『天下統一とシルバーラッシュ』本多博之を読書。
安土桃山時代の西国における銀の流通を主に解説。
この時代は石見銀山での銀産出/海外貿易/市場形成などで、日本経済の変革の時代と思えます。
網羅的で膨大な解説なので、参考になる。
所々で原文を引用しているので、理系には困る。
お勧め度:☆☆
キーワード:<シルバーラッシュ>東アジア貿易、<石見銀山>神屋寿禎/精錬(灰吹法)、運上/倭銀、遣明船/大内氏、海禁政策/王直、南蛮貿易、<戦国大名>高額貨幣/撰銭令/流通、兵粮/硝石、厳島社、年貢/段銭、海賊/共生、織田信長/公定枡/石高制、<豊臣政権>政権主導の物流/海賊、直轄領代官、進物、フィリピン/ルソン、朝鮮出兵/休戦期、公役/普請、<徳川政権>貨幣
<シルバーラッシュ>
・16世紀石見銀山などが発見され、銀を国際通貨とする東アジアは大きく影響を受けた。これは日本の政治/経済にも大きく影響を与え、天下が統一され、経済は荘園制市場経済が幕藩制市場経済に移行した。
<石見銀山-1520年代~40年代>
○石見銀山の発見/開発
・石見銀山は島根県大田市にあり、「世界遺産リスト」に登録されている。石見銀山は鉱山町/街道/港町からなる。しばしば「大森銀山」と呼ばれるのは、江戸時代に石見銀山の中心町が大森になったため。
・『銀山旧記録』に「1527年博多商人の神屋寿禎が三島清右衛門/吉田与三右衛門/吉田藤左衛門/於紅孫右衛門に石見銀山を開発させた」とある。
・当初は銀鉱石を博多/朝鮮に運んで精錬を行ていた。『銀山旧記録』に「1533年桂寿(慶寿)/宗丹が石見に来て、精錬(灰吹法)を始めた」と記されている。9年後には但馬生野銀山に精錬技術が伝わる。
・この時代、大名/国人領主は「運上」を納めさせるだけで、残りの銀は国際貿易で海外に流出した(倭銀)。逆に海外産品が国内に流入した。
○日本銀の海外流出
・1542年博多聖福寺の「安心」が「日本国王使」と名乗り、8万両の銀を朝鮮に持ち込んだ。※聖福寺は今でも立派な寺みたい。
・16世紀初頭、幕府の勢力は弱まり、「遣明船」の「勘合」を大内氏/細川氏などに与える。1523年第17次遣明船で大内氏と細川氏が、明の玄関口寧波で武力衝突する。その後の18次/19次遣明船は大内氏が独占する。1539年18次遣明船で、外国産品の取得に銀を使った事が初めて記録に残されている。
・『八代日記』によると、肥後領主相良氏は1538年/1542年/1545年に正式の「勘合貿易」ではない「渡唐船」を出船している。石見の鉱山技師「洞雲」が肥後を訪れ、銀鉱石を鑑定している。
○中国商人/欧州人の日本進出
・鄭舜功(※鄭成功とは無関係)が著した『日本一鑑』には、1534年福建商人の日本渡航が盛んになったと記されている。日本側の資料でも1540年代までに周防、豊後神宮寺浦/佐伯浦、肥前平戸、肥後天草、薩摩阿久根、大隅種子島、伊勢で中国船の来航が確認できる。明(1368~1644年)は当初は「海禁政策」のため、これらは密貿易である。
・明は銀納化されていたため、「倭銀」への需要が高かった。
・明の日本研究書『籌海図編』には、広東/福建の海に面する民家は各地の産物を隠し、「倭人」が来ると銀と交換していたと記されている。
・1555年鄭舜功は「倭寇対策」のため日本に派遣される。鄭舜功は豊後(大友氏)に2年滞在し帰国する。
・王直に代表される中国商人は「郷紳」と結託し、硝石/硫黄/生糸/綿などを密貿易した。1548年明の官僚朱紈は王直の拠点である船山諸島双嶼を攻撃している。1553年王直は新しい拠点烈港を攻撃され、五島列島福江/平戸に拠点を移す。
・欧州人の海外進出は凄まじく、ポルトガルは1498年喜望峰到達、1510年ゴア占領、1511年マラッカ占領と続く。
・1543年王直の舟に乗ったポルトガル人が日本に鉄炮を伝える(鉄炮伝来)。1549年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、その後山口/京都/平戸/豊後府中などでキリスト教を布教する(キリスト教伝来)。ザビエルは日本が欲する商品をマラッカ長官に伝え、南蛮貿易が始まる。
