『銃後の民衆経験』大串潤児を読書。
15年戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)での銃後(農民/労働者の生活)を記述しています。
大半が前半(日中戦争期)の悲観的でない銃後を記述しており、後半(太平洋戦争末期)の悲観的/悲惨的な銃後については、ほとんど記述していない。それは著者が前半を重視するためか。
それでも膨大な量で、分野毎に数冊に分けた方が良いのではと思える。
また当時の文章がそのまま引用されているので難読です(たかが80年前の文章だが)。
国は徐々に全体主義を強めますが、1931年満州事変以前の戦争と、1937年日中戦争以降の戦争では、その影響は大きく異なる様です。
日中戦争以降、労働者の多くが重化学工業などの軍需産業に移動した事が分かる。
お勧め度:☆(銃後を分析した大著だが、少し苦痛な本)
キーワード:<非常時小康>○1933年-満州事変/昭和恐慌/凱旋/招魂祭、自力更生/農家組合、○1937年-日中戦争、召集、挙国一致/献金運動、国民精神総動員運動/国防婦人会、○新しい銃後-かもめの便り/村の新聞、<村と戦争>○格差と平等-出征、○村の銃後-勤労奉仕、○村の担い手-工場労働者/青年の流出、○兵士の帰還-銃後の弛緩、<パリのような街>○街頭の戦争-派手、千人針、ラジオ、帰還兵士、百貨店/慰問袋、○労働者の街-授産所、商店街、臨時収入、<建設の戦争>○共同-共同作業、○翼賛運動-大政翼賛会、産業組合青年聯盟、翼賛壮年団/下村虎六郎、○産業報国-銃後生活刷新運動、5人組制度、青少年労働者、指導者、<地方翼賛文化運動>○大政翼賛文化部-岸田國士/共同の娯楽、上泉秀信/地方文化、○職場/工場の文化運動-詩/演劇/音楽/釣、近藤孝太郎、<銃後崩壊>○銃後崩壊の諸相-健民健兵/保健婦、勤労報国隊/挺身隊/徴用、闇取引/買いあさり、○戦争責任-公職追放、農村青年聯盟、騙す、中井正一/根性、<エピローグ>朝鮮戦争、売春、基地問題
<プロローグ>
・1943年封切になった映画『はな子さん』は、銃後の生活を「明るく楽しく」描いたものだったが、その後戦争は激化し、銃後は空襲により戦場に変わっていく。当時映画は一番の娯楽であった。
・1970年代、銃後の経験(疎開、空襲、食料難、物資不足など)が集められ、『戦争中の暮らしの記録』『銃後史ノート』などが出版される。
・1940年「大政翼賛会」が結成され、1941年「太平洋戦争」が開戦される。この頃までは民衆に「高い戦意」が見られた。しかし1942年以降になると戦意は喪失し、銃後は「崩壊」していく。後に「戦争責任」と共に語られるのは、この崩壊期の銃後である。
・本書は以下の視点を持つ。①地主/小作の関係、集落の共同性、職員/工員の関係、戦争は立身出世/学歴上昇をもたらした、国策に沿った言葉(非常時など)は威力を持った。②集団化の意味。③当時は科学的/合理的な知識を必要とし、知識人がどう向き合ったか。※難解。
・また本書は以下の場所を特に意識して記した。①地方都市、②農村、③職場。※地方都市と職場はダブりそう。
・2015年長野県松本市での「新安保法制」を考える会で、映画監督高畑勲は「戦争末期の悲惨な経験を語っても戦争を防止できない。戦争がなぜ始まったのか、戦争が始まった後、為政者/民衆がどう振る舞ったかを考えないといけない」と語る。
・戦後の歴史学は「戦争はなぜ始まったのか」を問い、敵に対する軽視観/教育による思想統一/民主主義の欠如を問題とした。他方「戦争が始まったら、どう振る舞うべきか」の問いに対し、戦争の当事者であった銃後の民衆を見つめるのは重要である。
<非常時小康>
○1933年
・1931年「満州事変」が起き、「国民精神の涵養」「自力更生」が唱えられるが、危機感は希薄であった。
・1933年5月満州事変の停戦協定が締結される。傀儡満州国で抗日運動があったが、内地では「昭和恐慌」から脱出し、小康状態に感じられた。都市はサラリーマンの増加/私鉄の開業/デパートの急増などで繁栄し、農村との格差が始まった。
・1932年6月金沢市では第1次上海事変からの「凱旋」が行われ、戦勝祝賀ムードに浸った。国は小規模の「事変」を繰り返す事で、「非常時」の危機感を維持した。
・金沢市の工業生産物価額は1931年に底を打ち、満州国建国により貿易での期待が高まり、金沢市は北陸「モダン文化」の中心になる。百貨店では「宮市大丸」が北陸を制し、国防のための展覧会/展示会を開く様になる。金沢市周辺では、トマト/西瓜や織物産業(人絹)が盛んになる。
・金沢師団は多くの犠牲者を出し、「招魂祭」が開かれ、児童相撲/映画会が開かれる。「在郷軍人」はこれらの銃後の中心になっていく。
・1935年金沢師団から満州への派遣が始まる。部隊は交代制で、派遣と帰還を繰り返す。出動時には国防婦人会/女子青年団などが慰問した。
※本書は様々な資料を基にして、叙述されている。
