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『羽生城と木戸氏』冨田勝治を読書。

室町・戦国時代における関東での興亡を解説。
羽生城(はにゅう)は上杉謙信(越後国)に付き、北条氏康/氏政(相模国)と戦います。しかし戦国末期(1574年)羽生城は北条勢の勢力下になります。

関東は室町時代初期から戦乱が続いていたんですね。
上杉謙信の行動力には驚きます。米と金がそれを支えたのかも。

登場人物も多く、古文の引用もあり、戦国時代に相当興味がある方向け。

お勧め度:☆

キーワード:<羽生城とその周辺>羽生城/屋敷町/城下町、<羽生城主 木戸氏/広田氏>小山義政の乱/木戸貞範/木戸修理亮、上杉禅秀の乱/木戸満範/木戸範懐/木戸氏範、永享の乱/足利持氏/木戸持季、結城合戦、享徳の乱/足利成氏/古河公方/太田道灌、足利晴氏/足利藤氏/北条氏康/長尾景虎(上杉謙信)、広田氏/木戸忠朝、<戦国時代の羽生城>忍城/皿尾城/成田長泰、甲相同盟/臼井城/越相同盟、反北条氏、関宿城、木戸範秀(元斎)/菅原左衛門佐(広田為繁)

<羽生城とその周辺>
○羽生城跡を探る
・今は羽生城の痕跡は残っていないが、付近に「古城天満宮」「城山稲荷」などが残る。戊辰戦争時、幕府軍が羽生城があった場所に陣屋を置くが、官軍が焼き払った。
・1660年羽生城近くに葛西用水が掘削される。羽生城はの3方が沼で、西だけが陸続きであった。※この辺りは利根川が幾つにも分流していた場所だな。

・羽生城の面積は『寛永検地帳』では23町、『承応検地帳』では27町とある。大聖院(大正院)辺りが大手で、この辺りは「士辺」と呼ばれ、屋敷町であった。屋敷町の西が城下町で、城下町の中央を南北に本町通りが走り、その南両端に「木戸門」があった。

○羽生城の支城
・『埼玉の城館跡』に羽生城の支城13が記されている。①堀越屋敷(羽生市)②堀之内城(羽生市)③館山(加須市)④寄居(羽生市)-城主川俣氏は羽生城落城後、庄内に逃れた⑤内手(羽生市)⑥堀の内(羽生市)-城主磯氏は成田氏(忍城)と戦った⑦外の内(羽生市)-越後国から来た斎藤氏は羽生落城後、成田氏に仕えた⑧古城(羽生市)⑨風ッ張(羽生市)⑩源長寺(羽生市)⑪本光寺(羽生市)⑫花崎城(加須市)⑬倚井の陣屋(北川辺町)。

<羽生城主 木戸氏/広田氏>
○木戸氏の出自
・木戸氏は新田氏の出とされ、上野国木戸郷に居した。木戸伊豆守忠朝時代に羽生領を有した。

○鎌倉/古河公方と木戸氏
・木戸左近将監貞範(法季)は鎌倉公方足利基氏/氏満に従った。1380年「小山義政の乱」が起き、彼は副将として出陣している(主将は関東管領上杉憲方)。乱後、上杉憲方が下野国守護、彼は下野国守護代となる。※守護代になるので、相当な名門だな。
・1386年若犬丸(小山義政の遺子)が反乱し、下野国守護代木戸修理亮(貞範の子)は討たれる。

・関東管領が上杉禅秀(氏憲、犬懸上杉家)から山内上杉家(上杉憲基)に戻る。1416年上杉禅秀が反乱し、鎌倉公方足利持氏/関東管領上杉憲基を攻める。上杉禅秀は鎌倉を制圧するが、上杉房方(越後国上杉家)などに攻められ自害する(上杉禅秀の乱)。
・この乱で木戸将監満範(木戸貞範とは遠戚)は足利持氏に、木戸内匠助範懐(修理亮の子)/木戸駿河守氏範(修理亮の孫)は上杉禅秀に付いた。その後、後者2人も足利持氏に従う。
・1419年「上総本一揆」で、木戸範懐は足利持氏に命じられ大将として出陣し、一揆側の大将を捕えている。1423年「小栗満重の乱」でも、彼は足利持氏に命じられ大将として出陣している。

