共和国憲法」を改正し、連邦からの離脱を明記する。この改正に共産党も賛成している。※スロヴェニア共和国憲法は何時できたのか?
・1989年末、野党(スロヴェニア民主同盟、社会民主同盟、スロヴェニア農民同盟、キリスト教民主党、スロヴェニア緑の党)は野党連合「デモス」を結成する。
○スロヴェニアの独立-1991年
・1990年4月スロヴェニア初の自由選挙で、野党連合「デモス」が55%を得票する。首相にキリスト教民主党(第3党)党首ロイゼ・ペテルレが就き、大統領に改革派共産主義者ミラン・クーチャンが就いた。
・1990年12月「スロヴェニアの主権/独立」を問う国民投票が実施され、投票率89%で賛成が88.5%となる。この結果はスロヴェニア人以外の民族も、これに賛成した事を表している。
・1991年1月ベオグラードでのユーゴスラヴィア共産主義者同盟の大会は途中で中断し、最後の大会になる。
・1991年6月「スロヴェニア共和国」の独立を宣言する。しかし国際的には容易でなく、フランスはセルビアを支持し、米国/ソ連もユーゴスラヴィアの統一を望んでいた。
・1991年6月セルビアはスロヴェニアの独立宣言に対し、スロヴェニア国境を封鎖するため連邦軍を出動させ、スロヴェニア警察部隊と戦闘になる。すぐさまECが妥協案を提供し、連邦軍は撤収し、セルビアとスロヴェニアは交渉を始める。
・1991年夏スロヴェニアは主権国家となり、12月新憲法が採択され、複数政党制議会(下院)/国民評議会(上院)/大統領制などが規定される。
・1992年12月総選挙で自由民主党が23.5%を得票し、党首ヤネズ・ドルノウシェクが首相に就き、大統領には64%を得票したミラン・クーチャンが引き続き就く。
・ドイツ/オーストリア/ハンガリー/チェコスロヴァキア/ポーランドは独立を支持した。1992年1月ECは独立を承認し、5月国連に加盟する。
○主権国家スロヴェニア
・新憲法には法治国家/社会福祉国家が謳われ、三権分立/議会制民主主義/大統領制/人権/生存権/自由/財産権などが規定された。
・教育面では非識字率が2%程度と大変低い。初等教育は8年制で、4年制の中等教育から農業/繊維/観光/商業/金融などの専門に分かれる。大学はリュブリャナとマリボールにある。
・司法では最高裁/高等裁判所4か所/地方裁判所8か所がある。※面積は四国程度なので一杯あるな。
<スロヴェニアの経済>
○労働力
・現在のスロヴェニアの1人当りGDPはフランスの約半分である。
・スロヴェニアの労働人口は93万人で、その内63万人が企業などで働いている。労働者には熟練労働者が多く、スロヴェニアの誇りになっている。
○農業
・スロヴェニアの農業人口は9%だが、農産物の供給は十分である。気候/風土が変化に富むため、農業形態も様々である。年間で小麦17万トン/トウモロコシ25万トン、国民1人当り牛乳267キロ/肉70キロなどを生産している。果物/ワインの生産も盛んである。※生産物を詳細に説明しているが省略。
・経営事業体は2種類ある。①旧「社会主義的生産共同組合」に1万2千人が従事している。①生産共同組合は森林の1/3を所有している。②個人農家に10万人が従事しているが、専業は4万人で、残りは兼業である。
○工業と手工業
・スロヴェニアのGNPは1970年代は年率10%、1980年代は年率5%の成長を果たす。しかし1990年代はユーゴスラヴィア崩壊で後退する。
・工業(鉱山業、製造業、電力業)に26万4千人が従事している。金属(鉄、水銀、石炭)/木材/皮革/繊維が盛んである(※詳細省略)。電力構成は水力25%/火力40%/原子力35%である。
・手工業では金属加工/木材加工が盛んである。
○商業と観光業
