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『イタリアの統一』ポール・ギショネを読書。
フランス革命からイタリア統一までの約80年間(1789~1870年)を解説。
イタリアはサルデーニャ王国(ピエモンテ王国、北西部)/ロンバルド=ヴェネト王国(北東部)/教皇領(中部)/両シチリア王国(南部)などに分裂していたが、ピエモンテの主導で統一されます。

イタリアの統一は、波動の様に進みますが、フランス(ナポレオン3世)支援によるオーストリアからの独立とも云えます。
重要人物は、マッツィーニ、カヴール、ガリバルディでしょうか。
イタリア統一は明治維新と同じ頃で、イタリアも若い国ですね。またイタリアは今なお南北問題を抱えています。

80年間で成された事を1冊に凝縮しているので、内容が濃い。しかも翻訳なので文章が難しい。

お勧め度:☆(イタリアに関心が高い方)

キーワード:<リソルジメント>イタリア統一運動、<啓蒙主義から旧体制復興>啓蒙運動/ローマ教皇領/ピエモンテ王国/ナポリ王国/ロンバルディア王国/トスカーナ公国、ジャコビーノ、ナポレオン/姉妹共和国、イタリア王国/同族国家、<ロマン主義的革命の失敗>カルボネリーア、スペイン憲法、亡命者/マッツィーニ/青年イタリア、経済発展、1848年革命/カルロ・アルベルト/ピウス9世、<雌伏10年>カミッロ・カヴール、クリミア戦争、トリノ、<イタリア王国の形成>ナポレオン3世/プロンビエール密約、ガリバルディ/千人隊遠征/ナポリ併合、イタリア王国、<苦難に満ちた統一>普墺戦争/ヴェネト併合、普仏戦争/ローマ併合

<リソルジメント>
・「リソルジメント」は、1849年から1870年に起こったイタリア統一運動です。
・「リソルジメント」を①イタリア伝統的な現象②フランス革命の帰着③人口爆発により経済/政治の転換が起こった④フランスの啓蒙運動で地盤が作られ、統一の気運が起こった、などの対立する見解がある。※いきなり難解。

<啓蒙主義から旧体制復興(1789~1815年)>
○啓蒙専制君主の功罪
・イタリアの啓蒙運動は、国が細分化されているため地域主義になった。
・イタリアの啓蒙運動はフランスの影響を強く受けた。①イタリアの豊かな地域(北部)を支配するオーストリア(マリア=テレジア、ヨーゼフ2世)は啓蒙主義を実践していた(※これがフランスの影響?)②ローマ教会の活動/権限をジャンセニスム(※知らない、勉強不足)から縮小させた。

・ジェノヴァ/ヴェネツィア/ローマ教皇領などでの啓蒙運動は一過性であった。
・ピエモンテ王国(首都トリノ、サヴォイア家、以下ピエモンテ)はフランス的体制とオーストリア的改革を行った。
・ブルボン朝(※スペイン・ブルボン家)ナポリ王国(以下ナポリ)の宰相タヌッチは改革を進めた。
・ロンバルディア王国はオーストリアの影響で、封建制の軽減、異端審問/検閲の禁止、同業組合の廃止、宗教施設の閉鎖などの改革が行われた。※オーストリアは改革が進んでいたんだ。
・トスカーナ公国(以下トスカーナ)ではロンバルディア以上の改革が行われ、啓蒙思想で称賛された。

・欧州経済は地中海から大西洋に移り、イタリア経済は危機的であり、農民は貧困化した。フランス革命は逆に啓蒙専制君主を反動化させた。

○イタリアのジャコバン派(1789~99年)
・1750年以降突発的な反乱が起こっていたが、フランス革命の神話(国民議会、国民公会)により、イタリアのジャコバン派(ジャコビーノ)は革命の露払いになった。
・1794年からジャコビーノはフランスからスローガンを受け取り、イタリア諸公国で活動を活発化させた。
・1792年サヴォイアはフランス共和国に併合される。フランス共和国の干渉でピエモンテの内政は混乱した。イタリア諸公国で反乱が起き、彼らは三色旗(緑、白、赤)を掲げた。