<戦国大名-1550年代~80年代前半>
○東アジア情勢
・1551年大内義隆は陶隆房に討たれる。キリスト教宣教師は周防山口から豊後府中/臼杵、さらに肥前長崎に拠点を移す。1557年明はポルトガルにマカオの居住を許可する。1567年さらに「海禁政策」を緩和し、東南アジアとの貿易を認める。1570年ポルトガルはマカオ-長崎間の定期航路を開設する。翌年スペインはマニラ-アカプルコ(メキシコ)の定期航路を開設する。このルートによりポトシ銀山(ボリビア)の銀が明に流れた。
・『籌海図編』『日本図纂』には一節「倭好」があり、日本で需要がある商品(生糸、真綿、水銀、針、鉄鍋、古文銭、薬材など)が記されている。日本は銭貨を鋳造しなかったため、中国の銭貨を輸入し、流通させていた。
・16世紀前半、金が国内で「高額貨幣」として使われ始める。一方の銀は国際通貨としては需要があったが、国内での流通は遅れた。金は東日本で、銀は西日本で高額貨幣として流通した。
・博多では1559年頃から銀が流通し始める。その後1562年毛利氏の朝廷への銀寄進、1564年安芸宮島から伊勢神宮への銀納入、1565年出雲国造千家氏の銀納入、1567年肥前から伊勢神宮への銀納入など、銀の流通が確認できる。
・1568年入洛した織田信長は、翌年『撰銭令』(通貨法令)を発令する。これには①銭貨を「精貨」「撰貨」に分け、換算値を定めた②高額商品取引(生糸、薬など)での金/銀の使用を認めた。
・1570年代金/銀の流通が活発化する。京都吉田社の日記『兼見卿記』で、信長への贈答/祈祷料/大工への報酬/馬の購入などで金/銀が使われている。
・信長は徴収した米を町に貸し付け、「利米」を朝廷の財源にした(※これは銀と無関係では)。『大徳寺文書』でも金/銀/米で財政運用していた。
・幕府/大名/国人と緊密な特権商人が、これら金/銀/米の流通を活発化させた。
○大名権力-毛利氏
・1562年毛利氏は石見銀山近くの山吹城を降伏させ、石見を掌握する。1564年毛利氏は筑前の一領主温科尉重に、赤間関(下関)から温泉津関までの「勘過」(自由通行証)を与えている。大名権力と海岸領主は経済/軍事面で連携していた。
・大内時代は銭で兵粮調達していたが、毛利時代は銀で兵粮調達している。また毛利氏に付いて活躍した秋上久家に銀30枚(1枚=10両)、草刈景継に銀50枚を贈っている。毛利氏は「通貨法令」を発令しておらず、銀を多用している。戦場に銀を送った記録も多くあり、兵粮だけでなく鉄炮の火薬なども調達していた。
・1557年毛利氏の防長侵攻で鉄炮が使われている。1567年大友宗麟はポルトガルに毛利氏に硝石を売らないように要請している。
・小早川隆景は織田信長に1570年銀10枚、1576年には年頭の挨拶で銀4枚を贈っている。※敵と思える信長に進物していたのか。
・元就まで(1562~71年)は銀は軍事目的のみに使われたが、1571年元就を継いだ孫の輝元は安芸厳島社の遷宮に銀を使用している。1587年の「千部経読誦」の法会でも銀を使用している。
・江戸中期(1718年)の厳島社廻廊の「一間檀那」の棟札が114枚残っているが、安芸国が64枚、石見国が27枚あり、厳島社と石見銀山の緊密さが分かる。
・天正年間(1573~93年)、出雲の厳島社領の年貢を現地で銀に交換し、銀で寄進した記録がある(厳島野坂文書)。
・1571年厳島社遷宮で安芸国衆の宍戸隆家は銀子100匁を寄付している。
・1566年下人譲渡の謝礼で銭500疋を受領しているが、1572年になると銀に変わり、銀子50匁を受領している。
・備中高松城での講和(1582年)以降、輝元は秀吉養子と養女との婚礼費用や秀吉の下に送る人質の諸経費などで苦慮する。
・毛利氏は公領(直轄領)年貢や「段銭」(領国で面積に応じ徴収する税)を収入とし、それを担保に「有徳人」(裕福な人)から銀を借りた。防長両国以外は国衆領/寺社領が多いため収入は望めず。防長両国からの「段銭」が頼りであった。
