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『インドネシア 9.30クーデターの謎を解く』千野境子(2013年)を読書。

1965年インドネシアで起きたクーデター未遂事件を解説しています。
この事件によりスカルノ大統領からスハルト(後に大統領)へ権力が移行します。
この事件の背景に中国と米国の東西対立がありました。

クーデターだけでなく、インドネシア独立から今日の東南アジア情勢まで解説していて、大変内容があります。

クーデターものを読むのは、多分初めてですが、大変面白かった。

お勧め度:☆☆

キーワード:<プロローグ>クーデター、スカルノ/スハルト、<ジャカルタ>ハリム空軍基地、共産党(PKI)、将軍評議会、<クーデター前夜>独裁/共産主義、マレーシア問題、<スカルノとスハルト>3月11日命令書、<米国>反乱、大量殺人、<毛沢東>第5軍構想、<アジア>東南アジア諸国連合(ASEAN)、南シナ海問題、民主主義

<プロローグ-9.30事件の謎>
・1965年はアジアにとって重要な年になった。2月米国が「北爆」を開始する。6月北アフリカのアルジェリアで革命が起き、「アジア・アフリカ会議」が中止になり、中国が打撃を受ける。同月「日韓基本条約」で日韓の国交が回復する。8月「第2次印パ戦争」が起こる。

・1965年10月1日未明インドネシアで軍事クーデター未遂事件(9.30事件)が起きる。この事件より、①スカルノ大統領の失脚②インドネシア共産党(PKI)の崩壊③スハルトの台頭④ASEANの誕生(1967年)などの変化が起きる。しかしこの事件の全容は解明されていない。

・1997年著者は産経新聞のシンガポール在住記者に就き、この事件を「20世紀特派員-アジアを変えた夜」に連載する。インドネシアでは前年に革命が起き、同年には「アジア通貨・経済危機」が起き、翌年スハルトは大統領を辞任する。著者は連載に満足せず、2013年本書を出版する。

・インドネシアは世界最大の島嶼国で、人口は世界第4位である(※4位か)。インドネシアは多民族/多言語で多様性が高い。スカルノは「建国の父」でスハルトは「開発の父」である。

・本事件の首謀者は左派軍人で大統領親衛隊ウルトン中佐などであるが、スカルノ大統領/PKI議長アイディット/毛沢東/将軍評議会/スハルト/CIAなどの関与は明確になっていない。しかし本事件によりスカルノによる親中/容共路線からスハルトによる親米/反共路線に変わる。

<ジャカルタ 1965年10月1日未明>
・10月1日未明クーデターの首謀者(ウルトン中佐、PKI特別局長シャム、ジャカルタ軍管区司令部ラティフ大佐など)は「ハリム空軍基地」近くのルバン・ブアヤ村に集合する。クーデターに参加した兵士は様々な部隊の兵士であった。
・彼らの最初の任務は、陸軍幹部で構成される「将軍評議会」の7人の将官(参謀総長ナスティオン大将、陸相ヤニ中将、陸軍司令官補佐官パルマン少将など)を拘束する事であった。「将軍評議会」は反共とされたが、その実体は不明であった。彼らはナスティオンを取り逃がすが、残りの6人を殺害する。
・彼らは首都ジャカルタ中心部を占拠し、午前7時ラジオ局から「ウルトン声明」を放送する。その内容は「CIAに支援される「将軍評議会」の革命を阻止した」であった。午後2時彼らは①「革命評議会」の設置②「革命評議会」が施政権を持つなどを放送する。

・当日クーデター側のスパルジョ准将は、スカルノ大統領との連絡役を任されていたが、大統領の居場所を確認できなかった。
・スカルノはヤソウ宮殿に泊り、午前6時大統領宮殿に向かう途中異変を知り、第4夫人ハリヤテの家に向う。最終的に午前10時クーデターの司令部が置かれた「ハリム空軍基地」に到着する。スカルノが「ハリム空軍基地」に向かったのは、クーデターの状況を確認するためと思われる。スカルノは以前から「将軍評議会」に不信感を持ち、クーデター側にシンパシーを持っていた。

・陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将はクーデターの事態収拾に乗り出す。スハルトは午前6時戦略予備司令部に入り、自身が陸軍司令官である事を宣言する。さらにジャカルタや「ハリム空軍基地」の占領軍に対し撤去命令を出す。午後7時スハルトはラジオ局を奪還し、「クーデターが終息に向かっている」と放送する。
※この素早い動きは、彼もクーデターが起きるのを知っていた。

・午後10時スカルノは「ハリム空軍基地」を出て、左派と親しい第2夫人ハルティニのボゴール宮殿に向かう。2日午前6時スハルトは「ハリム空軍基地」を無血制圧し、クーデターは終焉する。

・PKI特別局長シャムは首謀者の一人であるが、PKIが全面的に支援したとは思われない。PKI議長アイディットも「ハリム空軍基地」にいたが、1日夜に脱出している。
・勢力を拡大していたPKIは、この事件後大弾圧を受ける。

<クーデター前夜>
・1945年8月スカルノは独立を宣言する。1949年オランダの軍事作戦を退け、「インドネシア連邦共和国」になる。翌年単一国家の「インドネシア共和国」になる。当時のインドネシアは経済が破綻し、経済建設が最重要であったが、スカルノ大統領は政治の安定を求めた。

・1901年スカルノはジャワ貴族の子に生まれる。父はイスラム教徒、母はヒンズー教徒で禁じられた結婚であった。
・1921年スハルトは下級役人の子に生まれる。スハルトはオランダ軍/日本占領下の義勇軍/インドネシア軍などで頭角を表す。

・1955年総選挙が行われ、国民党(22%)/マシュミ党(21%)/ナフダトール・ウラマ党(18%)/共産党(PKI、16%)となる。PKIは躍進し、与党マシュミ党は後退する。この結果からマシュミ党の支持地盤である外島(ジャワ島以外)で反乱が起こる。※反乱は多民族と関係あるのかな。
・スカルノは挙国一致の「ナサコム」(民族主義、宗教、共産主義)や相互扶助の「指導される民主主義」を打ち出す。1959年内閣/議会を重視する「50年憲法」から、大統領権限が強化される「45年憲法」に復帰させる。1960年マシュミ党/社会党は解散させられる。

・当時の経済は最悪で、情報相は「夕食の経済」(朝食/昼食は取れず、夕食を取るのがやっと)を語った。しかしスカルノは国民の関心を外に向けさせる。
・1962年西イリアン(ニューギニア)で国軍とオランダ軍が衝突する。1963年国連/米国の介入もあり、西イリアンの施政権を得る。

・1962年マレーシアの「マラヤ連邦構想」に反対する反乱がブルネイで起こり、スカルノはこれを支持する。マレーシアは歴史的/民族的/文化的にインドネシアと緊密であったが、スカルノはこの構想を反共からのインドネシア包囲策として警戒する。1963年「マレーシア対決政策(コンフロンタシ)」を宣言する。同年マレーシアは独立し、反マレーシアが決定的になる。
・1964年独立記念日、スカルノは「生存の危機の年」を演説し、ライバルのマレーシアを批判する。間もなく内閣を改造し、「2大命令内閣」(革命の維持/強化、反マレーシア)を組閣する。1965年1月マレーシアの国連非常任理事国入りに反対し、国連を脱退する。

・国軍は「マレーシア対決政策」に当初は賛成していたが、マレーシアの後ろにいる英国を恐れ、反対に変化する。陸軍戦略予備軍司令官スハルトはマレーシアと秘密裏に交渉する。国軍はサボタージュし、やがてスカルノの排除に発展する。
・中国はインドネシアの様々な階層(スカルノ、PKI、労働者、農民など)に影響を与えていた。1963年両国首脳(スカルノ大統領、劉少奇国家主席)が相互に訪問し、両国の関係は緊密化する。
・スカルノは国連に対抗する「新興国会議(CONEFO)」を立ち上げる。1965年1月PKI議長アイディットは、陸海空/警察に次ぐ労働者/農民による「第5軍」の創設をスカルノに進言する。9.30事件の2週間前、ダニ空軍司令官は北京に飛んでいる。
・1955年「アジア・アフリカ会議」はバンドンで開かれ、スカルノは開幕宣言をしている。1965年6月開催予定の「アジア・アフリカ会議」は、中ソ対立の中、開催地アルジェリアでのクーデターで中止になる。
・1965年5月スカルノはPKIの「45周年記念集会」に出席し、共産党の躍進を称えている。