・1796年イタリア方面の指揮官となったナポレオンは北イタリアで連勝し、多数の共和国(チスパダーナ、リグリア、ローマ)を建国する。ナポリはパルテノペア共和国になり、1799年フランスのイタリア支配はピエモンテ併合で完結する。
・フランスはイタリアの姉妹共和国を自国と同様の政治体制に作り変えた。総裁政府の憲法を課し、納税額による制限選挙で選任されたエリートに執行権を与えた。これはイタリアに「受動的な改革」を乗り越えたい願望を呼び起こし、統一への起点になった。
・1799年英露連合軍が北イタリアに侵攻する。ナポリは枢機卿や英国艦隊により奪回された。1802年英国と仏国の講和条約(アミアン和約)が締結される。

○ナポレオン時代(1800~15年)
・1799年ナポレオンは第1総裁に就く。1802年彼はチザルピーナ共和国(旧チスパダーナ共和国)の大統領に就き、国名をイタリア共和国(首都ミラノ)に替える。フランスに倣って教会財産の売却、県/地区/町村の設置などを行った。
・ナポレオンは皇帝に就くと、1805年イタリア王に就き、国名もイタリア王国になった。イタリアは①フランスに併合(ピエモンテ、リグリア、エトルリア、パルマ、教皇領マルケなど)②イタリア王国③ナポレオンの親族が領する同族国家(ルッカ、グァスタッラ、ナポリ王国)の何れかになった。

・イタリアの旧体制はフランスにより解体された。封建制度の廃止、宗教財産の国への譲渡などが行われた。この中で自由主義者が育った。
・対英国大陸封鎖から②イタリア王国と③同族国家は「経済的植民地」にされ、経済が衰退した。しかし貨幣の統一/フランス的スローガンの定着/道路整備などがなされ、ヴェネツィア/フィレンツェ/ナポリ/ミラノ/ローマなどは、この恩恵を受けた。
・1814年ナポレオンはロシア/ドイツに敗れ、降伏する。ウィーン会議はメッテルニヒが主導し、正統主義の原則から自由な民族運動を抑圧し、1789年以前の権利を回復する方向に向った。

<ロマン主義的革命の失敗(1815~49年)>
○新しい世界
・オーストリアは北イタリアの豊かなロンバルディア/ヴェネトを支配し、ロンバルド=ヴェネト王国(首都ミラノ)にする。さらにオーストリアはパルマ/モデナ/トスカーナなども支配した。教皇領は教皇ピウス7世に返還された。ブルボン家もナポリ/シチリアを回復した。サヴォイア家もピエモンテを回復し、さらにジェノヴァ共和国を併合する。
・イタリアが8ヶ国に分裂した状況を、革命家マッツィーニ(後述)は悲観した。ピエモンテは権威主義/軍国主義/伝統主義が復活し、ブルジョワジー/ジャンセニスト/ジャコビーノは失望した。

・北イタリアでは識字率は6割に達していたが、中部/南部では2割しか文字が読めなかった。
・貴族/聖職者は啓蒙主義/革命思想を批判した。一方で鉄道/貯蓄銀行/農業生産の改善/工業発展などを支持する穏健改革派が存在した。彼らはイタリア統一への感性/心性を育み、組織化されていった。
・歴史は「リソルジメント」に取ってお誂えとなる。文学/音楽も独立/自由の気運を呼び覚ました。

・イタリアは秘密結社のメッカだが、フリーメーソンはナポレオン体制により没落する。しかしその残滓である「カルボネリーア」はイタリア、特にイタリアの絶対主義国家に広まり、復古体制に抵抗した。
・1820年ブルボン朝のナポリで反乱が起き、「1812年スペイン憲法」が認められるが、まもなく制圧される。
・1821年ピエモンテではサヴォイア家傍系の摂政カルロ・アルベルトがスペイン憲法を批准する。国王カルロ・フェリーチェが帰国すると、これらを反故にした。
・イタリア各国での革命の失敗により、教皇領/オーストリアは反動(弾圧、裁判、大量検挙)を強めた。

