『ナショナリズムは悪なのか』萱野稔人を読書。
ナショナリズムの原理や歴史的経緯を解説しています。
反ナショナリズムとして「琉球共和社会憲法私案」「マルチチュード論」をピックアップし、これらはナショナリズムの反復に過ぎないとしています。
文章が難しいので、読むには集中力が必要です。
お勧め度:☆(抽象的で難解)
キーワード:<反ナショナリズムの限界>ナショナリズム/反ナショナリズム、格差問題、アイデンティティ、右傾化/排外主義、<ナショナリズムとは、どんな問題なのか>ネーション/主権/言語、国家/主権、<国家をなくせるか>琉球共和社会憲法私案、マルチチュード/対抗暴力、<ナショナリズムに何を負うか>非暴力的活動、産業化/資本主義、規律社会、総力戦/ファシズム
<はじめに>
・著者は仏国に留学したが、仏国では反ナショナリズムはテーマにならない。反ナショナリズムは日本固有のテーマである。
・日本では1980年代からのグローバル化により国民国家は衰退するとの見方が反ナショナリズムを勢いづけた。
<反ナショナリズムの限界>
・近年頻繁に取り上げられる問題に「格差問題」がある。この原因はグローバル化により国内で雇用が不足している事による。世界的には所得が平準化されているが、国内的には格差が拡大している。よってこの問題はナショナルな問題である。※確かに不思議な関係だ。
・「格差問題」が示す様に、世界的には問題でない事が、ナショナリズムによって問題となるのである。要するに多くの問題はナショナリズムに依拠している。※物事は国単位で考えるので、当然かな。
・今日「国家は国民の生活を保障する」が命法(※?)となっているが、これはナショナリズムが前提になっている。
・社会人類学者ゲルナーは「ナショナリズムとは政治的単位と民族的単位が一致する事」としている。今やナショナリズムは「普遍的/正統的な価値」になっている。
※多民族国家にはナショナリズムが存在しないと云う事か。変だけど、まあ良いか。
・著者は「国家は国民の生活を保障する」までは肯定するが、「非日本人を差別する」「非日本的なものを排除する」は否定する。
・この命法は「国民(ネーション)とは誰か」の課題に行き着く。「ネーション」は「生まれ」が由来で、「生まれを同じくする集団」を示す。これはアイデンティティの問題になる。
・「格差問題」により貧困者が「日本人」と云うナショナル・アイデンティティに頼る事で、ナショナリズムが活性化された。この右傾化はナショナリズムのヒステリーと云える。
・この右傾化は仏国でも見られた。2002年大統領選で極右政党ル・ペンが決選投票に残る。彼女の支持者は失業者に多く、最終学歴が低いほど支持率が高かった。
※ナショナリズムには広義のナショナリズムと狭義のナショナリズムがあり、両者の性質は全く異なると考えた方が良いのでは。本書のナショナリズムは一般的に批判されるナショナリズムとは異なります。
・反ナショナリズムを掲げる知識人は、政治を論じているのではなく、道徳を論じていると思える。
・マックス・ウェーバーは「政治と道徳は別物」としている。また道徳は「心情倫理」に基づくが、政治は「責任倫理」基づくとしている。
・ナショナリズムが排外主義に向かわない様にするためには、ナショナルな経済政策/社会政策で、その方向を正さなければならない。
・著者は「第3世界のナショナリズムは善、帝国主義のナショナリズムは悪」「民衆からのナショナリズムは善、上からのナショナリズムは悪」などの立場に立たない。
<ナショナリズムとは、どんな問題なのか>
・ケドゥーリーのナショナリズム論では「政治の単位と民族の単位が一致するのが正統な統治形態」とし、ゲルナーの定義(前述)と同様である。これらからナショナリズムと国家は不可分である事が分かる。
・アンダーソンはネーションを「想像の共同体」としている。この概念が独り歩きしているが、ネーションと国民国家は正確には別物である。整理すると、ナショナリズムはネーションの単位と政治の単位は一致すべきと云う原理であり、国民国家は国家の1つの形態である。
・あらゆる共同体は「想像的」であり、ネーションを「想像的」として批判できない。また共同体における類似性は「客観的」なものではない。※難解。
・アンダーソンは「ネーションは主権(意思決定権、統治権)を持ち、他の共同体と区別されるべき」としている。
・アンダーソンは「ネーションが主権を持ったのは、出版資本主義からの言語(出版語)の共通性による」としている。それは意思決定に言語が必要なためである。※スロヴェニアの独立も言語が基礎になった。でも英語/仏語/スペイン語などは複数の国で話されているが。
・ネーションの成立に一義的なものは、「言語の共通性」である。そのため多人種/多民族のネーションも存在し得る。※少し納得。
・「言語の共通性」と「人種の同質性」は開放性で異なる。人種は生まれた時点で決するが、言語は開放的である。