・全国各地で「自力更生」のための「更生計画」が立てられるが、養蚕産業を除いて成績は芳しくなかった。しかしこの時期、「農家組合」が「自力更生」の末端として機能し、銃後を支える集団として形成され始めた。
○1937年
・「召集令状」を受領すると祈願祭/壮行会が行われ、「歓送の行進」で幟/日の丸が振られ、万歳歓呼の中、兵士は村を出た。『露営の歌』(勝ってくるぞと・・)は国民歌の嚆矢である。
・1937年7月「盧溝橋」で武力衝突が始まると、軍は現役兵に「退営の延期」を命じる(2年間の軍隊生活が義務)。内地での戦時動員も始まり、村役場に一度に十数枚の召集令状が届く様になる。
・農村雑誌『家の光』には「召集令状への対応」「被傭人への手当」「出征兵士の生命保険」「慰問袋」「軍事郵便」などの質問が投稿される。
・金沢市では『北國新聞』が交渉経過/戦況/派兵状況などを逐一号外する。第109師団(予備兵、後備兵)は華北、第9師団は上海に派遣される。第9師団は兵力の63%に損害を受けるが、南京に進撃する。
・武力衝突が始まると、千葉県源村からも2名が召集される。源村は村民の共同/村有林財産の確保/貯蓄/軍事公債の応募で「模範村」であった。
・石川達三は農村の変化を記録している。「地主は没落し、小作農/自作農は堅実となった」「働き手の多い家庭に、出征は悪くない」「戦争は家計への期待と、忠君愛国感情を呼んだ」。
・「二二六事件」により反軍の風潮があったが、「日中戦争」勃発により緊張感は高まり、「挙国一致」に向かう。普及し始めたラジオはニュースを放送し、地域の各種組織は「献金運動」を行った。
・1937年8月挙国一致/尽忠報国/堅忍持久をスローガンとする「国民精神総動員運動」が開始される。この運動は「地域」に加え、「家庭」「職場」も対象とした。またラジオ/映画/講演会などを利用し、「在郷軍人会」に変わって、「国防婦人会」などの中堅青年層が担い手になった。
・「国民精神総動員運動」では持続的/実践的な行動が求めら、具体的には「国債応募」「消費抑制」などであった。その評価は、農村では高く評価されたが、都市/漁村では高い評価は得られなかった。
・過去の事変/戦争は短期に終わり、今回も中国だけとの戦争で、南京も陥落した事で、民衆には早期終結の楽観論が占めていた。また戦争の目的は認識されていなかった。
※日中戦争の目的は満州事変(植民地拡大)とは別?単に軍の暴走?
○新しい銃後
・「満州事変」には以下の特徴があった。①兵力動員は限定的。②軍はメディアを利用し「排外主義」「危機意識」を煽ったが、銃後には十分展開されなかった。③国防婦人会/町内会/警防団などの組織が生まれた。④出征軍人の生活保障/労働者の企業への包摂/農村での経済更生運動への影響などの問題が起こった。
・北海道初山別村の郵便局は『かもめの便り』を印刷し、前線に送った。それには地域の朴訥な話が載せられていた。長野県では村報/時報などの「村の新聞」が発行され、「慰問袋」に入れられ前線に送られた。
<村と戦争-農村>
○格差と平等
・1938年までの応召者は農家戸数の1割前後であったが、自作/自小作/小作になるに従って、その率は高くなった。これは既に存在した「不平等」を示していた。
・出征兵士の歓送には公的歓送/私的歓送があるが、私的歓送では旗の数などで差が生じ、「不平等」が可視化された。また出征兵士を送り出す家は、衣服/運賃/旅費/小遣などの費用が掛かった。当然ながら出征による「生産力の減退」に、勤労/倹約/生活切り下げなどの対応が必要になった。
○村の銃後
・兵力の大増員により、「勤労奉仕」が行われた。これにより応召農家の方が、農作業を早く終える状況が見られた。
・新潟県山通村では農業労働者110人が出征により80人に減じ、さらに軍需工業への移動で50人に減じた。しかし青年会/在郷軍人会の「勤労奉仕」により、何とか農作業を終えた。実際には「勤労奉仕」だけでなく、従来からあった「5人組」や親類縁者による「結い」により農作業はなされた。
・農家に工場労働者を多く抱える埼玉県では、「経済更生運動」の「更生委員会」が各家庭の状況を考慮し、「勤労奉仕」を行った。
・漁村である岩手県重茂村では、「経済更生委員会」の下に「銃後後援会」を設け、「勤労奉仕」を行った。しかし漁業はその専門性により、代替が難しかった。
※他に各地での「勤労奉仕」の状況が記されているが省略。
・「勤労奉仕」について全国で調査すると、「希望の時期に奉仕されない」「特殊技術を要する」などの問題が起こっていた。また「出征者が亡くなった場合、何時まで続けるのか」や、応召者の増大/都市への人口流出などへの対応が迫られた。これらから「勤労奉仕」が困難になり、小学生/中学生に頼る地域も発生してきた。
・応召による影響は、実際は日傭人6割/漁業4割/農業3割と、農業への影響は少なかった。これにより都市では魚介類(漁業)/木炭(林業)の不足が心配された。