・1831年「フランス7月革命」に呼応し、北イタリアのモデナで革命が起き、臨時政府は「イタリア諸州連合」を宣言する。しかしフランスの援助は受けられず、オーストリアに制圧される。

・1821年/1831年の革命の失敗は「カルボネリーア」を衰退させた。彼らの思想は、ナポレオンとオーストリアの情緒的否認に過ぎなかった。
・革命の失敗により多くの「亡命者」が生まれた。彼らはジュネーヴ/パリ/ブリュッセル/ロンドンに亡命し、立憲王政/折衷主義/政治的中庸/プラグマティスム/リベラリスムなどを学んだ。

・1830年頃から「リソルジメント」は①マッツィーニの「共和主義的民主主義」②1848年以降のイタリアを形成する「ブルジョワ的穏健主義」に分かれる。
・マッツィーニの政治思想はイタリア統一の根源である事は疑いようがない。1831年彼はマルセーユに亡命し、「青年イタリア」を結成する。彼は雑誌『青年イタリア』でイタリアの使命を掲げ、統一を第一目標にした。この思想はイタリア中に広まった。
・1831~46年イタリア各地(ピエモンテ、ロンバルディア、教皇領、ナポリ、シチリアなど)で反乱が起こるが、制圧される。これらの反乱の失敗からマッツィーニ神話から②「ブルジョワ的穏健主義」に移行した。

○経済的革新と中道派の進出
・1820年年代に入るとイタリアも経済発展が始まる。穀物生産は580万㎥(1750年)が、1,260万㎥(1850年)に倍増、貿易総額は2.75億リラ(1830年)、4.25億リラ(1840年)、6.5億リラ(1850年)と順調に増加する。輸出品は繊維製品(絹織物、毛織物、綿織物)が中心であった。しかし農業生産は人口増加に追い付けない状況であり、また南イタリアでは13人に1人しか土地を所有していなかった。
・銀行/信用金庫/保険会社が北イタリアで増加した。1840年頃から鉄道も整備され始める。これらの経済発展により土地所有者/工場制手工業者は「国境のない連邦制」「統一国家イタリア」を願う様になる。

○1848年の革命 ※第1次イタリア独立戦争
・1848~49年と1859~61年はイタリア独立/イタリア統一にとって重要な時期である。
・ピエモンテ国王となったカルロ・アルベルトは、改革派にも反動派にも期待を与えた。オーストリアとの関係を強化する一方、民法/刑法を公布すると仄めかし、自由主義経済に転換する準備を整えた。彼は古い特権/制度を廃止、最高裁判所の設置、行政改革、警察の規制などを行った。
・1846年教皇となったピウス9世は、自由主義者の恩赦、出版の自由化、閣僚/議会の設置、国防軍の創設などの改革を始める。

・1848年シチリアではブルボン朝からの分離派が暴動を起こし、臨時政府が「1812年憲法」を布告する。ナポリでは国王が憲法の制定を約束する。ピエモンテでも「絶対王政の廃止」が叫ばれ、憲法を公布する。
・教皇ピウス9世は絶対主義的権力を破棄し、上院と議会(下院)を設置した。ただし上院は指名制で、議会(下院)は制限選挙であった。

・1848年「フランス2月革命」でルイ=フィリップの王政が倒れた。欧州各国で蜂起が続き、ミラノ/ヴェネツィアでも反乱が起きた。
・カルロ・アルベルトはサルデーニャ軍をロンバルディアに侵攻させる。当初サルデーニャ軍が優勢だったが、劣勢になりオーストリアと休戦する。ピウス9世はオーストリアとの分裂を避け、参戦しなかった。

