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『知っておきたいアメリカ意外史』杉田米行(2010年)を読書。

米国の独立から現代までの歴史を解説。

政治/経済/外交/社会など、多領域を解説しているので大変面白い。知らない事もあって、大変良かった。
米国は連邦だけでなく、州も存在するので、少しややこしい。

お勧め度:☆☆☆

キーワード:<独立宣言>ボストン茶会事件/コモンセンス、<南北戦争>奴隷制度/綿花栽培、リンカーン/奴隷解放宣言、<アメリカ国歌、国旗>星条旗よ永遠なれ/天国のアナクレオンへ、星条旗、<奴隷の格差社会>教会、<二大政党>共和党/民主党、人種差別政策、F.ルーズヴェルト/ニューディール政策、公民権運動/公民権法、南部戦略、無党派層/予備選挙、<社会党、共産党>アメリカ社会党/アメリカ共産党、<ニューディール政策>大恐慌、戦時経済体制、<医療保険制度>国民皆健康保険/公定診療報酬、メディケア/メディケイド、マネジドケア、医療貯蓄口座(HSA)、<謀略>ルイジアナ/テキサス/西部/アラスカ/ハワイ、プエルトリコ/グアム/フィリピン、真珠湾攻撃、トンキン湾事件、<原爆>京都/広島/長崎、<女性の権利>家庭、禁酒運動、財産権、参政権、労働、公民権法、<ヴェトナム戦争>ドッジ・ライン/朝鮮戦争、東南アジア

<アメリカ史の裏側>
○独立宣言は英国王への悪口
・1776年北米植民地13州は『独立宣言』を発表します。『独立宣言』は3部からなり、第1部には有名な自由/平等が記されています。また不正な政府を廃する「革命権」も記されています。ところが第2部は一転して、英国王ジュージ3世の悪口/愚痴が列挙されています。※知らなかった。

・1619年(最初の入植から12年後)北米植民地に議会が設立されるなど、人々の政治意識は高かった。教育は盛んで、北部では私立学校、南部では家庭で教えた。その後も入植は盛んで、1775年人口は250万人に達する(※日本と比べると遥かに少ないのでは)。

・英国は「フレンチ・インディアン戦争」(1754~63年)で仏国に勝利し、カナダとミシシッピー川以東を獲得する。英国は北米植民地に「砂糖法」「印紙法」などで課税する。1773年「茶法」を制定すると植民地人の不満が高まり、「ボストン茶会事件」が起こる。「米国独立戦争」は重税が原因と思われているが、実際は「代表なくして課税なし」に代表されるように、本国議会に代表を送っていない事が原因であった。

・1775年レキシントン/コンコードで「米国独立戦争」が始まるが、植民地人は英国王を誇りに思い、独立は意識していなかった。ところが1776年『コモンセンス』が発表されると、君主制から共和制への機運が起こり、この流れで『独立宣言』が発表される。
・当時独立に関し3つのグループが存在した。①様々な人からなる「愛国派」は独立を支持した。②英国と関係が深い「忠誠派」は和解を切望した。③他に混乱を恐れる「中立派」が存在した。人口の半数に近い「愛国派」は「中立派」を独立に傾けるため、『独立宣言』の第2部で英国王を中傷した。

○南北戦争は奴隷解放の戦いではなかった
・1783年「米国独立戦争」は「パリ条約」で終結し、アメリカ合衆国が正式に成立する。この時ミシシッピー川以東を獲得する。獲得したミシシッピー川以東に対し「北西部条例」「南西部条例」を制定したが、北部は奴隷制度を禁止したが、南部は認めていた。その後も領土を西に拡大するが、各州で「自由州」になるか「奴隷州」になるかで議論になる。

・1812年「ナポレオン戦争」で英国が海上封鎖したため、米英間で「1812年戦争」(~1814年)が起こる。これにより北部では工業/流通/金融などが発展する。一方南部は「綿花栽培」が盛んで、奴隷制度が必然であった。
・南部の白人は4階級に分かれていた。①プランテーションの経営者(3%)②小規模の奴隷王(22%)③ヨーマン(自営農、65%)④貧乏白人(10%)。南部の白人は自身のプライドを保持するためにも、奴隷制度を必要としていた。