・農村の忙しさの要因は応召だけではなかった。組合員には兵士の歓送/村葬/祈願祭への参加があった。また地域での団体の乱立も、その要因となった。女性には愛国婦人会/国防婦人会/女子青年団などへの参加が求められた。この多忙により1938年以降、乳幼児死亡率は増加に反転する。
○村の担い手
・日中戦争が本格化すると、農村の若者は商店員/人絹工場/紡績工場/軍需工場へ通勤する様になる。親の方も、都市での高収入を当てにした。
・埼玉県では1年弱で28万人の「移動労力」が発生し、東京市に接する北足立郡では約4戸に1戸で「移動労力」が見られた。全国的にも、京阪地方/北九州地方/炭坑地方への移動が見られた。
・農村の上層農家は次男/三男の「離村定着」が増え、下層農家は戸主/長男の通勤が増えた。
・山口県周南町では海軍関係の軍需工場が、就労中の職工を問わず、強制的に採用した。群馬県太田町では中島飛行機の工場が、周辺の労働力を吸収した。
・そんな中、農業後継者/農業の粗放化/農業生産の減退/土地の荒廃などの問題が起こった。村のリーダーとなるべき教員でさえ、軍需会社に向かう様になった。
・愛媛県新居浜での調査で、①男性は工場労働者となり、婦人が家事/教育/交際を担う様になった。これにより兼営農家への嫁入りは敬遠された。②零細農家の増加で、農地の細分化が行われた。③工場労働者は低賃金であったが、服装/ミシン/ラジオ/蓄音機などを所持する様になった。などが確認された。調査者は、「『結い』などの伝統的社会を維持する事は困難で、農村社会は『打算的』になった」と結んでいる。
・応召されると公務員/工場労働者には手当が出るため、応召を歓迎する考えが広がった。
・長野県下久堅村や滋賀県の農村では土地を捨て、都市に移り住む青年が増えた。漁村である神奈川県福浦村では高等小学校の卒業生全員が軍需工場に就職する状況であった。これは応召による労働力不足より、「青年の流出」が深刻な問題であった事を示している。
・高学歴者(農学校の卒業生)は地域に残らず、教員も転出する一方であった。
・他方農村に残った青年は勤労奉仕/講演会/座談会/訓練などの銃後を担ったが、教養のなさ/行動力の低さ/気力のなさが問題になった。
・「農村には長男が残り、次男/三男は大陸へ」と云う政策基調が出現する。
・女性が都市に向かうのは経済的理由だけでなく、農村に残る「封建的な習慣」を嫌う面もあった。女性が満州に向かうのも、「新しい土地」「機械力」と共に、「封建的な習慣」がない点もあった。
・秋田県醍醐村では県内に働き口が少なく、京浜工業地帯への流出が起こった。彼らは臨時列車に乗り、上野駅に降り立った。
※戦後の高度成長期と同じ感じがする。共通点が多いのでは。
○兵士の帰還
・日中戦争から帰還した兵士は、銃後の緊張感のなさに不満を持った。しかし太平洋戦争が始まると「軍隊的な律動を感じる緊迫感のある街」に変わった。
・宇都宮第14師団は兵士の帰還に関し、軍は「まだ戦時であり、凱旋ではないので、熱烈な歓迎をしない様に」と要望している。他の帰還でも同様の要望が出された。
・長野県泉田村では帰還兵士による座談会/講演会が開かれたが、軍事機密の漏洩/銃後の弛緩を警戒し、これらは厳しく統制された。
<パリのような街-都市>
○街頭の戦争
・日中戦争が始まっても『文藝春秋』『中央公論』の世相コラムは「パリの最新の流行」を伝えた。そこには「スカートが短くなった」「色彩が派手になった」などが記された。
・帰還兵士は「農村では『国民精神総動員運動』が掲げられているのに、都市のこの風俗は何なのか」と不満を持った。都市の風俗は、原色の着物/パリ的/活動的/青年的と云えた。職工の服装も立派であった。1938年内地での綿製品の販売が禁止される(ステープル・ファイバー時代)。
・出征兵士には町内会が中心になって歓送会/祈願祭が行われ、「祝祭性」が強かった。人が多く集まる場所では「千人針」「国防献金」が行われた。
・満州事変を契機に「ラジオ」が普及し、早朝/夜に定時ニュースが流された。
・1937年12月南京が陥落し、翌年10月には武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が陥落する。都市が陥落するたび、旗行列/提灯行列が行われた。
・東京は「人が減った感じはない」「朝晩はラッシュアワー」「スポーツ観戦/映画/夜店、どこも人が一杯」で、戦時の緊迫感はなかった。
・新聞が日本に都合の良い事ばかりを書くので、民衆は明日にでも事変が終結する気になった。しかし戦死者は増え、1938年靖国神社の秋の例大祭では、芝居/見世物興行が制限された。
・1939年中国戦線から帰還した兵士は、「内地では皮革や毛織物がなく、ボロを着ている」と聞いていたが、街が平常時と変わらないのを知る。
・1940年7月「七・七禁令」が施行される。宝石/銀製品/オーダーメイドのスーツ/カメラ/イチゴ/メロンなどの贅沢品の販売/製造が制限された。
・日中戦争が始まり、小売商は「民衆の購買力が減退する一方、経費が膨張した」「店員の希望者がいない」「主人が応召されると、問屋が取引を中止した」などと困惑する。1938年「物資動員計画」により転廃業が深刻な問題になる。