・1848年ピエモンテの年間収入は7,300万リラであったが、戦争により公債を3度発行(2,100万リラ、4,800万リラ、3,200万リラ)。さらに借入(ジェノヴァ銀行2,000万リラ、ロスチャイルド家4,800万リラ)で1億7,000万リラの借金を負った。権力は自由主義的司教ヴィンチェンツォ・ジョベルティから左翼のウルバノ・ラッタッツィに移る。
・ピウス9世は行政改革のためフランスの経済学者を最高指導者として招くが暗殺される。ローマの臨時政府は教皇廃位とローマ共和国(1849年)を宣言する。トスカーナでも民主派が権力を握り、共和国宣言する。

・カルロ・アルベルトは再度ロンバルディアに侵攻するが敗れ、王位を息子に譲る。トスカーナではレオポルト2世が復位する。ローマ共和国はフランス軍に占領される。1849年ヴェネツィアの降伏で「1848年革命」は終焉する。イタリア全土は軍事/警察による反動の波に覆われる。しかしピエモンテだけは、憲法を含む自由な制度を維持した。

<雌伏10年(1849~59年)>
○マッシモ・ダゼーリョとピエモンテの回生(1849~52年)
・1849年ピエモンテでは現実的中道派のマッシモ・ダゼーリョが首相に就き、境界裁判権の廃止などを行う。1852年中道派カミッロ・カヴールが首相に就く。

○カヴールの時代(1852~59年)
・カミッロ・カヴールはカヴール侯爵の次男に生まれる。思想は英国的でフランス語が堪能であった。農業を体得し、金融も学んだ。彼は「政治的要求と経済的要求は同根」と信じた(※唯物論かな)。フランス/ベルギー/英国などに長く滞在し、そこで啓示を受けた。中道/教育の重要性/教会と国家の分離などを認識していた。※この辺り文章が詩的で難しい。
・しかしカヴールには2つの問題があった。彼は王に対する敬意が薄く、2人の関係は悪化する一方であった。また彼は「理論的にはリベラリズム、実践的にはマキャヴェリズム」で議会との政権運営に問題があった。

・1848年憲法では王が指名する「上院」と制限選挙の「下院」で構成された。カヴールの第1目標は議会での多数派の形成で、中道右派とラッタッツィが率いる中道左派の連合で実現した。1854年修道院の財産を国が管理する法を成立させ、保守系カトリックとの対立が深まる。1857年選挙ではかろうじて過半数を得る。
・カヴールは経済/財政を得意としたが、公債発行は4億2,000万リラ(1850年)から7億2,500万リラ(1858年)に増大し、財政をロスチャイルドなど外国資本に頼った。
・しかしサルデーニャ(ピエモンテ)はイタリア経済の原動力で、1849年から10年間で消費財は倍増した。カヴール運河や鉄道の建設も進んだ。商船保有量はナポリを越え、ジェノヴァの海上輸送量はヴェネツィア/ナポリの倍以上あった。1860年貿易総額でも小国ピエモンテが4億3,500万リラで、続くのが大国ナポリの2億4,500万リラであった。

・「クリミア戦争」(1853~56年)では、1854年オーストリアはロシアから英国=トルコ=フランス同盟に加わる。1855年カヴールも同盟に加わり、サルデーニャ軍を送る。1856年パリ会議では「イタリア問題」は取り上げられなかったが、その存在を列強に認識させた。

・1857年革命家マッツィーニはジェノヴァに戻り、南イタリアで暴動を起こすが失敗する。一方愛国主義団体「イタリア国民協会」が設立され、カヴールはこれを宣伝に使った。またトリノはイタリア各国から、政治家/議員/経済学者/歴史家/詩人などの多くの自由主義者/愛国主義者を迎い入れた。

<イタリア王国の形成(1859~61年)>
○フランス=サルデーニャ同盟と1859年の戦い ※第2次イタリア独立戦争
・「イタリア問題」に大きな影響力を持つのはナポレオン3世であった。1858年ロマニア伯爵オルシニによるナポレオン3世を爆殺未遂事件が発生している。ナポレオン3世とカヴールはイタリアを4地区(北イタリア、教皇領、トスカーナ、両シチリア)に統一する計画を立てた(プロンビエール密約)。

