『モンの悲劇』竹内正右を読書。
ラオスに住む民族モンを解説。モンは近隣勢力の紛争に巻き込まれ、分裂し「民族破壊」の危機に4度直面します。
ベトナム戦争は広く知られているが、ラオスは同様に代理戦争の場になったんですね。知らなかった。
モンの位置付けは、クルド人をさらに弱くした感じかな。
人名/組織名/地名などが多出するので、メモなどが必要。時系列も多少前後するので大変。
また背景である仏国によるインドシナ支配、ラオス内戦、ベトナム戦争、中越戦争などの知識もあった方が良い。
お勧め度:☆☆(膨大なルポルタージュと云える)
キーワード:<モンとの出会い>モン、インドシナ戦争、<米国のモン>移住、コントラ軍、<仏領インドシナ>パッチャイの反乱、トゥビー/バン・パオ将軍/ファイダーン、シェンクワン州、マキ/阿片/民族破壊、インドシナ共産党/ベトミン/自由ラオス戦線、<ディエンビエンフー陥落>毛沢東/ザップ将軍、第1次インドシナ戦争(1946~54年)/ジュネーブ和平協定、<特殊戦争>ラオス内戦(1953~75年)、パテトラオ、白星隊/モン特殊攻撃部隊/現地人主義、第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争、1960~75年)、ホーチミンルート/ロンチェン、モン狩り/ボール爆弾/エア・アメリカ、ファティ陥落、<ロンチェン陥落>人民民主共和国、ビア山塊、CP38、<中越戦争(1979年)>ホーチミン、MIA/POW、モン掃討作戦、<新インドネシア>ASEAN、阿片・ヘロイン中毒/エイズ禍、不発弾(UXO)、モン難民、<終わりなき抵抗>楚/屈原/項羽
<モンとの出会い>
・1960年高校生だった著者はジョン・ウェインの映画『アラモ』を見て心を踊らせた。当時米国で「ジョン・ウェイン・シンドローム」が起きていた。翌年ケネディ大統領はラオスでモンの特殊部隊を創設する。
・モンは仏軍/米軍/ベトミン/北ベトナム軍/パテトラオ(後述)に招集され、多くの犠牲者を出している。しかしその実態はベトナム/米国などにより隠蔽されている。
・モンは清の時代に中国から逃れた「苗族(ミャオ族)」の末裔とされる。モンは精霊崇拝(シャーマニズム)など独自の文化を持つ。
・インドシナ戦争は3度行われた。特に第2次インドシナ戦争(ラオス内戦、ベトナム戦争)は、ラオスを反共の砦とする米国と、南北ベトナム統一さらにインドシナ制覇を目指すベトナム労働党(北ベトナム)との壮烈な戦いであった。モンはこれらの戦いに巻き込まれ、多くの犠牲者を出した。
<米国のモン>
・米国にはモンが16万人居住している。彼らはシャーマニズム信仰で、儀式に阿片/黒豚を用いる。また夜這いなどの風習もある。
・米国では白人貧困層の増大から、「英語公用語化法案」の提出、不法移民への医療/教育の停止、「アファーマティブ・アクション(少数者優遇措置)」の撤廃法案などの移民への当て付けが始まった。
・カリフォルニア州フレスノ市(モン6万人が居住)に「ラオ・ファミリー・コミュニティ」の本部があり、モン移住者を支援している。彼らはラオス人/ベトナム人を支援している。※ラオスにはタイ族の一派ラーオ族(Lao)が住む。
・モンの米国での移住先はカリフォルニア州/ミネソタ州に集中している。移住者は仏軍「マキ」や米国の特殊部隊に参加した者、およびその家族である。市民権を得るために軍役に志願する者も多い。移住者の1/3は米国生れで、また移住者の1/3がクリスチャンに改宗している。
・米国モンの統括指導者バン・パオ将軍は「ネオ・ホム運動」(ラオスからのベトナム兵追放)を進めている。
・1981年レーガン大統領はモンの米国移住を認める替わりに、ニカラグアの左派政権に対するコントラ軍(反革命軍)へのモン招集を試みた。