・新潟市では1937年小林百貨店/万代百貨店が開業する。小林百貨店はドロップス/羊羹/ガム/勝豆/チリ紙(※チコちゃん)/美人絵葉書などが入った「慰問袋」のセットを販売した。東京銀座松屋は千人針セットを発売した。
・日中戦争後、名古屋/大坂の百貨店は売上げを漸増させた。これは軍需景気による民衆の購買力の向上が原因である。百貨店は代用品/スフ衣料品の販売で、多くの顧客を集客した。しかし百貨店員は薄給のため、殷賑産業(※軍需産業?)に流れた。
○労働者の街
・某作家の子供は「小学校を卒業すると、近くの会社で職工になるんだ」と言う。軍需景気により、職工になるのが子供の一番の夢であった。
・1932年大東京市の誕生で大森区/蒲田区ができる。両区は軍需景気により、1932~40年の8年間で工場数は4.6倍、従業員数は8.1倍に増大した。
・大森区の一地域で222人の応召があった。大工場に勤務していた人には、応召後も一定の給与が支払われた。一方、理髪業/自転車業などを営んでいた自営業者は救護が必要な状況になった。応召により女性が「授産所」で働く事も多くなった。
・蒲田区の某氏は雑誌/新聞記者を辞め、鋳造機の運転手に就く。しかし間もなく辞めて、旋盤工養成所に通い、大工場の旋盤工になる。彼は「工場は無制限に増え、それに伴い住宅/商店も増えた」と記す。
・1938年地方から上京した少年/少女を調査すると、機械工業(42%)精巧工業(14%)などに就職していた。また勤務地は品川区/蒲田区/大森区などであった。彼らの食住は勤める工場によって差があった。
・工場地帯の商店街の家具店/古道具屋/古本屋などは活況を呈した。
・川崎市は「他県人の寄合世帯」と云われた。公園/喫茶店などは少なかったが、私娼窟は多かった。
・「京浜産業労働調査会」によると、模範的な製鋼工Aは自転車で通勤し、朝6時から夜10時まで勤務していた。同じく模範的な熟練工Bは朝7時から夜9時まで勤務していたが、生活は苦しく、郷里から味噌/醤油を送ってもらっていた。
・1938年9月「物価停止令」、1939年5月「就業時間の制限令」が発布されている。労働者の生活は定額収入(日給、月給)では不足で、臨時収入が頼りであった。労働者は高給を求めて転向した。
<建設の戦争>
○共同
・日中戦争の長期化で近衛内閣は「東亜新秩序の建設」「大東亜共栄圏の建設」を掲げる。1940年大政翼賛会を結成する(翼賛体制)。
・農村では「経済更生運動」で「勤労奉仕」が実施され、戦時体制が整備されていたが、組織の再編成が必要と考えられていた。農村では農業資材が不足する中、増産を要求された。
・1938年「農業共同作業運動」が開始される。「共同作業」は田植えで18%、除草で18%、稲刈りで20%、脱穀で26%と一定の効果があった。さらに共同託児/共同炊事/共同入浴/機械の共同利用などが実施された。これにより「勤労奉仕」は実施されなくなった。※全体主義だな。
・「共同作業」を実施する上で、既存の「結い」の存在が障害となった。「共同作業」は「男女賃金の同一」「出役の自由」などで円滑に実施された。また指導者の能力が、成否を大きく左右した。「共同作業」による合理化で夜の時間が長くなった。また共同炊事により、体重の減少も抑えられ、疲労度も軽減された。
・以前の「農業文学」は、個人主義思想/利己的/独善的/孤立的/排他的であったが、「共同主義精神」に変わった。
○翼賛運動
・1940年に結成された「大政翼賛会」は、調査員を「模範町村」に派遣し、優れたリーダー/共同化の成功/借金整理の成功/青年団・婦人会の活動などを報告させている。
・静岡県新居町は「模範町村」に指定され、幼稚園/隣保館/共同浴場/共同精米所/授産所が設置された。
・某報告者は「優れた指導者がいる地域では良い結果を残しているが、壮年層が活発な地域では良い結果を残していない」と報告している。
・農村では「軍需産業への人材流出」「農民と職工農家が混住するゆらぎ」の中で、「共同作業」の実施/軍事援護/銃後の活動を差配する強い意思を持った指導者が必要であった。それなのに新たな秩序での争いを避けるため、農民は静かになった。
・農村の青年は①戦時動員②帰還兵士との交流による政治的覚醒③通勤労働者化により大きく影響を受けた。ここに青年問題/婦人問題があった。
・青年運動には2類型があった。①青年団運動による勤労奉仕。②「産業組合青年聯盟」(産青聯)による生産的な経済活動。②「産青聯」の運動は自作農の利害を体現し、産業組合を拡充させるだけでなく、医療問題/農村文化の改善/新生活運動で大きな役割を果たした(※難解)。「産青聯」は翼賛体制での「壮年団運動」の基盤になる。
