『戦国期厳島の町と屋敷』秋山伸隆を受講。
厳島は神聖な島で、古くは家がなかったが、徐々に町が形成されます。
その形成過程と、形成後の課税方法を解説しています。
キーワード:家/屋敷/仮屋/見世、大願寺/家賃、屋敷銭、天役/水夫
<はじめに>
・厳島は信仰の対象であったが、世俗的な家/屋敷/仮屋/見世が営まれます。また家/屋敷の支配/所有関係を説明します。
<町の形成>
○町の形成過程
・平安時代には神社に使える「内侍」の宿泊施設が島内にあった。僧侶の寺坊は鎌倉時代までには島内にあった。
・一方社家(※神職)の家屋敷は鎌倉時代末期(元亨4年、1324年)でも対岸(廿日市可愛)にあった。
○社家の島内定住
・神主興親の死後、神領衆が東西に分裂するが、永正12年(1515年)上卿家政一族が能美島に「他宿」した。この時までに社家は島内に住んでいた。
・大永3年(1523年)大内水軍が神主友田興藤を討つが、島内に社家/供僧が定住し、町が形成されていた。
・室町時代、社家/供僧/内侍が島内に定住し、「西町」が成立し、続いて町人町「有浦(東町)」が成立する。※室町時代は商業が活発化した時代だな。
<家、屋敷、仮屋、見世>
○家、屋敷
・明応2年(1493年)荘官有慶は厳島「中物奥」の屋敷(土地)を孫に譲り、家を作った。
○仮屋
・仮屋は仮の店である。
・天文10年(1541年)大内氏は無主となった友田興藤の屋敷35ヵ所を大願寺に寄付した。「大町」(塔の岡付近)は屋敷ではなく仮屋と記されている。それは「大町」は東西の防火帯で、仮屋が建てられていた。
○見世(店)
・天文21年(1552年)陶晴賢は島の町人以外が見世/屋敷を所有するのを禁止している。逆に云えば、島外の町人が見世を開いていた。
○大願寺による屋敷の買得
・厳島神社は大願寺が修理造営していた。大願寺はその費用を確保するため、島内の屋敷や対岸の田地を買い集めた。
・永正7年(1510年)長浜棚守左近の屋敷を大願寺が買得した。間口は三間間中(三間半)であった。屋敷の住人は大願寺に地銭/地領/地領銭(家賃)を納めた。
・神領衆は島内外に屋敷を持っていたが、厳島の屋敷を大願寺に売却した。例えば永正17年(1520年)神領衆吉原親直は津田/吉木/平良に給地を持ち、さらに厳島に屋敷5ヵ所を持っていた。
○有浦懸
・大願寺に寄付された屋敷35ヵ所(前述)に「有浦懸」4ヵ所が含まれている。「懸」は船着き場のある屋敷と思われる。※有浦は江戸時代に広島藩有数の港になる。
<町の支配>
○村と町での屋敷の違い
・村では田に分米(年貢)、畠に分銭が課されたが、屋敷には課されなかった。一方町の屋敷には「屋敷銭」が課された。※納税制度がチャンとできていた。
・文禄4年(1595年)毛利輝元は尾道に田に米42石、畠に194貫、屋敷に637貫を課している。
○町の支配
・神主家も毛利氏も宮島を支配する「役人」を置いた。
・文禄4年(1595年)「西町」全域の町割に、間口/奥行/領主/居住者が記されている。しかし領主に社家/供僧/内侍/給人(毛利氏家臣)の記載はあるが、公領(毛利氏直轄領)の記載はない。
※以下の2項、資料に書かれていないため、自信なし。
・毛利氏は社家/供僧/内侍に神事/祈祷/法会を課し、給人に軍役を課し、町人/百姓に天役/水夫を課した。
・毛利氏は社家/供僧/内侍などが領する屋敷に地子銀/かりや銭(※屋敷銭?)を課した。