・米国議会でインドネシアへの援助禁止が可決されると、スカルノは外国石油企業を国営化し対抗する。
・1965年8月スカルノは突然倒れ、健康問題/ポスト・スカルノ問題が起こる。しかし独立記念日には演説しており、重病説は怪しい。

<スカルノとスハルト>
・10月2日スカルノ大統領とスハルトはボゴール宮殿で対面する。ここでスハルトは「治安と秩序回復」の権限を得る。これによりスハルトは厳戒令を敷き、翌日には共産党員の逮捕を始める。
・1966年3月11日スカルノはスハルトに全ての権限を委譲する「3月11日命令書」を作成する。しかし「3月11日命令書」の実在は確認されていな。スハルトの統治はその後32年間続き(1966~98年)、異例の長期独裁政権になる。9.30事件と彼による迅速な鎮圧がなければ、長期独裁政権はなかった。

・スハルト時代に9.30事件の真相が語られる事はなかったが、1998年スハルトの大統領辞任で、語られ始めた。首謀者の一人で獄中にあったラティフ大佐は「クーデター計画をスハルトに伝え、逆にスハルトから「将軍評議会」のクーデター計画を知らされた」と述べている。スハルトは事前に情報を得ていただけでなく、その情報を有効に活用した。

・一方のスカルノもクーデター計画を知っていたと思われる。いやそれ以上にスカルノはクーデターの「生みの親」だったと思われる。スカルノは9.30事件の3日前、大統領宮殿に住む5人の子女をバンドンに移す様に命じている。
・9.30事件前、スカルノはヤニ陸軍司令官に「将軍評議会」の目的を何度も訪ねている。この「将軍評議会」については謎が多い。スカルノは戦後に自身が拉致された経験から、「将軍評議会」の将官を拉致し、問いただす計画を思案していた思われる。

・クーデター後に共産党員の一部が呼応するが、統一された組織的な動きはなかった。PKI議長アイディットは10月1日夜に「ハリム空軍基地」を脱出し、その後殺害されている。
・1966年6月初代副大統領ハッタはスカルノ時代の腐敗や「指導される民主主義」を批判する。1967年3月スハルトは大統領代行に就く。1968年9月スカルノは逮捕される。

<米国の工作>
・1965年2月米国は北ベトナムに「北爆」を開始し、6月17.5万人の地上軍を投入する。米国がベトナムに介入したのは「ドミノ理論」を恐れていたためである。
・1965年4月海南島上空で米軍機と中国軍機との交戦が発生するが、当時米国/中国の最大の敵はソ連で、拡大は避けられた。

・戦後米国は全てにおいて突出しており、アイゼンハワー大統領(1953~61年)は冷戦勝利のため、世界各地に介入した。
・1955年4月「アジア・アフリカ会議」がバンドンで開かれ、米国は共産主義/反米主義/反植民地主義/民族主義を警戒する。
・1955年9月インドネシアで総選挙が行われ、米国が期待するマシュミ党は後退し、PKIは躍進する(前述)。そのため米国は外島(スマトラ島、スラウェシ島など)の反スカルノ勢力に資金を投じ、反乱を起こさせるが、間もなく国軍により鎮圧される。しかし米国は国軍のナスティオンやヤニが親米派である事を知り、米国留学/合同訓練などで親米/反共軍人を養成する方針に転換する。

