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『浅野長晟・光晟の政治と藩体制の確立』西村晃を聴講。

1619年浅野長晟(初代)が広島城に入城し、1672年光晟(2代)が襲封するまでの53年間の藩政を解説しています。

幕府の公役に応えるため、年貢の確保が重要な政策になります。
豊臣秀吉は諸大名に公役を課し、諸大名を苦しめましたが、徳川家も同様で、その延長にあると思います。

キーワード:<浅野長晟>知行、郷村掟書、代官制、郡中法度、領内廻郡、御手伝い普請(公役)、<浅野光晟>災害、三次藩/分家、石高/地詰/格式、東照宮

<はじめに>
・幕藩体制の初期50年で幕府は法律の制定と裁判/警察機能を含む行政機能を構築をします。一方大名は家臣団を行政官僚にし、領民を支配する体制を構築します。

<浅野長晟による藩政-1619~32年>
1)入国直後
・1619年家老4人に「知行」を与えるが、筆頭家老浅野知近が不満としたため、城下で成敗する(※幕府からのお咎めなしか)。三原浅野家(3万石)、上田家(1.7万石)東城浅野家(1万石、旧旗本堀田家)を世襲とする。

・1619年『郷村掟書』を出す。①田畑の刈上げ/竹木伐採の禁止②福島時代の有米/郷蔵保管分の明細提出③出国の禁止。同年「代官制」を布き、140人を配置する。
・1620年『郡中法度』(基本法に相当)を出す。①作物を荒らしたり、逃亡すると連帯責任(10人組。後に5人組)②荒廃地の開墾③逃亡者の帰住③治水/道橋の復旧④百姓への不正の禁止⑤銀納。

・1620年三吉(三次)を廻郡。翌年家老知行地(小方、東城、三原)を廻郡。

2)その他の政策
・1622年一歩米を徴収(千石1人を千石10石に変更)。
・水主役銀/竹代銀を徴収。

・支配機構の構築。地方は、郡奉行-郡廻り-代官-庄屋。町方(広島、宮島、三原、尾道)は、町奉行-町年寄/組頭。浦方は船奉行。

・幕府は外様大名に江戸城/江戸城下町などの「御手伝い普請」(公役)を命じる。浅野家も多数命じられている。家康は「不満なら、帰国し城を補強し、吾が行くのを待っとけ」と脅した。大名は支配機構を構築し、財力を付けるしかなかった。

<浅野光晟による藩政-1632~72年>
1)災害
・1620年広島城水害、1631年広島城水害、1638年~旱魃/冷害/洪水が数年続く(寛永の大飢饉)、1657年広島城下大火災。

2)三次藩の創出
・浅野光晟(母は家康三女振姫)には庶子の兄長治がいた。1632年光晟が襲封する時、「三次藩」5万石を創出し、長治に与える。
・三次藩は三次郡/恵蘇郡/世羅郡加茂/豊田郡忠海/佐西郡草津からなった。飛び地があるのは港を確保するため。

・分家には「別朱印分家」「内証分家」がある。「別朱印分家」は幕府が『領知朱印状』を与え、独立を認める分家であるが、本家との繋がりは残る(養子などを送れる)。「三次藩」の分家はこれによる。
・「内証分家」は幕府は『領知朱印状』を出さず、本家の石高も減少しない。後年浅野長賢が「青山内証分家」を分家している。
・ちなみに赤穂藩浅野家は広島藩浅野家の分家ではなく、独立した外様大名として扱われている。
※岩国藩吉川家はどちらなのか?

3)寛永地詰と正保地詰
・安芸/備後の石高は「毛利検地」(1591年)では25.5万石、「福島検地」(1617年)では49.8万石であった。浅野長晟が入城した時(1619年)の広島藩の実際の石高は42.4万石で表高42.7万石より少なかった。
・そのため「寛永地詰」(1638年、地詰は非公式の検地)と「正保地詰」(1646年)を実施し、表高42.7万石を確保し、格式を保持する。

4)東照宮
・1648年尾長山に東照宮を勧請する。1666年家康50年忌「通り御祭礼」を行う。
・幕府は東照宮の勧請を奨励しておらず、諸大名が忠誠を示すために自主的に行った(忖度)。

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