・1438年足利持氏は子(義久)の元服に将軍の諱(いみな)を受けず、幕府との対立を深める。関東管領上杉憲実(憲基の子、山内上杉家)は呆れて上野国に去る。幕府勢が足利持氏を討伐するため相模国に入るが、この時木戸左近大夫将監持季(修理亮の子)は陣を張っている。翌年足利持氏は自害する(永享の乱)。
・1440年春王/安王(足利持氏の遺子)が反乱を起こす。上杉憲実/関東管領上杉清方(上条上杉家)/上杉持朝(扇谷上杉家)は結城城(結城氏、下総国)を攻める。翌年結城城は落城し、木戸左近大夫将監(持季?持季の子?)も討死する(結城合戦)。

・1449年足利成氏(持氏の遺子)が鎌倉公方に就く。1454年彼は父の仇から関東管領上杉憲忠(憲実の子)を殺害する(享徳の乱)。翌年彼は幕府勢に攻められ、鎌倉から古河に逃れ、古河公方になる。古河城は関宿城(簗田氏)/栗橋城(野田氏)/菖蒲城(佐々木氏)などを支城とした。彼は武蔵国/上総国/下総国/安房国などを勢力下に置いた。
・1456年足利成氏は岡部原合戦で上杉憲信(深谷上杉家)と戦い、1459年上杉房定(越後国上杉家)と戦う。1475年山内上杉家の家臣長尾景春(白井長尾家)は足利成氏に寝返る。扇谷上杉家の家臣太田道灌はこの平定に活躍する。
・1483年足利成氏と幕府/上杉家との和睦が成立する。この頃、木戸三河守孝範(範懐の子)が太田道灌に仕えている。
※古河公方/山内上杉家/扇谷上杉家、何れも内紛が起こるが、北条家の台頭で結束を始める。

・1535年足利晴氏(成氏の曾孫)が古河公方に就く。彼は北条氏綱の娘を後妻とし、足利義氏が生まれる。1552年北条氏康の圧力で足利藤氏(長男)を差し置いて、足利義氏が古河公方に就く。1554年北条氏康は古河城の足利晴氏/藤氏を攻め、足利藤氏は里見氏に逃れる。1561年長尾景虎(上杉輝虎/謙信、越後長尾家)は足利藤氏/里見氏に味方し、小田原城を攻撃している。

○広田氏と木戸氏
・広田氏の祖先は菅原道真で、その末裔に『更級日記』を書いた菅原孝標女がいる。その後忍氏を名乗り、さらに一族が忍保広田郷に移住し、広田氏を名乗った。
・広田小次郎朝影と木戸孝範の娘が結婚し、木戸大善大夫範実(正吉)が生まれる(1564年頃から木戸氏を名乗る)。その子が広田直繁/木戸右衛門大夫忠朝(伊豆守)である。
・羽生落城後、木戸範秀(元斎、忠朝の子)は越後国/庄内で活躍する。

<戦国時代の羽生城>
○初期の羽生城
・羽生城の近くにある小松神社の御正体三宝荒神に広田直繁/木戸忠朝の名が刻まれている。この辺りが彼らの地盤であった。
・1554年北条氏康により足利晴氏/藤氏の古河城が落城するが、その時広田直繁/木戸忠朝の羽生城も奪われる。しかし1560年広田式部大夫(直繁)/河田谷右衛門大夫(木戸忠朝)は関東管領上杉憲政/長尾景虎に付き、羽生城を奪回する。関東に出陣した長尾景虎は、厩橋城(上野国)/生山/館林城(上野国)で北条勢と戦う。

○羽生城と皿尾城の攻防
・忍城(武蔵国)の北西1Kmに皿尾城がある。1561年長尾景虎は忍城(成田長泰)を抑えるため、河田谷忠朝(木戸忠朝)を皿尾城城主にした。成田長泰は上杉憲政/長尾景虎に寝返り、小田原城を攻撃している。しかし成田長泰は長尾景虎に侮辱されたとして、北条勢に戻る。