・1965年7月米国駐インドネシア大使がグリーンに代わる。スカルノ大統領を絶対視しないグリーンは、スカルノから嫌がらせを受ける事もあった。
・1965年8月独立記念日にスカルノは「ジャカルタ-北京-プノンペン-ハノイ-平壌」枢軸構想を宣言する。

・1965年1月インドネシア大使が「スカルノ死去前に陸軍が政権奪取を計る可能性が高い」と本国に公電している。「将軍評議会」のパルマン少将は、「将軍評議会はPKI問題に対し準備している」と華人に答えている。
・9.30事件後PKI特別局長シャムは、「将軍評議会にやられる前に、やる事になった」と証言している。PKI/共産党系軍人は米国の工作により決断を迫られたと考えられる。

・9.30事件後インドネシア外交は西側に大転換し経済建設が進む。スハルト政権で外相を務めるアダム・マリクは米国から170万ドルの支援を受けるなど、スハルト政権に貢献する。
・一方で事件後にナチスの大量殺人に匹敵する蛮行がインドネシア全土で行われる。軍は共産党員やその支持者を逮捕/弾圧した。スハルトはこれらの行動を黙認し、制止しなかった。これらの行動は「アモック現象」(日頃は穏やかだが、ある機会により一転して惨劇に走る)と呼ばれる。
・今日であれば西側は経済制裁などを課すだろうが、課されなかった。その理由は①メディアは「ベトナム戦争」に集中していた②軍の規制が厳しく、現状を把握できなかったが考えられる。

<毛沢東の扇動>
・「9.30運動」の首謀者が「10.1運動」と名乗らなかったのは、10月1日が中国の国慶節のため、あえて避けたと思われる。
・9.30事件当日、国慶節のため中国にはインドネシア政府代表団/労働組合/婦人団体など多くの代表団が訪れていた。インドネシアは国慶節で重要なお客様であった。しかしクーデターの失敗で、彼らは帰国できなくなった。中国のメディアはクーデターの内容について報道しなかった。

・東南アジアには華人/華僑が多く住み、政治/経済で彼らを無視できなかった。スハルトは中国と断交し、中国語を禁止するが、華僑ビジネスで蓄財した。

・中国は朝鮮戦争などで疲弊したため、1954年「平和五原則」(領土主権の尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を掲げる。その後中国はインドネシアの「アジア・アフリカ会議」(バンドン会議、1955年)/西イリアン解放闘争/「マレーシア対決政策」(1963年)/国連脱退(1965年)などを支持する。
・1963年中ソ関係が悪化し、PKI議長アイディットは仲介に乗り出すが失敗する。その後PKIは益々中国寄りになる。
・スカルノ大統領/PKI議長アイディットは「第5軍」を構想するが、「第5軍」は労働者/農民で構成され、PKIの武装化で、強大化した陸軍に対抗するための軍隊であった。

・1966年日本共産党宮本書記長が北京を訪れた時、毛沢東より沖縄でのゲリラ活動を催促されている。北朝鮮の金日成も韓国に対するゲリラ活動を指示されている。毛沢東が社会主義各国にゲリラ活動を要求したのは、米中戦争の恐れがあり、米軍を分散させるためであった。
・当時の中国は毛沢東と反毛沢東派(劉少奇、鄧小平など)の対立が顕在化しつつあった。毛沢東は「世界革命」を諦めておらず、社会主義各国にゲリラ活動を要求した。対する実務的な反毛沢東派は、「大躍進運動」などで失敗した毛沢東を外交に閉じ込めておきたかった。
・1965年6月開催予定の「アジア・アフリカ会議」の中止は、毛沢東を落胆させた。毛沢東は「第2国連」の創設を構想していた。
・1965年8月スカルノが倒れた時、毛沢東はPKI議長アイディットにクーデターの実行を指示したとされる。

・9.30事件後スハルトはPKIを弾圧し、中国との関係が悪化する。1967年国交は途絶し、国交が回復するのは1990年である。
・9.30事件は「中国が波を起こそうとして失敗した」と考えられる。

