『延遼館の時代』東京都文書館を読書。
明治時代初期、浜離宮にあった延遼館が迎賓館として利用されました。その概要を紹介しています。
鹿鳴館は知っていたが、延遼館は知らなかった。延遼館は様々な役割を果たしています。
お勧め度:☆☆(写真が多いが、結構詳しい)
キーワード:<将軍の庭>浜御殿/徳川家宣/鷹場、大御所時代/観遊/産業、御泉水/放鷹、海軍所/石室、<延遼館の成立>東京府/外国事務局/外国官/延遼館、エディンバラ公/祭儀/対面、伊達宗城、<延遼館の機能>国賓、天長節/行幸、鉄道開業/万国博覧会、朝鮮修信使、観桜会、<延遼館の宴会>井上馨/礼式、東京府新年宴会、料理/洋酒、軍楽隊/歌舞伎、<延遼館の歴史的意義>天覧相撲、鹿鳴館、歴史的意義
<将軍の庭>
○浜御殿の成立
・徳川綱重は家光の三男に生まれる。彼は甲府城主になり、芝三田の海浜を与えられます。1709年彼の嫡子綱豊は6代将軍家宣になり、海浜は浜御殿となります。家宣は浜御殿に御殿/茶屋などを造営し、16回訪れた。
・しかし8代将軍吉宗は浜御殿の役人を162名から25名に減員するなど縮小します。1724年御殿は消失し、以降再建されませんでした。
・その後浜御殿は①将軍関係者(子女、側室など)の居住地②武芸の調練/観遊③鷹場④薬草栽培/砂糖製造などに利用されます。※③鷹場は「ブラタモリ」に出たな。
○浜御殿の整備と活用
・将軍の御成は388回あり、その内2人(家斉248回、家慶99回)が突出しています。松平定信失脚後の大御所時代(家斉)、茶屋/鴨場池などが大幅に造営されます。
・招待された目付土岐頼旨が観遊コースなどの記録を残しています。御庭では漁業/製塩/織物/農作物栽培が展覧され、その産物は観遊者への贈り物になった。※これは驚き。
○浜御殿の動物
・1729年吉宗の時代に像が飼われています。1741年蘭国人が洋馬を献上したとあります。
・御庭には海水の「御泉水」、淡水の「鷭堀鴨堀」(現・庚申堂鴨場)/現・新銭座鴨場があり、「御泉水」では頻繁に釣りが行われました。1798年鯨が浜御殿に運ばれ、将軍が上覧しています。1803年将軍は「放鷹」により真鴨10羽/小鴨14羽を仕留めたと記録にあります。
○幕末の激動
・1853年ペリー来航により浜御殿に「大筒」が設置されます。1856年浜御殿に隣接する築地(堀田中屋敷)には「講武所」が設置されます。浜御殿にはさらなる防衛力の強化が検討されますが、実施されませんでした。
・「修好通商条約」締結後、寺院が公使館に利用されました。しかし1860年ヒュースケン殺害事件/1861年東禅寺襲撃事件が起きます。これにより堀に囲まれた浜御殿に公使館を建設する案が検討されますが、これも立ち消えになります。
・1866年11月浜御殿は「海軍所」の管轄となりますが、その後も軍施設と外交施設でせめぎ合いが続きます。
○海軍所石室の誕生
・幕末、勘定奉行/海軍奉行の小栗忠順は海軍所「石室」の建設を計画します。1867年12月軍艦奉行木村喜毅/肥田浜五郎により「石室」が完成します(同年10月大政奉還)。
・小栗忠順/木村喜毅/勝海舟はそれぞれの運命を歩みます。
<延遼館の成立>
○石室から延遼館
・1867年12月王政復古により新政府が成立し、1868年4月江戸城無血開城しますが、8月榎本武揚は艦船8隻で江戸を脱出します。
・1868年8月浜殿は新政府の「外国事務局」(後の外国官、外務省)に接収され、さらに11月浜殿は「東京府」(国の役所)の管轄になります。これは同月の天皇の浜殿行幸のためと考えられます。その後も「外国官」は石室の使用を度々要求しています。