・ネーションの成立には①近代主義的理解②伝統主義的理解がある。ホブズボーム/ゲルナー/アンダーソンは「ネーションは近代に成立した」とする①近代主義的理解に立つ。一方②伝統主義的理解は「ネーションの原型は近代以前に存在した」とする説である。
・社会学者アントニー・スミスは両者をすり合わせ、ネーションは「エトニ」(土地、血縁、歴史、言語、文化などエスニックなもの)を基盤として成立したとした。※この方が正しそうだが。
・ネーションの成立に大きく影響するのが、言語の範囲と統治権力の範囲であるが、この範囲が一致していないと、民族の分離独立運動などが起こる。
・ネーションにより統治されているのが国民国家で、これは国家の一形態である。それを支えるのがナショナリズムである。
・マックス・ウェーバーは「国家は正当な物理的暴力行使を独占する共同体」と定義している。「正当な物理的暴力行使」とは犯罪者に対する処罰などを指す。また「正当」とは道徳的な正当性ではなく、法的/合法的な正当性である。※何か暴力に限った矮小な定義だ。
・国家は唯一法的決定ができ、それが主権である(※それは民主的になされているはずだけど)。
・国家は明確な境界を持ち、その範囲で主権を独占している。また主権国家間の戦闘が戦争である。国家以外による武力行使は犯罪となる。これらの概念は近代(16世紀以降)に成立した。
・ナショナリズムを批判するのに、パトリオティズム(愛国主義、地域主義)を対置させているが、これは問題解決になっていない。※パトリオティズム?
<国家をなくせるか>
・国家を否定する考えは多々ある。これらは権力に対する潔癖性や道徳性から起きている。国家をなくすと、物理的暴力行使をせず、自らの決定を貫徹する必要があるが、これは不可能である。
・詩人/思想家川満信一は『琉球共和社会憲法私案』(以下私案)を発表した。沖縄は日本に返還されたが、米軍基地は残存した。その怒りから「共和国」ではなく「共和社会」となっている。
・彼は宮古島出身で、宮古島は琉球王国に搾取された歴史を持つ。彼は沖縄が独立しても、新たな国家権力が発生するのを知っており、私案で国家の廃絶を宣言した。
・西川長夫は「クレオール性」から沖縄の独立を支持しているが、思考に曖昧さが多い。※クレオールは中南米に住む白人子孫だが。
・川満は私案で、法律を廃絶し、物理的強制力を行使する軍隊/警察/官僚機構/司法機関を撤廃すると記した。これは不可能で、国家を廃絶すると、国家は反復される。
※無政府主義ってのがあったが、どんなものだったか?
・私案は「この憲法に賛同する者は、誰でも琉球共和社会の人民になれる」と記している。これは「ポスト国民国家」の思想である。これはパレスチナでのイスラエル建設を想起させる。
・ある地域が脱国家化しても、法的決定の貫徹には物理的強制力が必要で、統治機構は必要なのである。法の理念に同意し、法を無条件に遵守する人のみであれば「国家なき社会」は実現するが、物理的強制力の行使は不可欠である。
・次に「主権を超える自治/自立空間の形成」を考えてみよう。この理論はアソシエーション論/公共空間論/マルチチュード論などに見られる。
・「マルチチュード論」は伊国哲学者アントニオ・ネグリ/米国比較文学者マイケル・ハートによって書かれた。彼らは「グローバル化した今日、民主主義を担うのは同質性のネーションではなく、多様性のマルチチュードである」とした。
・日本の人文思想界が「マルチチュード」をしばしば援用するが、前提が間違っている。彼らは国民国家/世界銀行/IMF/WTO/多国籍企業などの資本主義の支配者を「帝国」とし、この「帝国」の主権を「主権」としている。この「帝国」にマルチチュード(新しい民主主義)が対抗するには、物理的強制力に対する「対抗暴力」が必要とした。
※昨年マルチチュードに関係する本を読んだが、こんな内容だったかな。
・彼らは「対抗暴力」について3つの原則を記している。①「対抗暴力」は政治的目標を追求する手段としてのみ使用する。これは「軍産複合体」への批判である。しかしこれは主権国家の物理的暴力と変わらない。
・②「対抗暴力」は自治と民主主義の防衛にのみに使用する。これは防衛的性格に留まる点で、主権国家の物理的暴力と変わらない。また「防衛的暴力に正当化は必要ない」としているが、これは最初の原則に反している。
・③暴力の使用は民主的に組織される(※難しい文章)。これは主権国家でも同じである。
・これらの結果から、ネーションと「マルチチュード」のロジックは同じである。国民国家の主権と「マルチチュード」の主権も同じである。「マルチチュード」は主権の反復に過ぎない。
・ただし集団がネーションなのか「マルチチュード」なのかの違いがある。しかし彼らは集団の共通性については考察していない。集団の共通性は言語でしかあり得ない。