・1996年ワシントンDCで「モン青年会議」が開かれた。そこではモンの歴史/モン・コミュニティの現状/モンと米人の将来などが討議された。
・1991年現ラオス共産党政権によるタイからラオスへのモン強制送還/ラオス国内でのモン掃討作戦(何れも後述)に対し、米人からも抗議が起こった。
・モンはホームページを立ち上げ、インドシナ戦争で米兵の4倍の犠牲者を出した事、ケネディ/ニクソン政権でのラオス内戦が秘匿された事、ラオスでの「黄色い雨」(化学兵器の使用)などを訴えている。
・モンは米国以外に、仏国/仏領ギニア/豪州/カナダなどに移住している。
<仏領インドシナ>
・モンは清朝(1616~1912年)に対し反乱を3度起こす。1800年モンは清朝から逃れ、ベトナム(阮朝、1802~1945年)に第1回目の流入をする。1860年モンは「太平天国の乱」の敗残兵と共にベトナムに第2回目の流入をする。
・1897年仏領インドシナ総督府の中央集権機構が完成する。総督府は住民に対し人頭税/土地税を課し、阿片/塩/アルコールなどを専売とした。仏軍はモン/タイ族を民族内の対立を利用し「分割統治」した。
・1917年パッチャイはディエンビエンフーで仏軍/タイ族/ベトナム人/ラオス人に反乱する。
・仏軍はモンのリ氏族トゥビー・リ・フォン(モンの王様)/バン・パオ(後に将軍)/ロ氏族ファイダーン・ロ・ブリヤーオ(革命英雄)の3人を対立させる事で、「分割統治」した。1941年日本軍が仏印進駐する。トゥビー/バン・パオは仏軍に付き、ファイダーンは共産軍に付いた。
・日本軍が敗北すると、シェンクワン州にはベトミンの旗が翻るが、バン・パオらが直ぐにベトミンを排除する。トゥビーは学校を創設するなどして侯爵を受ける。トゥビーは仏軍「マキ部隊」(以下マキ)を率い、インドシナ共産党指導下の「自由ラオス戦線」と戦う。しかしモンは山岳民族として蔑まれた。
・一方ファイダーンはベトミンから軍事を学び、「自由ラオス戦線」議長スファヌボン(後のラオス初代大統領)と共闘する。ファイダーンはシェンクワン州/サムヌワ州/フォンサリー州と支配を広げる。
・仏対外諜報機関(SDECE)と仏空軍降下部隊(GCMA)トランキェール大佐は、ベトナムに反感を持つモンに武器を与え、仏軍マキを創設する。1951年仏軍マキの首領にトゥビーが就く。※イラクへの米国軍事顧問の派遣も同じ手法かな。
・仏軍マキの軍資金は阿片取引で調達した。そのためケシ栽培地の統制が重要であった。阿片輸送の重要地点ディエンビエンフーでは、タイ族は仏軍とベトミンに分裂し、「民族破壊」となった。
・阿片取引にSDECE/麻薬組織ビン・スエン/インドシナ銀行/エア・フランスが関与していた(ピアストル取引)。
・1954年仏軍はベトミンにディエンビエンフーで敗北する。1955年4月南ベトナム軍と麻薬組織ビン・スエンの対立が米諜報機関CIAと仏諜報機関SDECEの対立に発展する。5月仏首相はインドシナからの仏軍撤退に同意する(第1次インドシナ戦争終結)。仏軍撤退後のベトミンも阿片を重視した。
・1930年香港/九竜でホーチミンなどが「インドシナ共産党」を創設し、1941年軍事部門「ベトミン」を創設する。その後ラオスで共産党の浸透が始まる。1951年「ベトナム労働党」が創設され、インドシナ共産党は自然分解となる。
・1945年8月日本敗北後、シェンクワン州の村々にはベトミンの旗が翻る。ベトミンはロ氏族ファイダーンを阿片輸送の7号線の司令官にする。1950年ベトミンは「自由ラオス戦線」(ネオ・ラオ・イサラ)を創設する。イサラ軍(※パテトラオ?)にはカー族が6割、モン/ヤオ(※共にミャオ・ヤオ族)などが4割であった。イサラ軍はラオスで対仏軍事活動を行い、仏軍マキに味方するモンの居住地を襲撃した。