・1869年4月英国公使パークスはヴィクトリア女王第2王子エディンバラ公の訪日を伝えます。7月「石室」を改装し「延遼館」が完成します。
○開化と復古
・当時はまだ「攘夷」の風潮があり、エディンバラ公の外賓接待は慎重に検討されました。神祇官により路次祭/送神祭/祓麻祭などの祭儀が行われます。
○明治天皇とエディンバラ公の対面
・1869年6月明治天皇とエディンバラ公を対等とする事、さらに皇城「大広間」で対面する事が決まります。7月28日来日したエディンバラ公(25歳)と明治天皇(17歳)が「大広間」で対面し、さらに「瀧見茶屋」で2度目の対面をします。
○おもてなし
・エディンバラ公の外賓接待のため「接伴条例」「接待条例」が作成されます。
・エディンバラ公は7月22日横浜に到着し、8月3日東京から横浜に戻ります。この間延遼館/増上寺/和歌山藩邸などで接待されました。
○伊達宗城
・伊達宗城は宇和島藩主で幕末4賢侯の一人です。彼は将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し隠居しますが、その後も朝廷に重んじられ、明治政府では外国官知事などを歴任しています。エディンバラ公の来日直前の6月に外国官知事を辞しますが、「領客使」として接待に当たっています。彼は前米国大統領グラント(1879年)/ハワイ国王カラカウア(1881年)の接待も担当しています。
○延遼館
・明治17年(1884年)延遼館の管轄は外務省から宮内省に移ります(前年鹿鳴館開館)。延遼館は浜離宮の北東部にあり、凹型で23部屋に分かれていました(※図面あり)。内装は「金唐革紙」などが貼られ、優美でした。宮内省移管時の調度品の一覧が現存します。
・明治22年(1889年)老朽化/台風などにより、延遼館の取り壊しが決定します。
<延遼館の機能>
○延遼館が守った御庭
・慶応4年8月(1868年)浜殿を新政府が接収し、「外国事務局」の管轄になります。明治元年11月(1868年)「東京府」の管轄になります。明治2年9月浜離宮は宮内省、延遼館は外務省の管轄になります。
・明治3年2月浜離宮は兵部省「海軍所」の管轄になり、兵部省は宮内省に引き渡しを要求します。当時兵部省は用地の確保に苦労しており、増上寺は兵部省に蚕食されます。明治3年閏10月兵部省に浜離宮に隣接する築地が与えられ、浜離宮は宮内省、延遼館は外務省の管轄に戻ります。
・浜離宮は海軍に利用される事なく、景観を保ちます。その後浜離宮/延遼館は国賓接待/外交会談/行幸/国家的イベント/政府晩餐会などに利用されます。
○国賓の来訪
・延遼館は明治17年まで外務省の管轄で、13回国賓を迎えています。
・明治5年ロシア皇子アレクセイ・アレクサンドロビッチが来日します。彼は延遼館に宿泊し、宮中参内/観兵式/観艦式などの接待を受けています。
・明治12年前米国大統領ユリシーズ・グラントが来日します。彼は延遼館に宿泊し、宮中参内/観兵式/観劇/競馬などの接待を受けています。
・明治16年鹿鳴館が開館しますが、延遼館はその後も5回国賓を迎えています。※浜離宮には庭園/茶屋があるので厚遇できそう。
○天長節、行幸
・延遼館では「天長節」の夜会が開かれています。
・天皇は①官吏を慰労するため、共に食事をした②宿泊している外賓を訪問などで延遼館に24回行幸しています。
・明治14年ハワイ国王カラカウアは来日し、延遼館を気に入り、図面を持ち帰りました。また両王族間の結婚話も起きました。