・ネーションの同質性と「マルチチュード」の多様性が対置されるが、言語は開放性を持つため、ネーションは多人種/多民族が可能である。すなわち言語の共通性は多様性を満たしている。よって「マルチチュード」はナショナリズムの延長に過ぎない。
<ナショナリズムに何を負うか>
・ネーションと「マルチチュード」には多くの一致点があった。①自治と民主主義を目的とする②それを実現するためには暴力の行使が不可欠で、外部に対しては防衛、内部に対しては法の維持を目的とする③その暴力の行使は民主的に組織される。
・「マルチチュード」では、その暴力をいかに民主的に運用するかが重要になるが、彼らは上記3つに原則に加え、「どの様な武器が有効なのか考察が必要である」と付則している。そこで挙げられている武器が、キス・イン/カーニヴァル的要素/パロディ的パフォーマンス/大規模デモ/グローバルなストライキなど非暴力的活動である。
・これは彼らが「非暴力的活動が主権の決定に関与する」と考えているからである。普通選挙制などのナショナリズムにより国家が変化した歴史的経緯があり、この歴史的経緯を今のグローバル化した世界にも適用できると考えているからである。よって彼らの考えもナショナリズムに依拠している。
・ではそのナショナリズムの成立を見てみよう。ゲルナーは「集団/集権的に教育され、文化的に同質化された組織からナショナリズムは成立した。その切っ掛けは産業化であった」とした。
・ゲルナーによると、「農耕社会」では支配層と非支配層の差異化が安定をもたらした。その後「産業社会」になると人々は農村から流出した。この流動化により「言語の共通性」が要求され、さらに「言語の共通性」は文化の同質化を促した(ナショナリズムの成立)。国家は言語を統一/標準化し、教育制度を整備した。軍隊の存在も同質化を促した。
※ネーションの成立でも「言語の共通性」としていたよな。
・ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは国民国家の成立には資本主義経済が必然であったとした。またその資本主義経済が発達する条件に①身分制から解放された労働力②自由な資本投下を挙げている。※これは生産要素の2つだな。本書は唯物史観かな。
・資本主義と国民国家は外在的なものとする考えがあるが、それは間違いである。国民国家は資本主義が円滑に機能する様に、社会を再編成してきた歴史がある。
・「グローバル化によりネーションは解体し、国民国家は消滅する」と盛んに云われたが、その気配はない。逆に若者の右傾化/極右政党の台頭などナショナリズムが激化している。
・国民国家が消滅しないのは、国民国家を超える世界レベルの政治的権力が存在しないためである。法の最終決定権は国民国家しか持たない。
・さて本題に入ろう。国家は物理的強制力に加え、流動化した人口に基礎的な能力/技能や習慣を身に付けさせる必要があった。
・ミシェル・フーコーは「規律社会」(規律、訓練)について書いている。彼は試験によって個人の規律/訓練の習熟度を評定でき、これによって生産性を高められるとしている。
・「規律社会」以前の社会では君主により残忍な身体刑が行われた。君主はこれで物理的優位性を示していた。しかしこの統治方法は君主の目の届く範囲では可能だが、それ以外の地域では効果がなかった。
・しかし資本主義経済が始まり、生産性を高める必要性から「人々の蓄積」(人々の活用)が重要になってきた。これにより「君主による報復」であった身体刑は、生産性を高めるための規律/訓練の中の刑罰に縮小された。
・「規律社会」が統治権力にもたらした変容は暴力に限らない。規律/訓練は権力の脱人格化をもたらした。これにより権力は国民化した。私達は権力が国民化した歴史的経緯を過小評価してはいけない。
・最後に1つ補足しよう。国民国家の暴力は巨大になり総力戦をもたらし、さらに最悪のファシズムももたらした。国民国家の国内産業は戦争を後方で支える補給基地になった。
・これらの事から国民国家を否定する意見もあるが、それは間違いである。その理由は2つある。①国民国家がなくなっても、暴力は必要である(前述)。問題は暴力をコントロールできるかである。②軍事テクノロジーの発達で総力戦の可能性が低下した。
・国民国家は規律/訓練を通じて人口を統合する事で成立した。ファシズムはこの国民国家の延長だが、人口が「血」を守るために暴力に訴えたのがファシズムである。また別の見方では、国内経済の衰退を放置し、戦争で海外市場の拡大を図ったのがファシズムである(※前者が独国で、後者が日本かな)。国民国家がファシズムに向かうのは、特定の要因があるからである。※今のロシアや中国はファシズムに入らないな。
・国内経済の衰退によりナショナリズムがファシズムに向うのを防ぐには、経済政策/社会政策が重要となる。グローバル化を肯定する反ナショナリズムこそ、国内経済を衰退させ、ファシズムを呼び起こす可能性が高い。
・ナショナリズムが成立した歴史的経緯を理解せず、ナショナリズムを道徳的に批判するのは避けるべきである。