・1860年大統領選では西部の奴隷制度が争点になる。共和党(奴隷制度容認)/北部民主党(住民投票)/南部民主党(容認)/立憲連合党(保留)の4党が争い、共和党リンカーンが当選する、同時に上下両院選挙があり、そこでも共和党が過半数を得る。選挙結果に危機感を感じた南部7州は「南部連合」を創設する。
・1861年リンカーンがサウスカロライナ州の連邦政府の要塞に援軍を送り、「南北戦争」(~1865年)が始まる。北軍が南部に侵攻するにつれ、奴隷の扱いが問題となる。また英国は南部の綿花を重視していたが、奴隷制度には反対であった。
・1862年リンカーンは「奴隷解放予備宣言」をする。「南北戦争」の目的は「連邦維持」であり、「奴隷解放」は手段に過ぎなかった。

○アメリカ国歌、国旗
・「1812年戦争」は米国の劣勢であったが、米軍はマックヘンリー要塞を維持し、この時詠まれた愛国詩『星条旗よ永遠なれ』が国歌の歌詞になる。
・1860年代『天国のアナクレオンへ』が愛国詩と共に歌われるようになった。1889年米海軍長官がこの曲を国旗掲揚時に演奏するように命じた。1931年正式に国歌に制定される。
・1991年スーパーボールでホイットニー・ヒューストンが歌った国家はシングルリリースされ、同年のヒットチャート20位に入った。

・米国では毎朝生徒が国旗に向かい「忠誠の誓い」を述べている。
・「米国独立戦争」時「大陸旗」があったが不評のため、1777年「星条旗」が制定される。1818年現在の様式となる(横縞13本、星は州の数)。国旗が根付いたのは、南北戦争の時である。
・国旗に関し、1940年「ゴビティス事件」、1989年「ジョンソン事件」「国旗焼却事件」などの訴訟が起こっている。

○奴隷の格差社会
・1619年北米植民地に最初の黒人が到着したが、彼らは渡航費を返すと自由になった。しかし17世紀後半になると労働力不足になり、奴隷制度が必要になる。18世紀半ば奴隷は重宝され、仕入れ値の3倍で売れた。
・奴隷には階層があった。①最も高いのは、奴隷主の邸宅に出入りできる「家内奴隷」②次に高いのは、「奴隷職人」を監督する「奴隷頭」③靴・馬具職人/大工/庭師などの「奴隷職人」④その他の畑で作業する奴隷であった。すべての黒人が奴隷だったわけでなく、1860年頃黒人の11%が自由人であった。

・奴隷は日中は畑で綿花栽培などを行い、夜は奴隷小屋に泊った。奴隷の結婚は推奨された。それは奴隷主の財産を増やすからである。しかし奴隷はあくまで奴隷主の所有財産であり、家族が勝手に引き離される事が多々あった。
・奴隷は日中以外の時間は自由で、工作や養鶏/養豚などを行った。夜間は音楽やダンスを楽しんだり、狩猟や魚釣りをする事もあった。日曜には教会に通った。自由/平等を教えるため、禁止する奴隷主もいた。

<不可思議な政治、経済>
○二大政党
・今は民主党はリベラル、共和党は保守だが、以前は異なっていた。1789年最初の大統領選が行われるが対抗馬がなく、ジョージ・ワシントンが大統領に当選する(1792年も同じ)。

・その後財務長官アレクサンダー・ハミルトンを中心とし、有能な指導者による中央主権国家を目指す「フェデラリスト党」と、国務長官トーマス・ジェファーソンを中心とし、州権を重視する「民主共和党」が形成される。
・1796年大統領選では「フェデラリスト党」ジョン・アダムスが大統領、「民主共和党」ジェファーソンが副大統領に当選する。これは憲法で得票順としていたため。
・1800年大統領選では「民主共和党」ジェファーソン/アーロン・バーが同数になり、下院の決選投票で決まる。これは前回の混乱を避けるため、民主共和党員がジェファーソン/アーロン・バーのペアで投票したため。同時に行われた上下両院選挙でも「民主共和党」が過半数を得て、政情が安定する。一方の「フェデラリスト党」は衰退する。
・1830年代「民主共和党」は州権を重視する「民主党」と、連邦政府を重視する「ホイッグ党」に分裂する。共に安定した全国政党になる。