・「壮年団」は1929年「壮年団期成同盟会」が結成された事に始まる。1930年代各地域に「壮年団」が結成され、「経済更生運動」に対する政策提言/地域内の諸団体の統一/地域内の諸問題の取り纏めなどを行う。その活動は「村政改革」型と「生活改善」型に類型される。1936年中央組織「壮年団中央協会」が結成され、日中戦争が開始されると、銃後後援活動/国策協力の中核になる。
・1938年頃「壮年団中央協会」の理事は、「壮年団運動」の政治運動化に反対する下村虎六郎(湖人)であった。彼は「国家は『地域社会』と『職域社会』からなり、『地域社会』は国家と家庭の中間に位置する」と考えていた。また「壮年団運動」の使命は「地域社会」の強化にあると考えていた。また「壮年団運動」は自然発生的/網羅的な運動ではなく、意識的/同志的な運動であるべきと考えていた。
・しかし1940年「大政翼賛会」が結成される頃になると、「壮年団」に対し政治運動化や、地域の中核として網羅的組織となる事が要求される。1942年「翼賛壮年団」は「大政翼賛会」の実戦部隊として、都道府県47団/都市820団/町村10,594団などからなる巨大組織になる。しかし1942年翼賛選挙が終わると、分裂状態に陥る時もあった。
・「翼賛壮年団」は地域の農業報告聯盟/商業報国会/産業報国会を統合し、部落会/町内会に勢力を拡大する。「翼賛壮年団」は配給適正化/増産運動/供出運動/健民運動など、広範囲に運動を展開する。「翼賛壮年団員」は国策の指導者の末端として、「錬成」が求められた。
○産業報国
・慰問金拠出/銃後支援活動は共済組合/在郷軍人会/修養団などの銃後支援活動団体が行っていた。また「国民精神総動員運動」は企業が行っていた。しかし日中戦争が進展すると、今までの組織を超える組織が必要になり、「産業報国会」が形成される。
・家庭に対し「銃後生活刷新運動」が要求される。労働者は「職場への応召」と考えられたが、職工の不健全な生活が問題となった。「銃後生活刷新運動」として就業時間厳守/禁煙/徒歩通勤/家計簿記入/貯蓄奨励などが求められた。この運動に各企業の「産業報国会」が当たったが、職員層と工員層の待遇差異が問題になった。
・「産業報国運動」は「労資一体」の具現を基本としたが、当初は不活発であった。1939年政府主導になり、各職場で「産業報国会」の設置が進む。1940年労働組合が解体され、「産業報国会」が労務管理機構となり、さらに福利厚生/文化活動などに拡大する。
・1940年「勤労新体制確立要綱」が閣議決定される。これには「労働者は国家に奉仕する責任がある」とし、「高い生産性を維持/発展」「職場秩序の一体化」が求められた。
・1941年「5人組制度」(必ずしも5人ではない)が導入された。それは作業方法の改善/不平不満の処理/意思疎通などを目的とした。また欠勤防止/生産性向上/不良品撲滅/無事故/健康増進などの競争単位でもあった。
・この時期、高等小学校を卒業して就職する「勤労青少年」が増えた。彼らには賃金/作業環境/指導者に不満を持つものが多かった。
・1941年「大日本産業報国会」は「産業報国青年隊」を結成する。さらに太平洋戦争開戦後には「挺身隊」が結成される。
・銃後の目的は広くは「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」、身近では「農村共同体」「勤労新体制」「新生活体制」の「建設」にあった。これらの「建設」により、「共同性」の概念が確立する。また各集団で「良き指導者」が待望された。
<地方翼賛文化運動>
○大政翼賛文化部 ※この節だけで1冊の本が書ける。
・島木健作は話題作『再建の生活』『生活の探求』を発表するが、中野重治は「彼は農村を傍観しているだけで、民衆の立場に立っていない」と批判する。
・1940年は紀元2600年であり、「文化運動」が昂揚した年であった。これを推奨/統制したのが「大政翼賛会文化部」であった。
・大政翼賛会文化部は「東亜広域新文化」の樹立を掲げ、「民衆心理」を指導/錬成し、それをなそうとした。
・大政翼賛会文化部長の岸田國士は関東大震災の経験から、銃後の非常時には「健全な社交生活」が必要と考えていた。また彼は「都市が文化的危機にあるのは、生活様式が確立していないため」と考えていた。
・彼は1940年は紀元2600年であり、「共同の娯楽」を主張する。他方待合/遊郭を封建的として、排除を提案する。彼は出征兵士の歓送などの儀式で、地域の美術家/音楽家/演劇関係者が十分に関与していないと批判した。
・大政翼賛会文化副部長の上泉秀信は「地方文化」に携わる。彼は「文化運動」が地方から起きていないと不満を持った。
・彼は山形県での「農民文学懇話会」に参加し、これにより彼の作品は「牧歌的」なものから、農村が抱える課題を取り上げる作品に変わった。彼は「農村の急激な変貌」(職工による離農、職工就職のための進学塾、工場誘致熱、朝鮮からの労働者流入)をテーマにした。「教育」に関しては「娘を町の学校に通わせると、農村の青年と結婚せず、離村してしまう」「小学校の教師は、単に教えるだけで、誇りを失っている」などと記した。