・スロヴェニアへのルートは3つある。①イタリアからトリエステ経由②オーストリアからイェセニツェ③ハンガーからマリボール。国際貿易港はコペルのみである。
・国際貿易は赤字で、輸入980万トンに対し、輸出740万トンである(※何で”トン”なのか)。輸出品には家具/繊維/皮革/シューズ/自動車部品などがある。貿易相手国はドイツ/旧ユーゴスラヴィア/旧ソ連諸国などである。
<スロヴェニアの文化>※この章は関心が薄いので、大幅に省略します。
○スロヴェニア文学-19世紀後半
・1848年の革命以降、新聞/雑誌の発行部数が増え、スロヴェニア語の正書法も広まり、詩集が多く出版される(1849年L・トマン詩集、1854年F・レウスティク詩集、1860年M・ヴィルハール詩集/F・ツェグナル詩集、1865年S・イェンコ詩集)。
・一方散文の発達は遅れたが、1836年J・ツィグレル『不幸中の幸運』が出版されている。※黎明期の作品を他にも紹介しているが省略。
・スロヴェニア民族の覚醒を促す文学新聞『スロヴェニアの蜂蜜』(1850~53年)/雑誌『スロヴェニアの報道者』(1858年~)も出版された。
・フラン・レウスティク(1831~87年、下カルニオラの農民に生まれる)は詩人/作家/劇作家/評論家/百科事典編集者/文法学者であった。
※他にシモン・イェンコ/フラン・エリャヴェツ/ヨシブ・ユルチッチ/イワン・タウチャル/シモン・グレゴルチッチなど多数の作家を紹介しているが省略。
・文学者の価値は公共の価値の基準になった。
○近代文学
・文化的な自由を得て、スロヴェニア文学は量的/質的に発展し、様々なグループが作られた。
・「モデルナ(モダン派)」にイワン・ツァンカール(1876~1918年、リュブリャナ生まれ)がいる。彼は詩歌から始めるが、小説/戯曲を多く残した。彼の作品の登場人物は中産階級や小市民であった。
・オートン・ジョパンチッチ(1878~1949年)はイワン・ツァンカールとは対照的に、明るい作品を残した。※他にも「モデルナ」の作家を紹介しているが省略。
○現実主義
・聖職者からも多くの作家を排出した。F・S・フィンジュガール(1871~1963年)はその代表である。他にF・K・メシュコ/イジドール・ツァンカール(1896~1958年、イワン・ツァンカールのいとこ)/イワン・プレゲリがいる。
・他に表現主義スレチコ・コソヴェル(1904~1926年)、未来主義A・ポドベウシェク(1898~1981年)などがいる。
○社会主義リアリズム
・20世紀に入ると、社会問題や心理学を題材にした作品が増える。ファシスト党から迫害されたF・ベウク(1890~1970年)などがいる。また農民出身でマルクス主義に傾倒した作家も多く、ミシュコ・クラーニェツ(1908~1983年)などがいる。
○第2次大戦と文学
・第2次大戦中はイタリア/ドイツに占領され、文学は崩壊した。解放戦線で主導権を握った共産党に従った作家や、逆に占領軍に協力した作家がいた。一方でマティ・ボール(1913~1992年)などパルチザン詩人が多数いる。
○現代のスロヴェニア文学-詩歌
・1953年『4人の詩集』が出版される。この詩集は社会主義/共産主義から離れ、個人の生活をテーマにした。
・60年代に入るとスロヴェニア文学は多様化する(※詳細省略)。これらの詩集は一党独裁の下で自費出版されたが、これは精神的自由を表している。この様にモダニズムに進む者もいれば、逆に古典に回帰する者もいた。
○現代のスロヴェニア文学-散文
・現代作家の代表としてパウレ・ジダール(1932~1992年)がいる。他にロイゼ・コヴァチッチ/アンドレイ・ヒエング/ボリス・パホール(トリエステ出身)/F・リプシュ(オーストリア出身)/K・シムチッチ(アルゼンチン移住)などがいる。