・ベトミンも仏軍同様に山岳民族を「分割統治」した。これはモン最初の「民族破壊」である。
<ディエンビエンフー陥落>
・毛沢東の祖先毛太華は朱元璋の軍人で、雲南省の山岳民を妻とした。毛沢東は東征中に広西省でモン兵士と出会う。彼らはポルトガル人により阿片漬けにされていた。
・1949年毛沢東は中華人民共和国を建国すると、ベトミンのボー・グエン・ザップ将軍と「民族解放戦争計画」を討議する。中国共産軍は対国民軍/対仏軍からベトミンを支援する。ベトミンに武器を輸送する時、モン兵士を含む仏軍マキと交戦する事もあった。1954年「ディエンビエンフーの戦い」でも毛沢東はザップ将軍に弾薬を供給し続け、これがベトミンの勝利を導いた。
・仏対外諜報機関(SDECE)とインドシナ共産党の諜報機関「リン・サット」は暗号解読合戦を行う。
・ベトミンのザップ将軍は1953年サムヌア/シェンクワン、54年ポンサリー/アトプーを制圧する。
・1954年7月「ジュネーブ和平協定」が成立し、第1次インドシナ戦争(1946~54年)は終結する。しかしこれによりベトナムは南北分裂に向かう。※戦争終結辺りの説明はない。
・ベトミンは山岳民族のベトナム人化を進める。山岳民族をハノイに送り、軍事訓練をした。1959年ベトナム労働党は「ホーチミンルート」開拓のため「559団」を中部高原に送る。ホーチミンルートは「ベトナム戦争」時、北ベトナムから南ベトナムへの重要な補給路になる。また反サイゴン/反米の「南ベトナム解放民族戦線(NLF)」を創設する。※「南ベトナム民族解放戦線」?
・中部高原はベトナム戦争の戦場になり米軍の爆撃などで、山岳民族100万人の内、20万人以上が死亡したとされる。1975年サイゴン陥落後は、逆に米軍に味方した山岳民に対しソ連製枯葉剤などが使用され、多くの犠牲者を出した。1976年ベトナム共産党は土地解放政策に反するため、山岳民族の自治区を廃止する。
・1953年米国家安全保障会議(NSC)や仏ナバール総監は「インドシナは自由世界の砦」とし、50万人を超す仏軍をベトナム人化する。その中には「モン特殊攻撃部隊(HSGU)」があった。
・1954年ディエンビエンフーは陥落しベトミンの旗が翻るが、その時トンキン湾では米空母が原爆を積んで控えていた。第1次インドシナ戦争で米仏が敗北した原因は、①情報蒐集の貧困②米仏の内部対立にあった。またその最大の犠牲者はモンを含む仏軍マキであった。その仏軍マキは米軍の「モン特殊攻撃部隊」に変化していく。
・タイは米国反共戦略の後方陣地となり、アイゼンハワー大統領は軍事/非軍事でタイを支援した。
<特殊戦争> ※特殊戦争とは正規戦争に対し、ゲリラ戦などを指す。
・1959年親米のラオス王国政府と共産主義の「パテトラオ」(自由ラオス戦線の軍事部門)との内戦が始まる(ラオス内戦、1953~75年)。※この辺りの説明はない。
・1955年米国は「計画評価事務所(PEO)」を創設し、王国軍を支援する。当然PEOは「モン特殊攻撃部隊(HSGU)」と連携している。1961年PEOは「米軍事顧問(MAAG)」に組織が変わる。
・ケネディ大統領(アイルランド出身)は特殊部隊を「白星機動訓練部隊」(以下白星隊)に編制し、米軍機を民間航空会社「エア・アメリカ」に配置転換し、タイのウドン基地を民間最大の軍事基地にした。白星隊はモン青年狩りに拍車をかけ、モン特殊攻撃部隊は強化された。
・1955年反共産主義諸国が「東南アジア条約機構(SEATO)」を創設する。1961年SEATO軍2万3千人はラオスに投入される。これは費用対効果を重視するアダム・スミス(アイルランド出身)の「現地人主義戦術」である。※アダム・スミスはこんな事も考えていたのか。