・彼は日本の文化は「地方文化」にあるとしが、非科学的な迷信は打破すべきと考えた。生活と遊離した「教養」「芸術」は否定した。
・1941年興亜奉公日、彼は初めて「隣組常会」に出席するが、都市における「公共性」「協同性」の喪失に失望する。
・彼は農村における部落会/隣保班を高く評価したが、「封建的な個人主義」は批判した。
・1941年大政翼賛会文化部の運動方針/理念は「消費的/享楽的/個人的/非公共的文化を排し、生産的で協同性を持つ集団主義文化を広める」であった。各地域に「翼賛会文化委員会」が設けられ、各種の「文化団体」が結成され、「文化運動」を行った。
・某氏は以前の「文化運動」は孤立的/研究団体/趣味愛好者の団体/利益擁護団体であったが、「翼賛文化運動」は科学者/技術者/医師/新聞人/教育者などの「職能人」が参加し、国民的と評価している。実際「地方翼賛文化運動」は文化職能人と青壮年層の指導者により進められた。
・小都市での「翼賛文化運動」は、①適当な数の文化職能人がいた②職能性と地方性のバランスが保たれていた③他団体との連携が容易などの特徴を持った。
・「北九州文化聯盟」には火野葦平がいて注目された。展示会/講演会/音楽会などが開かれたが、催し物に傾き過ぎで、「国民生活」を対象にすべきと批判された。
・岐阜県高山市の「飛騨文化聯盟」は郷土研究/文芸が中心となった。富山県高岡市の「高岡文化協会」は芸能方面への偏重を避けるため、「華道展覧会」で「有り合わせの器物の華道展」「野生雑草の華道展」が試みられる。
・「熊本県文化協会」の某氏は、「文化運動」は所詮「思想運動」「国体明徴運動」と考えていた。そのため民衆の利己主義に呆れ、協会を脱退し、「熊本市文化報国会」を結成し、「勤皇烈士顕彰運動」を展開する。
・実際は地方都市では、「翼賛文化運動」として映画・演劇・音楽会/芸能祭/後援会/展覧会などが開かれた。
・福島県の「翼賛文化運動」は消費的/装飾的なものから、生産的/実生活的なものに変化した。文化協会は映画/演劇/文芸講演会を断り、厚生運動/生活改善運動/保健衛生運動に変わった。
・地方の「文化運動」の指導者には篤農家/教師が期待されたが、教師に対しては賛否あった。
・長野県穂高町の「穂高文化協会」は精米業/魚屋/画家/彫刻家/塗装/呉服/金物屋/教員/銀行員/骨董屋/謄写/僧侶/百姓/ラジオ屋/新聞配達/肥料製造など様々な人が参加した。彼らは「民衆は優れた叡智を持つが、それを掘り出し磨く必要がある」と考えていた。
・「翼賛文化運動」で有力な担い手になったのが「翼賛壮年団」であった。1943年には翼賛文化団体の理事に、各道府県の翼賛壮年団本部長が就く事になる。
・東京府八王子村では以前から教師/公吏/帰還兵士が「水曜会」を結成し、農村劇や子供向けの「文化運動」を行っていた。やがて全村的な運動になり、壮年団を結成し、診療所の開設/国民健康保険の普及が運動に加わる。
・香川県安田村では政争などから「まるめる会」が存在していた。1936年「煙仲間」となり、幼稚園設置運動/保健運動/結核予防運動を行う。その後壮年団組織となる。1941年「御日待講」での寸劇が好評となり、演劇的な祝祭典行事(文化活動)を始める。
・1942年北海道江差町の「翼賛壮年団」は中学校建設運動/奨学金拡充運動を始める。江差町は漁村のため団員家族の女性は全員、「翼壮婦人会」に参加した。江差町は後継者育成/青壮年の離村/女性の再教育などが課題で、「翼賛壮年団」はその活動を行った。
○職場/工場の文化運動
・「工場文化運動」は産業報国会や演劇/絵画/文学/詩吟などの文化運動集団が比較的大きな工場/企業で行った。
・文学史研究の分野では、「詩作」「詩の朗読」が注目されている。朗読用の小冊子が刊行され、ラジオ/レコードにより普及し、家庭/隣組/職場/戦場に広まった。
・演劇運動が盛んであった「大同毛織稲沢工場」では、大政翼賛会文化部が職場の集団生活と無関係の演劇運動を解散させている。「いすゞ自動車」産業報国会は娯楽/スポーツの団体や「安眠会」「麦酒を飲む会」を認めている。
・ラジオの音楽番組は普及し、レコードの売上も拡大していた。クラシック音楽会は盛況になり、ジャズなどの軽音楽もブームになった。勤労者音楽大会(合唱、吹奏楽、ハーモニカ)の参加者も増加した。
・1940年某精密機械製造工場で青少年700人に調査すると、男性の人気はハーモニカ/浪花節/詩吟/ラッパ鼓隊の順で、女性はハーモニカであった。これに伴い工場でブラスバンド/鼓笛隊が編成された。
・1941年「入山採炭」社での調査では、一番多かった趣味は釣であった。
・「勤労文化」には自発性/創造性が求められたが、余暇利用/厚生運動を超えるものではなかった。
※内容は今も昔も変わらない感じ。
・「石川島造船所」の近藤孝太郎は。1937年産業報国会文化部長に就く。しかし会社の干渉で合唱団/吹奏楽団/ハーモニカ楽団は全滅する。逆に会社の支援を受けなかった俳句/詩の会は活発になり、愛国詩/職場詩は高く評価された。※この差は何?