・1561年から越後勢と「甲相同盟」(北条、武田)との戦いが始まる。松山城(武蔵国)/騎西城(武蔵国)/忍城/金山城(上野国)/関宿城(下総国)などの争奪戦になる。上杉輝虎(謙信)は小田城(常陸国)/佐野城(下野国)などを攻めている。
・1566年上杉輝虎は成田長泰/広田直繁/木戸忠朝らと臼井城(下総国)を攻める。上杉輝虎はこの戦いで敗れ、宇都宮城(宇都宮氏、下野国)/金山城(横瀬氏、上野国)/忍城(成田氏長)/佐野城(佐野氏、下野国)/館林城(長尾景長)/厩橋城(北条高広)などが離反する。
・1567年上杉輝虎は反撃に出て、北条氏政を岩槻城(武蔵国)に追いやる。
・1568年武田信玄が「甲相同盟」を無視し今川氏を攻め、1569年北条氏康は上杉輝虎と和睦する(越相同盟)。
※この頃の関東はオセロ状態だな。

・1569年武田信玄は鉢形城(北条氏邦、武蔵国)/小田原城(北条氏政)を攻める。上杉輝虎は由良成繁(金山城)を通じて北条氏政と連絡を取った。
・1570年上杉輝虎は佐野城を攻めるが、広田直繁(羽生城)/木戸忠朝(皿尾城)も参陣する。彼は館林城を広田直繁に、羽生城を木戸忠朝に与えた。また彼は北条氏秀を養子に迎え、自身の”景虎”の名を与え、自身は”謙信”と名乗った。

○危うし羽生城
・館林城主となった広田直繁は館林土橋善長寺で自害したとされるが、確かではない。
・1571年武田信玄は羽生城を攻める。彼は反北条氏(簗田氏/里見氏/佐竹氏)を味方に付け、東武蔵国に侵攻した。しかし武田本隊は駿河国で今川氏/北条氏と戦っていた。

・1571年北条氏康が亡くなり、北条氏政は「越相同盟」を解消し、武田信玄と講和する(甲相同盟)。反北条氏の簗田氏(関宿城)は越後勢に付き、北条氏繁(岩槻城)/北条氏照(栗橋城)が関宿城を攻める。反北条氏の佐野氏(佐野城)/上杉憲盛(深谷上杉、深谷城/武蔵国)なども越後勢に付いた。
・1572年上杉憲盛は北条氏と和睦し、北条勢に寝返る。

・1572年四面楚歌となった越後勢の羽生城(木戸忠朝)は、北条氏照(栗橋城)/成田氏長(忍城)に攻められる。1574年鷲宮神社の案内で北条氏繁も羽生城を攻めている。
・1573年上杉謙信は越中国に出陣し、関東に出陣できず、1574年になり沼田城(上野国)に出陣する。上杉謙信は羽生城の対岸まで来るが、利根川の増水で渡れず、兵糧/弾薬を送って、沼田城に引き返す。しかしこの兵糧/弾薬は北条勢に奪われていた。

○羽生/関宿両城の落城
・1574年上杉謙信は関東に入ると、鉢形城/成田領/松山領/深谷城を焼き払う。さらに足利領/館林領/新田領(金山城)/佐野領を焼き払う。
・上杉謙信と佐竹義重は小山で関宿城の応援を話し合うが、意見が合わず。上杉謙信は関宿城を佐竹義重に任せ、自身は利根川を渡り、騎西城(武蔵国)/菖蒲城(武蔵国)/岩槻城を攻める。
・一方佐竹義重は北条勢と和睦し、関宿城を開城する。

○落城後の将兵と城領
・1574年羽生城は自落する。明らかではないが、木戸忠朝/重朝親子は羽生城近郊で戦死したと思われる。木戸範秀(元斎、忠朝の子)はその後、越後国に移住している。
・1578年上杉謙信が亡くなり、景勝と景虎が家督争いを始める。これにより上野国は武田勝頼と北条勢の争いの場になる。菅原左衛門佐(広田為繁、直繁の子)は上野国に残り、その後正能(武蔵国)に戻った。
・木戸氏の旧臣酒井家/湯本家/三木家/鈴木家/松本家などは今も羽生市に在住している。羽生城自落後、成田氏が羽生城城主になり、木戸氏の旧臣は成田氏に仕えた。また羽生領は成田氏長領/栗橋領(北条氏照)/古河公方領/鷲宮神社領/菖蒲領などに分割された。

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