・バン・パオ将軍率いるモン特殊攻撃部隊1万1千はグリーンベレーを被る。1968年ジョン・ウェイン(アイルランド出身)が自作自演する反共映画「グリーンベレー」が制作される。
・第1次インドシナ戦争の天王山はディエンビエンフー攻防とすれば、第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争、1960~75年)の天王山はチェポン攻防(ホーチミンルートの要衝)とロンチェン攻防である。1961年ロンチェンは白星隊とバン・パオ将軍により軍事要塞基地になる。ロンチェンは文明と野蛮の接点でもあった。
・米軍はモン狩りを行った。狩った少年/青年をタイの基地(※複数の基地が記されているが省略)で訓練し、前線に投下した。北ベトナム軍/パテトラオが浸透した村(モンの居住地を含む)にボール爆弾/対人地雷を投下した。※他に多数の軍事作戦が記されているが省略。
・民間航空会社「エア・アメリカ」は米人/ラオス人/タイ人/フィリピン人/台湾人を雇い、爆撃機/輸送機を24機所有していた。エア・アメリカは類似の複数の航空会社を翼下に置いていた。エア・アメリカはモンの居住地に米/塩/薬品/武器などを投下する一方、ケシ栽培を強要した。
※こんな会社があったのか、驚き。
・米人ポップ・ブエルはラオスに入り、モンの学校教育/定期医療に熱情を注ぐ。当時モン難民が20万人いた。「国際救援委員会(IRC)」「兄弟作戦(OB)」などの後方支援組織は前線で医療活動を行った。
・1973年著者は13号線沿いの「新生活村」(避難地)を訪れた。当時はラオスには70万人の難民がいた。※難民数が異なる?
・1964年「ベトナム労働党」は対モン特殊攻撃部隊のため、ザップ将軍が指導す軍事作戦指導団「959団」をラオスに派遣する。シェンクワン州カンカイはパテトラオの司令部になり、中国の使節団も入る。毛沢東は第2次インドシナ戦争でも北ベトナム軍/パテトラオを支援し、中国の軍人/民間人32万人以上を投入している。
・ベトナム労働党は軍事作戦指導団「959団」をラオス人民党/ファファン州サムヌアに派遣する。959団はパテトラオを訓練する。
・第1次インドシナ戦争は仏軍マキとベトミン/自由ラオス戦線の戦いであったが、第2次インドシナ戦争(ラオス内戦)はモン特殊攻撃部隊と北ベトナム軍/パテトラオの戦いであった。どちらもモンとモンの戦いである。
・パテトラオにはカー族が6割、モン/ヤオなどが4割であった。ラオス内戦でもモン狩りが行われ、前線に投入された。北ベトナム軍/パテトラオが浸透したモンの居住地はベトナム化され、ケシ栽培を強要した。収穫された阿片を取り上げ、それで中国から武器を購入した。
・北ベトナム軍は1961年チェポンの要塞化、1968年ファティ攻撃、1969年ロンチェン攻撃などを行う。ファティはハノイ/サムヌア/ホーチミンルート空爆の基地になるが、1968年1月陥落する。米国はファティ陥落を隠蔽した。
<ロンチェン陥落>
・1975年4月31日サイゴン陥落。5月10日パテトラオは南部パクセ制圧。5月14日ロンチェンはモン特殊攻撃部隊とその家族の修羅場になる。バン・パオ将軍はヘリコプターでロンチェンから脱出する。パテトラオは5月31日中部サバナケット、8月18日王都ルアンプラバンを制圧する。
・1975年12月スファヌボン大統領は「人民民主共和国」の樹立を宣言する。副大統領にロ氏族ファイダーン・ロ・ブリヤーオ/カー族シートン・コマダムを就ける。これはインドネシア共産党の山岳民族共産化の賜物である。しかし両者共、「ラオス人民改革党」中央委員会には加われなかった。これはベトナム共産党(ベトナム労働党から改称)への隷属であった。※モン2人/カー族8人が中央委員会に加わったと前述があったが?