・1860年代両党は西部の奴隷制度を巡って分裂する。「民主党」は奴隷制度の可否を住民投票で決める「北部民主党」と、連邦法で維持する「南部民主党」に分裂する。「ホイッグ党」は奴隷制度に反対する「北部ホイッグ党員」は「共和党」(1854年結成)に合流し、奴隷制度を容認する「南部ホイッグ党員」は「南部民主党」に合流した。これにより全国政党はなくなった。※何か今の民主党/共和党と逆の感じ。
・南北戦争(1861~65年)後に権力を握った「共和党」は、南部白人の10~15%の選挙権を剥奪し、逆に奴隷解放された黒人70万人に選挙権を与えた。これにより「共和党」の支持者は南部にも広がり、全国政党になった。奴隷制度の決着で南北に分裂していた「民主党」は対立点がなくなり再統合する。

・憲法では投票権を制限する事は禁じられていたが、南部諸州は州法で奴隷(?)の投票権を制限した(祖父が投票権を持っている事など)。
・1876年大統領選で「民主党」サミュエル・ティルデンが「共和党」ラザフォード・ヘイズに勝利したと思えたが、「共和党」が不正を訴え、妥協が成立し、ヘイズが大統領に就く。しかしこの妥協で南部から連邦軍が撤退する。これにより南部は「民主党」の牙城になり、人種差別政策が推し進められる。

・「共和党」「民主党」の経済政策は対照的であった。1870年代より米国は周期的に不況になるが、「共和党」は実業界保護から関税障壁を主張した。一方の「民主党」は農民保護から通貨量の増量/低関税/大企業の規制強化を主張した。1896年大統領選で「共和党」が勝利し、以降1932年大統領選まで大企業寄りの「共和党」が政権を独占する。

・1929年大恐慌になる。1932年大統領選で市場経済を重視し、無策の「共和党」は敗れ、「民主党」フランクリン・ルーズヴェルトが圧勝する。ルーズヴェルトは政府が経済に積極的に介入する「ニューディール政策」を行う。彼は労働者を保護する「全国労働関係法」(ワグナー法)や老齢年金/失業保険/児童福祉手当などの「社会福祉法」を成立させる。

・ルーズヴェルトを継いだハリー・トルーマンは、全ての国民が「公民権」を享受すべきと主張し、1948年「民主党」の南部保守派が離党し「州権党」を結成する。
・1954年公教育施設における白人/黒人の分離を憲法違反とする判決が下る(ブラウン判決)。1860年代「公民権運動」が盛んになる。1963年キング牧師が「私には夢がある」演説をする。1964年公立学校/公共施設での人種分離を憲法違反とする「公民権法」が成立する。この様に「民主党」はリベラル路線を推進する。

・「共和党」は南部白人の動揺を察知し、今までの「南部黒人の擁護」から「人種差別容認」に180度転換する(南部戦略)。これにより両党の力関係は逆転する。※初めて聞いた戦略だ。

・二大政党を比較すると、「共和党」は大企業の利益を優先し、「自由」「競争」を重視する。「民主党」は弱者を支援し、「平等」「公平」を重視する。社会面では「共和党」はキリスト教右派を支持基盤とするため、公立学校での祈り復活を求め、同性結婚/妊娠中絶に反対である。一方「民主党」は多様性を認めている。※現状は分かり易いが。
・両党共は基本は中道で、「共和党」はやや保守的、「民主党」はややリベラルである。しかし人種差別政策など、過去に大転換する時がある。
・近年「無党派層」が増加しており、大統領選では政党より候補者で選ぶ傾向にある。また「予備選挙」には多くの費用が掛かり、しかもその費用は候補者本人が負担する必要があり、この点でも候補者中心の選挙と云える。
・両党とも「党規律」はなく、議案の賛否を強制していない。よって議員は自分の政策を主張し、議員に当選している。※日本のように、全員右向け右ではない。

○アメリカ社会党、共産党
・米国は社会主義/共産主義を嫌悪するが、社会党/共産党も存在する。

・19世紀半ば米国は急激に経済発展する。1876年社会主義に共鳴する人が「労働者党」を結成し、翌年「社会主義労働党(SLP)」に改名する。
・1893~97年の不況は深刻で、人員整理/賃金引下げが断行された。1897年ユージン・デブズは「アメリカ社会民主党(SDPA)」を結成する。1901年SLPの穏健派がSDPAに合流し、「アメリカ社会党(SPA)」が結成される。SPAが発行する『理性への訴え』は75万部刷られた(当時『ニューヨーク・タイムズ』は20万部)。デブズは1900年から4回大統領選に出馬している。
・米国は移民の国だが、1890年代以前は北欧州/西欧州からの移民(旧移民)が中心だったが、1890年代以降はイタリア人/スラブ人/ギリシャ人/ユダヤ人(新移民)が中心となる。SPAはこの経済的に困窮している「新移民」に支持された。