○西国大名の外交/貿易
・薩摩島津家久は伊勢参詣し帰国する。それを『中書家久公御上京日記』に記録している。帰路、出雲杵築/石見銀山/温泉津/浜田を経由し、平戸に寄っている。石見では薩摩/大隅出身の商人に歓待されています。平戸では豊後大友氏に向かう「唐船」に乗船しています。この日本海ルートは「銀の道」と云えます。
・大友宗麟は「南蛮」と南蛮船/自国船で貿易していた。肥前松浦氏もシャム国(タイ)と福建商人の商船(※唐船?)で貿易していた。
・1584年長門赤間関の代官高須元兼と福建商人との貿易の記録が残る。輝元は高須氏に命じ、生糸/絹織物/硝石などを調達している。
・輝元の側近奉行が尾道商人渋谷氏に合薬(火薬)の調達を依頼した文書も残る(渋谷文書)。
・肥前の御用商人平吉家に「能島/来島/因島の『海賊村上氏』に銀一貫目を渡し、『免々判物』と『船印の旗』20本を得て、瀬戸内海で安全通行した」との文書が残る。
・統一政権が誕生する前は、大名/国人領主/商人/海賊が「共生」する社会であった。
○織田信長
・信長は「重商政策」から伊勢湾/琵琶湖/瀬戸内海を支配し、堺を直轄領とした。信長は奥羽伊達氏/出羽白鳥氏に虎皮/豹皮などを進物しているが、これらは堺から入手していた。但馬生野銀山に秀吉らを派兵し、銀を掌握した。
・1573年信長は京都から足利義昭を追放する。この時、下京の人々が焼打ちを逃れるため銀702枚(1町で銀13枚)を準備した。同年信長は浅井/朝倉を滅ぼし、翌年伊勢長島の一向一揆を平定している。
・1580年信長は大坂本願寺との講和で銀子1,000両を得ている。しかし『信長公記』では禁裏/諸大名/公家などに100枚以上の贈与を行っている。この様に天正年間の前半に金/銀の流通が一挙に拡大する。※これは大航海の影響で、世界は広いようで近い。
・信長は「天下人」の権威を示すため、安土城の天主に金箔を張り巡らす。これは秀吉にも受け継がれる。
・1571年信長は洛中洛外に別段1升の米を賦課徴収し、それを上京/下京の各町で5石ずつ運用させ、3割分の「利米」を禁裏に納入させた(※3割って可能なの?)。これは米も通貨として機能した事を示している。この時信長は京都で使用されていた十合枡(京枡)を「公定枡」(判枡)とした。
・1575年信長は山城の旧幕府領を公家/寺社に給与する。この知行は「公定枡」を使い、「石高制」の始まりである。
・1580年秀吉は信長の命で播磨で検地を行う。これは石高によって権力編成(知行給与、軍役賦課)するものであった。
<豊臣政権-1580年代後半~90年代>
○豊臣政権と物流/貿易
・1582年「本能寺の変」により秀吉が権力者になる。翌年より大坂城の築城を開始し、1586年より聚楽第の建設を始める。これらの普請には諸大名が当たった。大坂/京都の人口は増加し、多量の建築資材/生活物質が搬入され、中央市場が形成された。
・諸大名の領国の拠点となる城下町でも御用商人が活躍した。広島の城下町は出雲の平田屋惣右衛門が建設し、土佐では浦戸に京/堺/播磨の商人を住まわせた。※広島城下に平田屋川があった。
・秀吉は大坂城/聚楽第/大仏殿/伏見城などの大規模普請を行った。諸大名は今まで手を付けれなかった国衆領からも材木を切り出した。兵庫北関(神戸港)に入る船は、室町時代中期は安芸竹原が西端であったが、豊臣政権期になると山陰からも船が入った。これらは「政権主導の物流」と云える。
・秀吉は国内統一/海外派兵の戦争を頻繁に行った。これによリ将兵/軍需物資などの長距離輸送が盛んに行われた。これも「政権主導の物流」である。「政権主導の物流」により幹線ルートは整備され、関所の撤廃が進んだ。
・「政権主導の物流」で障害になったのが「海賊」である。1585年秀吉は四国を平定すると、「能島村上氏」に務司/中途両城の廃城を命じる。1587年秀吉は九州を平定すると、海賊/盗賊の停止を命じている(海賊停止令の初令)。「能島村上氏」は海の領主から陸の領主(筑前加布里)に移される。翌年秀吉は「海賊停止令」を発令する。