・1976年1月著者は13号線沿いのバンビエン(ロンチェンの西方)で、モン特殊攻撃部隊の家族の脱出を目撃する(※他にもメコン河を渡ってタイに脱出するなどを目撃しているが省略)。
・ラオス全土でモンの伝統儀式(シャーマン儀式、モン正月、歌垣、独楽回し、竹馬など)が「資本主義的」として禁止される。
・1977年ベトナムとラオスは、ビア山塊(モンの聖山、ラオスの最高峰)に立て籠るモン特殊攻撃部隊の掃討作戦を強化する軍事協定を締結。ベトナム共産党は「959団」に替わる顧問団「CP38」を「ラオス人民革命党」中央委員会に送り込む。
・1975~78年ビア山塊でモン特殊攻撃部隊とベトナム軍/CP38の戦いが続いた。ベトナム軍はナパーム弾/化学弾(化学兵器)を使用し、モンは5万人余りの犠牲者を出した。第2次インドシナ戦争(ラオス内戦、ベトナム戦争)は、エア・アメリカとベトナム共産党によるモンの第2期「民族破壊」であった。
<中越戦争>
・1976年12月ベトナム共産党大会で「ベトナム北部(ベト・バク、タイ・バク)/ベトナム中部高原にベトナム人を移住させる」(新経済区への人口再分配計画)が決議させる。また親中国派は一掃される。
・1977年末より中国人民解放軍とベトナム軍/パテトラオの衝突が頻発する。1979年1月ベトナム軍のプノンペン侵攻に続き、「中越戦争」(第3次インドシナ戦争、1979年)が勃発する。中越戦争後、ベトナム共産党はベトナム北部(ベト・バク、タイ・バク)で中国に協力したモン/タイ族を報復する。
・ラオスで道路建設していた中国人民解放軍は引揚げ、旧ラオス王国軍/旧南ベトナム軍/政治犯がそれを引き継いだ。ラオスでもベトナム軍/CP38によるモン/タイ族の監視が強まる。これに反発したモンは中国に逃れ、反ベトナム工作を行う。これらはベトナム共産党によるモンの第3期「民族破壊」であった。
・1980年代中国はラオス北部/タイ東北部からモンを招集し、武器を与え、軍事訓練している。
・スファヌボン大統領/ファイダーン副大統領は翼下のモンに、ビア山塊に立て籠もるモン特殊攻撃部隊に参加しない様に訴えた。
・1981年著者は首都ビエンチャン近郊の13号線沿いで、ベトナム軍が対人・対戦車砲/軽機関銃を手にして、モン特殊攻撃部隊からの脱出者を掃討するのを目撃した。著者は王国時代から税を払い、居住票を得ており、ラオスに残る西側で唯一の記者だった。
・1982年ラオス人民改革党大会の最前列には、ベトミン/959団/CP38に始終従ったロ氏族ファイダーン副大統領が座っていた。この大会の演壇中央にはホーチミン胸像が置かれ、大会終了後にはホーチミン肖像画が溢れた。これは中越戦争後のモスクワとハノイの覇権争いの結果を示していた。
・1977年ラオス首相カイソーンは麻薬撲滅キャンペーンを立ち上げるが、一方でモスクワと阿片取引をしていた。
・1982年戦時行方不明者(MIA)/戦時捕虜(POW)を救出する「ラザルス作戦」が行われる(※これは米兵かな?)。1990年ビルマのシャン州でPOW救出のため、モンを訓練する。1991年ハノイにMIA事務所が常設され、1993年ラオス/ベトナム/米国によるMIA合同調査が始まる。※この辺り救出作戦と阿片取引が絡んで、難しい。
・1989年ラオスでモン自治区作りは進むが、ベトナム軍/パテトラオの自治区破壊作戦も続けられる。1990年ラオス北西部シアンルムが自治区宣言するが、これに対しベトナム軍は空爆している。