・彼が「文化運動」で力を注いだのが「絵画部」で、「詩友会」と並び「文化運動」の中枢となる。他に彼は演劇運動にも力を注いだ。
・彼は「工場人は自由に描く権利がある」とし、自由な表現を認めた。また何れの分野でも「互評会」を重視し、集団の中での創作活動で「勤労人格」が完成すると考えていた。職員と工員で身分差がある中、彼は行員と頻繁に話をした。「文化活動」は反戦的となり、1945年彼は検挙される。
・1941年「日本曹達米子製鋼所」では産業報国会文化部を発足させる。その活動は不活発であったが、文化部文芸班が機関誌『火華』を発行し、「相互討論」を復活させると、青年層の寄稿が増えた。
・1941年「大同製鋼産業報国会築地支部」では短歌会「はぐるま」を「水曜隊」に改組する。「水曜隊」は隊長に青年工員を据えるが、上からの圧力で解散される。
・1943年「大日本産業報国会」は「勤労文化」創造から、「疲労恢復」を目的とした「慰安」に路線変更する。
・「大政翼賛会文化部」の中枢の指導者は地域を訪れ「現地報告」を残している。
<銃後崩壊>
○銃後崩壊の諸相
・「銃後崩壊」の過程は①「戦意」の低落、②社会的不平等の深化で把握できる。「内部の敵」「社会的妬み」は「銃後社会の特性」「日本近代社会の編成」を照らし出す問題である。
・1940年「大政翼賛会」の結成で、銃後は到達点に達する。「太平洋戦争」開戦で民衆の「戦意」は急激に高まるが、やがて弛緩し、1944年頃には崩壊する。
・「銃後の経験」としては疎開/空襲/食糧難が描かれるが、本書ではこれを「銃後の崩壊」として扱う。
・大政翼賛会文化副部長であった上泉秀信(前述)は1944年福島県渡辺村に帰農し、村長と共に「健民健兵」政策(診療所開設、共同炊事、保育所開設など)に当たる。その後、疎開者受け入れなどに忙殺される。
・石川県柳田村では文化運動/生活刷新運動の違反者には10倍の村民税(本人半額、隣保班員半額)が課された。
・1940年「女性の生活技術の拙劣さ」が話題になり、「新しい生活様式の確立」に①集団の形成②指導者の育成が必要とされた。「保健婦」は②に該当した。
・1938年「国民健康保険法」で「国民健康保険組合」に「保健婦」を設置する事を定める。「保健婦」は「健民健兵」政策の地域末端の担い手で、結核/乳幼児/妊産婦などを指導教育した。
・1942年「保健婦」が担当地に駐在し、任に当たる「保健婦駐在制」が開始される。
・神奈川県成瀬村(人口3千人)に2人の「保健婦」が配置される。「保健婦」となった某氏は「上からの計画の達成に、あくせくしている」「個々に適応した保健指導が重要」などを感じる。
・高知県の「駐在保健婦」は「民衆は保健婦が何かを知らなかったが、季節託児所で衛生指導すると、理解/協力を得られるようになった」と記している。
・1944年全国で770ヶ所の保健所/支所が設置されるが、空襲で155ヶ所が焼失する。
・「アジア太平洋戦争期」の兵力/農業・工業労働力の動員は「根こそぎ動員」と表現される。食糧需給の深刻化から「製造業賃金と農業労働賃金の縮小」「離農統制」などにより農作業従事者はむしろ増加する。しかし1942年以降、応召の増加で農作業従事者も減少する。
・軍需重化学工業への未婚女性の進出も増える。機械工場就労者12万人中、20歳未満の女性が57%いた(※何れも信じがたい数字)。
・1941年「国民勤労報国協力令」が公布される。①男性(14~40歳)女性(14~25歳)が対象、②年間30日、③奉仕的協力(無償)を条件に「勤労報国隊」が編成される。その後、期間は延長される。
・1944年2月「挺身隊」への参加が強制される。8月「女子挺身勤労令」が公布される。結成状況は学校別4万4千人/地区別9万1千人であった(※この数字も?)。植民地の人(朝鮮人労務者、華人労務者)も「挺身隊」に加えられた。
・「徴用」は評判が悪く、防空監視隊/農業要員などを悪用し「徴用免除」する者が多かった。
・日本鋼管川崎工場は1943年9月より「徴用工」を受け入れる。当月は東京/神奈川より508人、翌月は神奈川/新潟/福島から536人を受け入れた。「徴用工」の給源は中小商工業の自主的/政策的な転廃業者だった。1944年からは学徒動員(13~14歳)からも供給される。
・女性の公職採用(代用教員、役場吏員、産業組合職員)も増える。
・農村では食糧増産のため共同炊事/共同作業も激増する。これにより「家の中が散らかった」「男性は女性に一目置いている」などが起こる。「保母の不在」に対しては、農作業に適さない高齢者が担い手になった。配給物質の不足/不均一により共同炊事の継続は困難になった。
・藤倉工業では短期勤務制(勤労要員)を実施していた。都市部の女性は勤労報国隊/女子挺身隊を支える仕事(寄宿舎の整理、洗濯、縫製、託児、炊事など)で忙しかった。主婦も家にいながら軍需生産(縫製、和裁、刺子など)に従事した。香川県坂出市では大日本婦人会支部がミシンを所持しているかを調査し、所持者は縫裁労働に従事した。
・日中戦争開戦頃から「青少年の不良化」が問題になった。
・某農家の日記に「食糧不足で伯父さん、伯母さんが増えて困る」「竹槍訓練を日露戦争経験者は『今時、竹槍で』と疑問視し、女性は『共同炊事の方が良かった』と言った」などが記されている。
・銃後の崩壊期になると「闇取引」が横行する。軍/軍需工場による「買いあさり」が続発した。敗戦間際になると、地域は軍に占拠された状態になり、「要自粛事象」(軍による横暴/暴行、軍需供出、軍用地の不適切な買収、配給の不公平など)が続発する。
・職場/社会に軍隊秩序が広がり、民衆は不親切/荒々しい言葉遣い/利己的に変わる。
・熊本県阿蘇地方にB29爆撃機の乗組員がパラシュートで脱出するが、大半の乗組員が民衆の暴行で死亡する。
・戦争末期まで民衆の「戦意」は維持された。青年層には高い「戦意」が見られた。空襲により有資産階級は意気消沈するが、無資産階級は「強い敵愾心」を抱いていた。
・「玉音放送」後、予科練であった佐藤忠雄は本隊より「民衆が暴動を起こすかもしれないので、外出するな」と言われた。
○戦争責任
・敗戦により軍は解体する。「大政翼賛会」「翼賛壮年団」は戦時中に解体し、「国防婦人会」は「大日本婦人会」に統合され、「在郷軍人会」「大日本青少年団」も解散する。
・農村での「共同作業」は隣組で行われ、かつてより存在した親戚単位の「結い」と矛盾していた。敗戦後「共同作業」は廃止される。部落会/隣組は軍需供出/国債消化/物資配給などの単位であったが、戦後もこの単位は引き継がれ、農地改革を成功させ、配給制度の単位にもなった。
・森伊佐雄は3ヶ月で除隊になり、その後在郷軍人会に入会し、軍を賛美する『応召兵』を著す。彼は権力に抗する事ができなかった。戦後彼はこの本を回収し、こっそり焼却する。彼は「戦争の真相が判明すると、軍人怨嗟が強まったが、私は直ぐに転換できず困惑した」「東久邇宮内閣の『一億総懺悔』は、戦争責任を国民に均等するもの」と回想している。
・民衆は「指導者」(軍閥、政治家)に「戦争責任」を問うべきとした。村長や県庁の課長以上を「指導者」に含める人もいた。1945年「公職追放」が行われるが、その後も「戦争責任」の議論は各地域に広まった。※そうだったの?