・1588年島津義久は周防上関に寄港した時、「能島村上氏」の村上武満と「島津船が上関を通行する時は特別に配慮し、逆に村上船が島津領を通行する時は特別の配慮をする」と約束する。要するに「海賊停止令」発令後も通行料の徴収は存続し、「海賊停止令」は秀吉の九州出兵などに限るものであった。
・1588年秀吉は長崎を直轄領とし、「南蛮船」(ポルトガル船)から生糸を銀で買い占める。1589年石田三成/細川藤孝は島津義久に対し「渡唐賊船」の取締りを命じている。これまで大名/国人/商人が行っていた海外貿易を、中央政権が独占するようになる。これも「政権主導の物流」と云える。※どの時代も中央政権が海外貿易を独占したがる。
○天下人と大名
・秀吉は兵粮米や内裏修造のための米を「直轄領代官」に依頼している。秀吉は「直轄領代官」に商人や商人の縁者(今井兵部、末吉勘兵衛、長谷川宗仁など)を起用している。それは彼らが金/銀/米の交換や普請のための人材/資材を確保する能力に長けていたためである。※今の総合商社だな。
・当時は金/銀/米が通貨として通用した。金は国内での高額貨幣であり、輸入もされた。銀は国内での高額貨幣であり、国際通貨でもあった。米は社会で広く通用し、量制の整備(公定枡)により「石高制」が誕生した。
・1587年秀吉は「天正大判」(10両)の鋳造を始める。銀の鋳造は「朝鮮出兵」による入用のため、少し遅れる。
・1589年秀吉は聚楽第で金6,000枚/銀25.000枚を公家/大名に配っている(秀吉の金くばり)。
・1588年小早川隆景/吉川元長が秀吉を訪れた時、輝元1,000枚/隆景500枚/元長300枚の銀を献上している。毛利氏一行はこの上洛で、「進物」などで6,000枚の銀を支出している。この上洛のため輝元は防長両国から「段銭」の前借りや有徳者(富裕者)から銀を調達している。
・1587年厳島社で「千部経読誦」の法会が行われたが、その「入目付立」(経費リスト)が残っている。これによると法会に参加する「御経衆」などへの米銭や「点心」(食事)に1貫900匁を算出している。これより銀の社会への拡散/浸透が伺われる。
・諸権門(武家、公家、寺社勢力)は権威を示すための儀礼(年中行事、祭祀、法会)で用いる高額商品を金/銀で入手した。大坂/京都は高額商品の流通や大規模普請により大量の金/銀が流入し、また「貢租換金市場」が発展した。
・フィリピン(ルソン)には多くの日本人が渡航し、フィリピンに小麦/穀物粉/水産物が輸出され、金/生糸/絹織物を輸入した。
○第1次朝鮮出兵と休戦期
・1592年第1次朝鮮出兵(文禄の役)が始まる。肥前名護屋には将兵/兵粮米/材木などが運ばれ、交通/輸送体系が一元化された。
・東国大名佐竹義宣は名護屋から水戸に帰国する時、『大和田重清日記』を残している。これによると本国から金を京都に運ばせ、それを京都で銀に両替し、その銀を名護屋に運ばせ、帰国時にその銀を使用した。また帰国前に長崎で絹織物/香料/鉄炮/硝石などを多量に購入している。また京都でも絹織物/西陣などを多量に購入している。
・石見津和野の吉見元頼は毛利氏に従い戦場に赴いたが、「公儀」(豊臣)から米と銀「御月棒」、毛利氏から「月棒銀」を支給された(朝鮮陣留書)。また戦場では諸大名に御用商人が従い、銀で物資を調達していた。
・1593~96年は休戦期であるが、日本軍は朝鮮に残り、臨戦態勢であった。1593年秀頼が生まれ、1595年秀次が追放/切腹している。
・秀吉は各地で産出された金/銀の一部を諸大名から上納させている。毛利氏は7ヶ国分として1597年7月に銀1,000枚、さらに12月に銀2,000枚を上納している。秀吉はこの休戦期に金銀鉱山の開発を全国で行い、諸大名から一部を上納させる体制を整えた。
・1594年秀吉は「御蔵米」1万3千石を石見で銀に交換し、その銀を長崎に送り、鉛/硝石を購入しようとした文書が残る。