・1859年カヴールはオーストリアからの武装解除の要求を拒絶し、オーストリアはサルデーニャに侵攻する。ナポレオン3世が最高指揮官になり、サルデーニャ国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世はその指揮下に就いた。ジュゼッペ・ガリバルディはアルプス猟兵隊を指揮した。
・トスカーナではレオポルト大公を追放し、臨時政府が組織され、統一派/親ピエモンテ派が優位となる。モデナ/パルマ/ロマニア/ボローニャでも同様の反乱が起きた。
・そんな中ナポレオン3世はオーストリアと予備的平和協定を結ぶ(ヴィッラフランカの休戦)。

○中央部の併合とニース/サヴォイアの譲渡(1859~60年)
・イタリア中央部(トスカーナ、モデナ、パルマ、ボローニャ)の議会はピエモンテへの合併を決議する。1860年ピエモンテは中央部を併合するが、代償にニース/サヴォイアはフランスに割譲される。

・1860年イタリア統一を悲願し社会主義/反教会主義のジュゼッペ・ガリバルディは、ジェノヴァ近郊からシチリアに遠征する(千人隊遠征)。彼はパレルモを占領し、臨時政府を立てる。1861年彼はさらにイタリア本土に上陸し、ナポリ王国を崩壊させる。
・南イタリアの合併は外交的にも承認され、イタリアで残すはローマとヴェネトのみになる。1861年「イタリア王国」は建国され、カヴールは初代首相となるが、ローマとの交渉中に亡くなる。

<苦難に満ちた統一(1861~70年)>
○新興国イタリア王国の問題
・イタリアは天才的水先案内人カヴールを失い安定せず、南イタリアは反乱などで荒廃する。イタリア経済は停滞し、財政赤字は4億4,600万リラ(1862年)、貿易赤字は4億1,100万リラ(1864年)となった。人口増加による食糧不足から、西欧/新大陸への移民が始まった。

○ローマ問題(1861~66年)
・カヴールに続きリカーソリが首相に就く(1861~62年)。彼は王国の分裂を恐れ、州/郡を設置するなど中央集権化を進める。※イタリア統一まで短期政権が続きます。
・1863年マルコ・ミンゲッティが首相に就く(~1864年)。彼は中断されていたローマ問題に取り組み、1864年ローマからのフランス軍撤退の約束を得る(9月協定)。これに対しピウス9世は『誤謬表』を発表し抵抗する。

○ヴェネツィア併合(1866年) ※第3次イタリア独立戦争
・1864年ラ・マルモラが首相に就く(~1866年)。1866年「普墺戦争」が始まり、イタリアも参戦する。イタリアは苦戦するが、プロイセンの短期間での大勝利でヴェネトを獲得する。
・ガリバルディは志願兵を率いて度々ローマに侵攻するが、フランス軍に阻まれる。

○首都ローマ
・1869年ジョヴァンニ=ランツァが首相に就く(~1873年)。1870年「普仏戦争」でナポレオン3世の敗北が明白になると、イタリア軍がローマを占領する。翌年イタリアの首都をローマに移す。ピウス9世は「教皇保障法」に合意せず、1929年「ラテラノ協定」で和解となる。

<リソルジメントは不完全な改革か?>
・1871年イタリアは領土の統一を成し遂げる。しかしマッシモ・ダゼーリョが「イタリアは作られた、あとはイタリア人をつくらねば」と言った様に、民族意識は根付かなかった。また南部では土地を所有し、国を愛する市民階級を作る事ができなかった。
・その原因は①拡大が続く南北の不均衡②支配階級による商業の独占にある。また1876年からの左翼政権は民族主義/軍備増強/植民地主義であり、ファシズム体制の萌芽となった。

・戦後のイタリア共和国は「リソルジメント」の愛国者たちが希求した市民的進歩を達成していない。この国は今なお、支配階級の腐敗、財政でのスキャンダル、暴力、マフィア/カモッラの危機で揺れ動いている。
※この章は詳細の説明がなく、理解不可能。

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