○翻訳と文芸批評
・V・レウスティク(1886~1957年)はドイツ語/フランス語/英語/ロシア語の作品をスロヴェニア語に翻訳している。他にも多くの翻訳者がいる。
・I・プリヤテリ(1875~1937年)/F・キドリッチ(1880~1950年)などの文芸批評家がいる。
○演劇
・スロヴェニア作家の多くは劇作家である。社会の変化と演劇は密接な関係にあった。F・レウスティク(前出)は多くの作品を残した。しかし本格的な作品はイワン・ツァンカール(前出)による。アマチュアの劇作家も多くいる。
・第2次大戦中は解放戦線が作った解放区で演劇が行われた。大戦後は体制によって厳しく監視された。1964~72年社会変革/政治変革への要求から、演劇は社会現象になる。1972~75年(鉛の時代)は知識人が実力を蓄える時代になる。
○造形美術
・スロヴェニアの教会はロマネスク様式/ゴシック様式で造られた。スロヴェニアはイタリアに隣接するが、オスマン帝国の影響でルネッサンス文化は余り入らなかった。
・17世紀後半になると「バロック様式」が主流になる。建築だけでなく、絵画/彫刻などでも「バロック様式」が主流になる。リュブリャナには「バロック様式」の建築物が多い。
・スロヴェニアには中産階級/事業主の需要に応える彫刻家/画家が多くいた(※名前省略)。建築家には「現代建築」を代表するヨージェ・プレチュニク(1872~1957年)がいる。
・スロヴェニアの芸術が最高峰に到達するのは「印象派」の時代である。画家にリハルド・ヤコピッチ/イワン・グロハールなどがいる(※他省略)。スロヴェニアの主要都市には数多くの美術館があり、その展示は著名な海外の美術館に引けを取らない。
○音楽
・スロヴェニアでは宗教面から「合唱」が身近であった。ヤコブ・ペテリン=ガルス(1550~91年)は中世スロヴェニア最大の作曲家と云われる。1701年アマチュアの楽団が結成され、1756年屋内馬場が劇場に改装された。18世紀末ツォイス男爵(前出)はイタリア・オペラをスロヴェニア語に翻訳させた。
・1848年欧州各地で革命が起きるが、「スロヴェニア民族防衛隊」はオーケストラを備え、モーツァルトなどの作品を演奏した。
・20世紀に入るとさらに飛躍する。1901年リュブリャナにフィルハーモニー・オーケストラ、1919年国立音楽学院、1939年音楽アカデミーが設立される。
○映画
・1907年リュブリャナに映画館ができる。ユーゴスラヴィア王国(1918~41年)は国産映画/国策映画に限って上演を許可した。ユーゴスラヴィア連邦人民共和国でも同様に、国策映画に限られた。
・スロヴェニア映画は文学作品と深く結びついているのが特徴である。※多くの監督/映画名が紹介されているが省略。
<訳者あとがき>
・本書は日本最初のスロヴェニア概説書である。
・スロヴェニア語はセルビア・クロアチア語と大きく異なる。またスロヴェニアは西欧の影響を強く受け、ユーゴスラヴィアで経済的に傑出するなど、特異な地域です。
・スロヴェニア人はスラヴ系に属しますが、20世紀初めまで異民族(ドイツ人など)に支配され続けました。100万人しかいなかった彼らが同化/消滅しなかったのは、スロヴェニア語の存在にあります。
・リュブリャナの国立図書館に高さ13mの「イリリアの塔」があります。「イリリア諸州」はナポレオンが認めた属州です。「イリリア諸州」ではスロヴェニア語が公用語として認められ、これは画期的な事です。
・本文では触れていませんが、スロヴェニアでは登山/スキーなどが盛んです。スキー用品の「エラン」はスロヴェニアの会社です。
・スロヴェニアの直近の問題はEU/NATOの加盟です。※2004年共に加盟。