・1595年石見温泉津の商人が、加賀宮腰の商人に米の輸送を依頼している。以前の物流は若狭小浜で東西に分かれていたが、これは江戸時代の「北前船」の発祥と云える。
・秀吉は「御蔵入地」(豊臣直轄領)の役人に、中央(京都、伏見、大坂、堺)での金/銀/米の相場に注意を払うよう指示している。
・1594年秀吉は「大坂銀吹き(銀精錬)」20名に「御朱印」を下している。翌年「金子吹(金精錬)」に27名を命じている。これは江戸時代の金座/銀座の原型である。
・豊臣政権の賦課に対処するため、諸大名は領国支配の強化を迫られた。加藤清正は領国内の運送体制を整えている。
・1594年毛利氏は石見銀山で「銀山改め」を実施し、実態調査をしている。1595年広島城下/鞆/尾道を公領(直轄地)にし、代官を置いている。
・1596年毛利氏は「文禄の石改め」(知行高の確認)を行っている。この時、知行石高に応じ「礼銀」を徴収している。
・諸大名の運送体制の整備には「初期豪商」(御用商人、特権商人)が不可欠であった。
・1598年厳島社棚守家の能役者は、呉服商から大量の絹織物を金/銀で購入している。この頃厳島社での神楽料/祭祀料などは銭から銀に変わった。
・1596年明の使節が来日し、下関/上関/蒲刈/鞆に宿泊するが、輝元は必要な物は銀で調達するように命じている。
○第2次朝鮮出兵
・1597年第2次朝鮮出兵(慶長の役)が始まるが、翌年秀吉が死去し撤退する。1598年から第4期大坂城整備が行われ、朝鮮出兵が終わっても、諸大名は「公役」から逃れられなかった。
・輝元の下で石見銀山奉行を務めた佐世元嘉は「『運上銀』は、かつては年5,000枚であったが、朝鮮出兵が始まると1万枚になり、その後3万枚になった」と記している。
・主要な金銀鉱山を持たない加藤清正は、フィリピンに小麦を輸出し、金を獲得している。秀吉は諸大名に「朱印状」を渡し、海外貿易を統制した。
・朱子学者の藤原惺窩は大隅内之浦/波見浦でフィリピン船を見学している(南航日記残簡)。
・朝鮮出兵で日本に連行された姜沆は日本見聞記『看羊録』を記している(※羊?)。そこに「肥前/島津領では唐船/南蛮船が絶えず往来していた」と記している。また「1599年島津領内で唐船が強奪される事件が起こり、島津義弘は家康に判断を仰ぎ、犯人を処罰し、積み荷を返還した」と記している。これは秀吉亡き後、外交/貿易権を家康が掌握した事を示している。
<徳川政権>
・1600年家康は「関ヶ原の戦い」で勝利すると、石見銀山/但馬生野銀山など全国の金銀鉱山を接収する。翌年家康は大久保長安を銀山奉行に任じている。その後石見銀山の代官所が「大森」に置かれる。
・徳川政権による金銀鉱山の独占は、貨幣の鋳造/発行権の獲得になった。1601年家康は慶長大判/慶長小判/慶長一分金と慶長丁銀/慶長豆板銀を鋳造する。金貨は武田氏の4進方(両、分、朱)を採用している。同年「金座」が江戸/京都に、「銀座」が伏見に置かれる。※金座/銀座は各地にあると思うが鋳造されていたのか?
・豊臣政権期に京都/大坂を中心とする求心的市場構造が形成されていたが、江戸が加わる。江戸を中心とする「西廻り航路/東廻り航路」が開設される。
・海外貿易では「渡航許可証」による「朱印船貿易」が継承される。しかし間もなく諸大名は「朱印船貿易」から排除される。一方家康はオランダ/イギリスとの貿易を開始する。その後銀の流出は続き、貿易は縮小される。1635年幕府は日本人の海外渡航/帰国を禁止する。1639年ポルトガルとの貿易を停止する。
・1636年銭貨「寛永通宝」が鋳造され、近世3貨体制(金、銀、銭)が成立する。幕府は銀枯渇から銅生産に路線を変更する。幕府は銀輸出を禁じ、東アジアの「シルバーラッシュ」は終焉する。
<あとがき>
・政治と経済は密接な関係にある。「天下統一」と云う大事業を意識し過ぎると、中央政権の政策だけに目が向いてしまう。しかし地方の戦国大名などの諸勢力にも目を向ける必要がある(地域的視座)。それと同時に日本を相対化する「国際的視座」にも目を向ける必要がある。