・1917年米国が第1次世界大戦に参戦すると、SPAは反戦の立場に立ち、「スパイ防止法」により弾圧される(※どこの国でも一緒だな)。1919年親ボリシェビキ派が「アメリカ共産党」を結成し、SPAは分裂する。
・大恐慌後の1932年、SPAのノーマン・トーマスが大統領選に出馬し、88万票を獲得する。しかしルーズヴェルトが社会主義的政策(ニューディール政策)を実施したため、SPAの存在意義はなくなる。

・1920年「アメリカ共産党」は「赤狩り」で弾圧される。1932年大統領選で10万票を獲得するが、こちらも以降衰退する。
・「アメリカ社会党」「アメリカ共産党」は経済至上主義の米国に一定の役割を果たしたと思われる。

○大恐慌を克服したのはニューディール政策か
・1920年代米国経済は活況だったが、農業の不況/低賃金労働者/格差拡大などの問題があった。政府は経済に介入せず、1829年株価が大暴落し、大恐慌が起こり、4人に1人が失業する。この大恐慌を克服したのは「ニューディール政策」とされるが、疑問が投げ掛けられている。

・1932年大統領選で無策だった「共和党」は敗れ、「民主党」フランクリン・ルーズヴェルトが圧勝する。「民主党」は上下両院選挙でも勝利する。
・1933年ルーズヴェルトは「緊急銀行法」「銀行法」などで金融分野の安定化を図る。この時投資銀行と商業銀行を分離し、監督を強化した。農業分野では減反により豚/小麦/トウモロコシ/綿花/酪農品の生産量を減らし、農産品の価格を上昇させた。工業分野では業界毎に価格/賃金/生産高/ダンピング禁止などの規約を作成させ、過当競争を解消した。

・しかし1930年代半ばでも経済復興は見られなかった。そのため革新的な「全国労働関係法(ワグナー法)」「社会福祉法」を成立させる(※選挙対策?)。これにより1936年大統領選では前回以上に圧勝する。
・1937年社会保障税の納税/中央銀行による通貨量の削減により、再び不況に陥る。そのため公共事業(公共住宅、大陸横断高速道路)による景気刺激策を行う。しかしそれでも経済復興に至らなかった。
※それでもF.ルーズヴェルトは偉大だな。

・そんな中、経済を刺激する出来事が起こる。1941年日米開戦により「戦時経済体制」に変わる。米国の軍事費は50倍に増え、経済で軍需が占める割合は2%から40%に増大する。失業者は800万人(1940年)から67万人(1944年)に大幅に減少し、実質GDPは1.8倍に増大した。
・1933~39年で連邦政府はニューディール政策に275億ドルを費やしたが、4年足らずの「戦時経済体制」でその10倍以上の支出が行われた。

○4,600万人の無保険者
・2010年米国で「医療保険制度改革法」が成立し、先進国で最後に「国民皆健康保険」が導入される。それまでは初診料は最低200ドル/入院は最低1日2,000ドル掛かるため、病院に行かない人が大勢いた。2008年時点無保険者は4,600万人いた。※「医療保健」と「健康保険」は微妙に異なると思うが。
・また米国はGDPに対する医療費の割合が世界一大きい国である。それは米国には「公定診療報酬」がなく、医療費が医療機関によって異なるためである。
・米国では保険料が高いため、中小企業では被雇用者に健康保険を提供していない。そのため被雇用者でも民間医療保険に加入するしかない。

・リベラルな民主党は「国民皆健康保険」に賛成だが、共和党は健康な人に税を掛けたり、病気の人を甘やかすのは誤りとしている。また「公定診療報酬」を定めるのは市場原理に反すると批判している。
・フランクリン・ルーズヴェルトは「国民皆健康保険」の設立を検討していたが、アメリカ医師会(AMA)に反対され断念する。1948年大統領選で「国民皆健康保険」が争点になり、トルーマンが勝利するが、AMAのロビー活動で頓挫する。