・明治5年新橋-横浜間で鉄道が開業します。開業式典後、延遼館に皇族/政府高官/駐日公使を招き、宴会が開かれました。
・明治9年米国フィラデルフィアで万国博覧会が開かれ、日本は美術工芸品(陶器、磁器、漆器、織物、金工)など1,966点を出展します。その内覧会が延遼館で開かれています。
○朝鮮修信使
・明治9~16年に「朝鮮修信使」(以下修信使)が日本を4回訪れています。
・第1回修信使は70数名で、正史にエリートの金綺秀が就いています。彼は帰国後『日東記游』を記しています。延遼館で2回午餐が開かれています。この修信使には、朝鮮に西洋化を勧める目的がありました。
○観桜会
・明治14年浜離宮で観桜会が開かれ、以降毎年開いています。これは今の園遊会に繋がります。
・明治22年の最後の観桜会には、勅任官/奏任官/御雇外国人/外国交際官などが招待されています(※初めて聞く区分)。延遼館は天皇/親王の控室になりました。
<延遼館の宴会>
○井上馨
・明治政府の重要課題に不平等条約の改正がありました。明治12年(1879年)井上馨は外務卿に就きます。彼は宴会マニュアル『内外交際宴会礼式 私会之部』を作成しています。
・この礼式には宴会の種類を晩餐会/夜会/園遊会/茶会/舞踏会としています。それぞれの開始時間/終了時間/内容を記しています。レディーファースト/名刺の扱い/禁戒行為/礼服などについても記しています。
○東京府の新年宴会
・明治14年東京府は延遼館を外務省から借り、新年宴会を開いています。この会は晩餐会(6時15分~)と夜会(9時~)で構成され、皇族/政府高官/各国公使(計777名)が招待されています。この会を滞りなく運営するため、宮内省/外務省から応援が出ています。
・東京府で西洋式の宴会が開かれた要因に『内外交際宴会礼式 私会之部』があったと思われます。
○料理、洋酒
・東京府の新年宴会では、オードブル/スープ/魚料理/肉料理/シャーベット/蒸焼料理(メイン)/野菜料理など、正式なメニューが出されました。この料理は「精養軒」が提供しています。当時でも牛肉以外は調達に不自由しませんでした。明治9年には牛5,731頭、羊142頭が処理されています。
・新年宴会ではシャンパン/ワイン/ブランデーなどの洋酒が出されています。洋酒は江戸時代から飲まれており、明治9年には東京府で西洋酒店45軒が営業していました。
○音楽、演劇
・東京府の新年宴会の夜会では陸軍の「軍楽隊」が演奏を行っています。当時は西洋音楽の演奏者は貴重で、「軍楽隊」はクラシック音楽/舞踏曲など、様々な音楽を演奏しました、
・明治4年「軍楽隊」が兵部省に編制され、その後陸軍/海軍に分かれています。
・夜会では歌舞伎『三松千年寿』も上演されました。当時は新富座が「演劇改良」を行っていました。
<延遼館の歴史的意義>
・明治17年(1884年)延遼館で「天覧相撲」が開かれています。
・明治16年鹿鳴館が開館し、条約改正の交渉の場になります。しかし明治20年井上外務大臣による交渉は失敗し、鹿鳴館はその役割を終えます。※鹿鳴館はたった4年か。
・一方延遼館は鹿鳴館開館により、明治17年管轄が外務省から宮内省に変わりますが、その後も天覧相撲/イベント/外賓宿泊/晩餐会などで利用され続けます。しかし明治22年廃止が決定します。延遼館こそ明治政府初期の外交を支えたと云えます。
・延遼館の歴史的意義は5点あります。①日本初の迎賓館②浜御殿から浜離宮への橋渡しになった③日本最初の洋館「石室」が建てられた④当時を代表する装飾品/調度品が集積した⑤コンベンションセンターとして、多様な機能を果たした。