・1990年タイ/ラオス国境のモン居住地をタイ軍がナパーム弾で空爆する。これは非合法のタイ共産党員がモン居住地に逃げ込んだためである。
・著者はラオス北部ウドムサイ州でモン掃討作戦をするベトナム軍を目撃している。またベトナム人の女性が、夫がウドムサイ州でモン掃討作戦中に地雷で爆死したとの証言をプノンペンで得ている。
※ベトナムも酷い国だ。一旦国に武器が入ると、その後何年も紛争が続く。ユーゴスラビア、アフガニスタン、ベトナム全て同じ。
<新インドネシア>
・1967年共産主義への対抗から、経済発展を目的としたASEANが発足する。インドシナ3国共産主義革命(1975年)から22年後の1997年、ラオスはASEANに加盟する。
・この背景に①ラオス-1986年ナカン・マイ(新思考)経済開放/ラボップ・マイ(専制度)による国営企業の民営化、②ベトナム-1986年ドイ・モイ(刷新)経済政策/1989年ベトナム軍のカンボジア/ラオスからの撤退、③1991年タイ首相の提唱「インドシナを戦場から市場へ」、④1991年ソ連崩壊、⑤1991年カンボジア和平があった。
・共産主義の崩壊はソ連に代表されるが、ソ連崩壊により少数民族のシャーマン儀式/祭り/捕鯨などが復活した。ラオスはこれらを恐れ、自治区を抑制し、一党独裁を強めた。
・ベトナムも同様に、山岳民族の直接統治を強化した。これはベトナム北部(ベト・バク、タイ・バク)のモン60万人/ラオスのモン45万人/モン特殊攻撃部隊の残留部隊が連携するのを恐れたためである。
・ベトナムは「新経済区計画」でベトナム北部から中部高原に、キン族(ベトナム人)30万人/ザオ族(ヤオ族)30万人/モン族30万人を移住させた。これにより森林が伐採され、洪水が度々起こった。
・ベトナム北部/ラオス/ビルマ/中国(雲南、貴州、広西)では市場開放/国境自由化により、ケシ栽培が下請け化し、黒社会「黒幇」が暗躍する。これにより山岳民族で阿片・ヘロイン中毒の低年齢化/エイズ禍が拡大している。これは黒社会によるモンの第4期「民族破壊」であった。
・1997年ベトナムはカンボジアと「地域麻薬撲滅協定」に署名し、UNDCP(国連麻薬統制計画)と共に「国家麻薬撲滅計画」を推進している。
・ラオスでは内戦終結後の22年間(1977~1999年)で、ボール弾の不発弾(UXO)で5,633人が犠牲になっている。ラオス17州の内、16州で犠牲者を出している。モンの居住地は戦場になったため、パテトラオからの帰還者/タイから許された帰還者がUXOの犠牲になった。
・1996年ラオス政府は労働・福祉省にUXOに対処する団体「UXO-LAO」を設立し、「UXO処理訓練センター」で処理訓練/警告訓練/医学訓練を行っている。
・モンの居住地は水力発電用ダムの建設予定地になっている。
・タイはインドシナ戦略としてモン難民のバンビナイ・キャンプを設けていたが閉鎖する。その内1万人は米国に再定住し、残りはラオスへの送還が討議されている。
<終わりなき抵抗>
・ビア山塊ではモン特殊攻撃部隊3千人が、今なお抵抗を続けている。
・1994年「楚」があった湖南省で「国際苗族文化研究会」が、1ヶ月間に亘り開かれた。そこでは「苗族」「モン」「なぜモン文字はないのか」などが議論された。
・苗族(モン)は詩人屈原/英傑項羽などを輩出しているが、春秋戦国時代の「楚」を最後に国を樹立していない。