・1965年65歳以上の高齢者を対象とする「メディケア」が始まる。「メディケア」では医療費の50~80%を国が補填している。「メディケア」の加入者は4千万人(2001年)を超えた。さらに貧困者を対象にした「メディケイド」も始まる。
・1970年代に入ると企業は被雇用者への保険料が増え、企業の競争力が低下する。これにより「マネジドケア」が注目される。「マネジドケア」は被保険者が効率的に医療サービスを受けれる様、保険会社が管理するサービスである。「マネジドケア」には多くの種類あるが、2008年「保健維持機構(HMO)」に6,680万人、「特約医療組織(PPO)」に5,970万人が加入している。※「マネジドケア」は初耳だ。

・1993年クリントン大統領は民主党の意見をまとめ「健康保障計画」を立てるが、共和党/AMA/雇用主/保険会社に反対される。
・1997年健康保険の自助を促進するための「医療貯蓄口座(HSA)」が、「メディケア」受給者に導入される。HSAは「積立型定期預金」に相当する。※これも知らなかった。

・2010年オバマ政権で成立した「医療保険制度改革法」では、HSAの医療費以外での利用の税率が高く、HSAが様々な保険の手段として発展すると思われる。
・共和党や保守派は「医療保険制度改革法」により財施赤字が増え、「大きな政府」になると予想し、これに反対している。

<アメリカの戦争>
○謀略に満ちたアメリカの戦争
・今の米国の面積は北米植民地13州の10倍もある。米国は「自由と民主主義の国」を理念とし、国土の拡大を正当化している。

・1783年「米国独立戦争」の「パリ条約」でミシシッピー川以東を獲得する。
・「フレンチ・インディアン戦争」(1754~63年)で仏国は敗れ、ミシシッピー川以西の「ルイジアナ」はスペイン領に移るが、1800年仏国に返還されていた。当時の仏国は「ナポレオン戦争」(1799~1815年)で軍事費を必要としていたため、1803年「ルイジアナ」を米国に1,500万ドル(2009年換算2億9千万ドル)で売却する。

・1821年メキシコはスペインから独立する。「テキサス」はメキシコ領であったが、米国人入植者が多く、1835年「テキサス独立戦争」が起こる。「テキサス」はこれに勝ち、翌年「テキサス共和国」になる。1845年米国は「テキサス共和国」を併合する。さらに翌年メキシコとの国境問題から「米墨戦争」が起き、米国はこれに勝利し、西部(今のオレゴン州からカリフォルニア州)を1,500万ドル(2009年換算4億2千万ドル)で購入する。
・1867年米国は「アラスカ」をロシアから720万ドル(2009年換算1億ドル)で購入する。

・1893年「ハワイ」では米国公使により王政が倒される。臨時政府は米国併合を要求する。1898年米国は「ハワイ」を併合する。※こんな事をするからハワイ王族と天皇家の婚姻話が起こるんだろうね。
・1895年「キューバ」でスペインからの独立運動が起こる。1898年ハバナ港に停泊していた米国戦艦「メイン号」が爆発する。スペインは米国の妥協案を受け入れず、「米西戦争」が始まる。米国はこれに勝利し、プエルトリコ/グアム/フィリピンを獲得する。キューバにあるグァンタナモ米軍基地は、この時永久租借されている。

・米国は1940年には日本の外交暗号「紫」を解読し、1941年末に日本が米英開戦するのを知っていた(※米国は外務省と海軍の暗号を解読していたはず)。1941年ドイツはロシアに侵攻し、欧州はドイツにアジアは日本に支配される恐れがあった。12月8日日本は真珠湾を攻撃するが、これは米国(フランクリン・ルーズヴェルト)には「渡りに船」であった。

・1954年「ジュネーブ協定」によりヴェトナムは南北に分裂する。1964年8月2日トンキン湾で米駆逐艦が北ヴェトナムの攻撃を受け、8月4日には魚雷攻撃を受ける。これにより北爆などの直接関与を始める(ヴェトナム戦争)。後日北ヴェトナム軍司令官は「8月2日の攻撃はあったが、8月4日の攻撃はなかった」と証言している。
※最近領空侵犯やレーザー照射があるので心配だ。