・「村政民主化運動」の中、「戦争責任」を理由に村長の辞任が相次いだ。この背景に配給/供出の不正/不公平があった。
・1946年「産業組合青年聯盟」の後継として「全国農村青年聯盟」が結成される。この組織は封建主義の打破/農村自立態勢の確立/立身出世・都市中心教育の排撃/農民人格の育成/官僚的独善の排撃を主張した。「戦争責任」は軍/財閥/官僚にあるとし、「地方公職追放」を支持し、都道府県の課長以上の追放を主張した。
・「壮年団運動」の「協同主義」の支柱であった小野武夫は、敗戦の原因を「社会的道徳の欠如」「農民の小経営」とした。また「官僚と資本家による私的利益追求」「非社会性/利己心/立身出世教育」を問題とした。
・伊丹万作は記す。「民衆は軍/官に騙されたと言う。軍や官の人は上の人に騙されたと言う。最後は一人か二人になってしまう。一人や二人の智慧で、一億人を騙せるものではない」「騙した人と騙された人を明確に区別できない。日本人全員が騙し合っていた」。
・「戦争責任」問題は「指導者」を措定し、自身を「指導者」と区別し、精神の安穏をはかる態度である。自身を「騙された」とし、戦争に協力した事を忘却する行為である。
・日中戦争中に「反ファシズム運動」を実践し、戦後広島県尾道市の図書館長となった中井正一は、講演で『平家物語』の「宇治川の合戦の先陣争い」を例に、「見てくれ根性」「抜け駆け根性」「諦め根性」が軍国主義/侵略戦争を支えたと説いた。
・近藤孝太郎(前述)は「日本は欧米より、全てで劣っていたと認めるべき」「民衆は清算し、後悔し、将来に備えるべき」と新聞に投稿している。
<エピローグ>
・1950年「朝鮮戦争」が始まるが、見えにくい戦争であった。日本は「共産主義の侵略」として米国/国連に協力した。しかし『読売新聞』の世論調査では、賛成31%、反対57%であった。
・米軍/国連軍に「日本赤十字」(以下日赤)などが募金活動/慰問品の製作などを行った。米軍は「日赤」に救護班の出動を指示する。「日赤」は看護婦に召集状を出し、救護班が編成されるが、抗議により1ヶ月で解散する。
・1950年福岡県の板付/小倉・戸畑・八幡・門司で「空襲警報」が発令される。
・山口県岩国には米軍が駐屯し、「売春街」が形成される。埼玉県朝霞は米軍の中枢となり、「歓楽街」が形成される。「売春」は「良家の子女」を保護する「防波堤」として是認された。
・戦時中に「模範村」であった長野県松尾村では、1949年頃から「村風刷新運動」(=精神動員運動。貯蓄向上、新生活運動、純潔教育など)が始まる。しかし青年達は公民館での補習教育より、定時制高校への進学を求めた。
・静岡県東富士演習場は米軍により接収される。戦時中は軍と地域住民との間に廃弾/廃材/残飯払い下げなどの特恵的契約が結ばれていた。これらは戦後の「基地問題」を考える上で重要である。
・朝鮮人による「反戦運動」を調査すると、朝鮮戦争の開戦直後に街頭で「ビラまき」が行われている。川崎/大森/蒲田は「朝鮮特需」を支える工業地帯になり、「反戦運動」は職場から離れ、街頭で行われた。
・戦後日本は「復興」するが、その決定的な役割を果たしたのは「戦争」であった。
・貿易会社の某氏は「台湾海峡で危機があると、会社が活気づいた。朝鮮戦争の好景気が忘れられなかった」「自分の職務を遂行するだけと納得させた」と記す(※人は変わらない)。
・1980年代に入ると、戦場での「加害経験」が「戦争」を語る主要な「よすが」になり、空襲に象徴される「銃後」はなおざりにされた。しかし一見平和であった「銃後」は「戦争」と無縁であったのか。空襲以前の「銃後」にあった労働/共同/建設/文化/立身出世などは、全て戦場に繋がっていた。世界の紛争地に武力を派遣する事が可能になった今、「日常生活」と「戦場」を繋ぐ想像力を持って頂きたい。
<あとがき>
・著者は歴史学/歴史教育の「二足のわらじ」を履く事を自身に課した。その目標が家永三郎/黒羽清隆であった。
・著者は「民衆が15年戦争を黙々と支持したのは、現実から剥離していく自分達の欲望は戦争が満たしてくれるとの幻想があった」などの課題を持っていた。また著者は戦後の地域史/教科書問題を研究していたが、「戦争責任」を考える上で戦中の「銃後」は不可欠なテーマであり、本書の執筆を引き受けた。