<アジアを変えた夜>
・9.30事件後マレーシア関係は劇的に改善し、1967年8月国交が回復する。1966年9月インドネシアは国連/IMF/世界銀行に復帰する。

・1966年8月インドネシア/マレーシア/フィリピン/シンガポール/タイによる「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が発足する。ASEANは当初注目されていなかったが、東南アジアの大国インドネシアの参加が大きかった。ASEANでは議決を取らず、賛成/反対を明文化しない「コンセンサス方式」である。
※これは知らなかった。他にもありそう。「共同声明」は普通、そうかな。
・当初ASEANが注目されなかった理由に、当時の不安定な状況がある。タイ共産党/マラヤ共産党/フィリピン共産党が存在し、シンガポールは独立して間がなく、宗教も多様であった。

・1975年「ベトナム戦争」では北ベトナムが勝利し、カンボジアでは「クメール・ルージュ(ポルポト派)」、ラオスでは「パテト・ラオ(ラオス愛国戦線)」が勝利する。
・1976年ASEAN首脳は「ドミノ理論」を恐れ、経済協力の強化で共産主義に対抗する。
・1997年タイ/マレーシア/インドネシアは「アジア通貨・経済危機」に襲われるが、この時の強靭化により2008年金融危機ではダメージが少なかった。

・G20にはインドネシアが加入するだけの東南アジアが注目されるのは、東南アジアが世界経済の成長センターで、米中の「対立の場」になったためである。
・中国の南シナ海進出は1970年代に始まり、1988年には南沙諸島の幾つかを実効支配するに至った。一方で1997年「香港返還」「アジア通貨・経済危機」により、中国はASEANの魅力的な市場になった。
・2012年ASEAN外相会議で共同声明が出せない事態になる。議長国カンボジアが中国を代弁し、「南シナ海問題は2国間で解決すべき」としたためである。

・米国ブッシュ政権(2001~09年)は中東を重視し、東南アジアを手薄にした。2009年から始まるオバマ政権は「米国のアジア不在」に終止符を打つ。クリントン国務長官の「米国復帰宣言」もその表れである。
・今の中国は手をこまねいて見ているのではなく、無償援助/借款/投資など、PKI時代とは異なる洗練された外交を行っている。
・米中対立の中で、ASEANがどのように対応するのか「試練の時代」と云える。

・1996年スカルノの長女メガワティが「インドネシア民主党」の総裁を追われ、それが元でジャカルタで大暴動が起きる。彼女はその後、第5代大統領になる。
・1997年独立記念日、スハルト大統領は「45年憲法」の遵守や経済発展の成果を演説した。しかし国民は衣食住に満足する様になると、もっと自由で公平な社会を欲する様になっていた。
・スハルトの統治は32年間続き(1966~98年)、「開発独裁」と云われる。しかし経済は年平均7%で成長した。
・1997年7月タイ通貨急落に始まる「アジア通貨・経済危機」によりインドネシア経済は混乱し、スハルトはIMFのテコ入れに署名する。
・1998年5月20日翼賛議会と揶揄された国会はスハルトの退陣を求めたが、国軍はスハルトを支持した。しかし翌日スハルトは大統領辞任を発表する。
・スハルト一族は長期政権で多額の蓄財をする(160億ドル、350億ドルなど諸説ある)。

・2014年インドネシア大統領選が行われる。2004年選出のユドヨノ大統領が無事任期を終えると、民主的選挙で選ばれ民主的選挙で去る初めての大統領になる。これはインドネシアが多くの犠牲を払い、民主主義を定着させた証明である。

<エピローグ-謎解きの終わり>
・9.30事件で「将軍評議会」の将官が殺害され、その遺体が投げ込まれた井戸は、今は観光地になっている。
・9.30事件を総括すると、「アイディットは毛沢東の迫力に押され、十分な準備もなくクーデターを起こした。一方冷静に対処したスハルトは政権を奪取した」と云える。
・先日銀行マンから「インドネシアはブラジルと並ぶ有力な市場ですよ」と「インドネシア債」を勧められた。インドネシアはそんな国になったのかと思った。

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