・米国は民主主義国家ゆえ、政策決定者は世論対策/議会工作が必要になる。そのため情報の取捨選択をし、「陰謀」と疑われる行動も多々ある。

○原爆は京都に投下?
・1942年米国はドイツに対抗するため原爆開発計画(マンハッタン計画)を開始し、1945年原爆は実用段階に入る。1945年4月フランクリン・ルーズヴェルトが死去し、トルーマンが大統領に昇格する。7月16日ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が行われる。7月26日「ポツダム宣言」が発せられるが、鈴木首相はこれを無視する。

・米国が原爆投下に踏み切った要因に以下がある。①本土決戦では米側の犠牲者が多大となる。実際に原爆投下により、日本の政策決定者は戦争終結に転換した。②戦後国際秩序に関し米ソの軋轢が見られ、日本降伏を米国優位で進めたかった。③政府は原爆開発に巨費をつぎ込んでおり、議会説明にその効果を証明する必要があった。

・原爆投下の候補地は会議(第1回4月27日、第2回5月10日、第3回5月28日)で京都/広島/横浜/小倉/新潟の順になる。その後「京都に投下すると日本人の恨みを買い、ソ連に傾く」として外される。
・2発目の原爆投下は、第1目標小倉/第2目標長崎であった。

○戦争で拡大した女性の権利
・18世紀「米国独立戦争」時、女性は英国製品の不買運動を行った。当時女性は結婚すると不動産の権利/契約書の署名/賃貸料の管理など、全ての権利は夫のものになった。しかし「共和国」は徳を重視し、家庭は徳を育む神聖の場であった。※米国人はやたらと家族やホームを強調するな。
・19世紀前半米国では飲酒が社会問題になる。1人当たりのアルコール飲料消費量(1830年)は現在の3倍以上あった。これに対し女性は「禁酒運動」をする。
・1803年米国は仏国より「ルイジアナ」を購入するが、仏国は大陸法のため「ルイジアナ」は「女性の財産権」を認めていた。19世紀半ばになると「女性の財産権」を認める州が増える。

・1848年エリザベス・スタントンなどが女性の権利に関する集会を開き、女性の財産権/離婚権/参政権など認める決議をする。
・1870年憲法修正第15条で「人種、肌の色、元奴隷などで投票権を制限してはいけない」となるが、この中に性は記されなかった。
・19世紀末になると、女性の参政権を認める州が、西部から増え始める。
・第1次世界大戦(1914~18年)では女性が大規模に軍隊に動員される。また100万人以上の女性が国内で労働に就いた。1920年憲法で女性の参政権が認められる。

・第2次世界大戦(1939~45年)では第1次世界大戦以上に総力戦になり、女性の軍隊/労働市場への進出がさらに促進される。1960年には労働者の1/3が女性になる。
・1964年「公民権法」が制定されるが、これは「人種差別の禁止」だけではなく「女性の権利拡大」にも貢献した。
・現在は「男女平等憲法修正条項(ERA)」「妊娠中絶」などが問題になっている。

○ヴェトナム戦争の遠因は日本占領
・戦後日本は連合軍(実質米国)の占領下に置かれ、その目標は「非軍事化」「民主化」であった。日本は1944~49年に卸売物価90倍/小売物価60倍の超インフレであった。
・1949年米国はジュセフ・ドッジを日本に送り、均衡財政の経済政策「ドッジ・ライン」を始める。これによりインフレ率は前年80%から同年24%に低下する。また財政は黒字に転換する。為替も日本の輸出に有利な1ドル=360円に設定される。1950年「朝鮮戦争」が始まり、「朝鮮特需」から日本の経済復興はさらに進む。

・しかし問題は市場であった。中国は1949年共産主義国になり、東南アジアが市場に設定されたが、東南アジアは政治が安定していなかった。「国家安全保障会議(NSC)」は仕方なく専制政府でも支持する事を決める。中国が支援する北ヴェトナムが勢力を拡大し、インドシナ全体が共産化する恐れがあった。そのためヴェトナムは特に重要であった。※ASEANも反共産のために結成された。
・しかし1954年「ジュネーブ協定」で仏国がヴェトナムから撤退し、ヴェトナムは正式に南北に分裂する。朝鮮半島では北朝鮮を駆逐できず、ヴェトナムでも北ヴェトナムを駆逐できないとなると、「西側盟主」の威信は地に落ちる。そのためヴェトナムへの介入を強めるしかなかった。

○あとがき
・米国は多面性を持つ民主主義国家であるが、その本性が余にも人間に近いため、米国に愛憎併せ持つ感情を抱くのではないだろうか。

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